「偲ぶ」 加藤 行
去年の暮れに、食事も疎くなった僕の父親が、老衰のため、あっけなく自宅で息を引き取った。八十七年間の人生を生き抜いた一人の「男」の壮厳な最期であった。父は思慮遠謀に長けて世事によく通じた人柄であった。よく口にしていた「反骨精神」も、父自身の激流のような人生の象徴であったのだろう。父の最期を看取った僕には、父の命を救いたいという強い思いと、やはり大きな自然界の力には勝てないという痛恨の思いが入り混じっていた。一年間のうちに、両親をともに失った痛手を負って葬式に出た僕は、いつの間にか、込み上げてくる怒りと悲しみで溢れ出た涙を拭うことも出来ないでいた。
自宅から突然に人がいなくなって、ひとり残された僕は、親の存在の大きさを改めて痛感させられた。そんな時に、何度となく思い出されたのが、高村光太郎の詩「道程」であった。そこに表現されているのは、大自然のような父親の勇猛さである。僕に欠けている「男としての力強さ」を静かに教えてくれるような気がした。
生前には、父から多くの事柄を学ぶ機会に恵まれていた。悲惨な戦争体験の多くは、戦後生まれの僕に大きなインパクトを与えた。そこで語られたことは、作りもので描かれた戦争物語では知ることの出来ない、人間味のある生々しい現実の出来事ばかりだった。父の乗った商船が爆撃を受けた時などは、隣で片足を吹き飛ばされた直後の船員が、血の海の中で「俺、チョコレートが食いたい」と父に愚痴をこぼしたそうだ。父は戦争体験の影響で、心の奥底には虚無を内在させ、周囲に緊張感を与える人物になったように思われる。その一生は、こころの杖として、酒で支えられていた。そして父の口癖は、「しやあーない」であった。諦感を、いやというほど抱いて、年齢を重ねていくほどに、「仏様のような存在」へと近づいていく高齢者の、ひとりとしての父は、世間知らずの僕にとって憧れの的でもあったのだ。
突然、姉から「熱砂」のテーマエッセイを作文するようにと連絡が入った。そのテーマは「あの人」である。それでふと思い浮かんだのが、テンヨーの中村さんであった。
「手品のバイト、やってみないか?」大学生の僕がデパートの手品コーナーで掘り出し物を物色していると頭の上で声がした。当時、テンヨーのディーラーをしていた中村さんとの出会いであった。仕事が終わると、いつも近くの立ち飲み酒屋で夕食をご馳走になった。それは僕にとって大人の世界の最初であった。ビールのジョッキを片手に赤ら顔で僕にあれこれと話して聞かせた小柄な中村さんの姿は今でも印象深い。中村さんはもともと飲み屋のバーテンダーの出身らしくて、手馴れたカップとダイスの妙技には心底、驚かされた。若い頃は、マジックの勉強でアメリカへ単身、修業の旅へ向かった。しかし、希望に燃えたアメリカンドリームも、海外の手品師たちに、さんざん叩かれて失望のどん底で精神的パニック状態に陥り、ビルの屋上に立って飛び降り自殺を図ったが、その場に踏み止まって断念したのだ、とも聞かされた。
そして、仕事に関しては非常に厳しいことを教えられた。少し遅刻して出勤した僕に、ほとんど口も聞かずに無視をして、僕が辛い思いで帰宅したことも覚えている。仕事は別として、「物事はアバウトでいいんだよ、アバウトで」と、よく口にしていた中村さんだが、後年は、ビールの飲みすぎと心労で肝硬変になって入院しておられた。その以前は、亡き父の勤め先の病院でマジックショーを披露された事もあって、いくどか二人で談笑したこともあったのであろう。父は、中村さんのことを、「熟練された職人肌」を持ち備えた人であると語っていた。しかし、齢、四十歳にして、皆に惜しまれながらこの世を去ってしまわれた。家族を東京に残しての大阪での単身赴任生活であった。
最期の心境は、僕には、とても計り知れない。しかし中村さんは僕に、一人の男の、寂しい背中だけをチラッと見せて、そのまま去ってしまわれた気がする。父も含めてあの世に去っていった人たちから教え与えられることは、あまりにも多く、改めて、更なる努力の念に駆られるのである。そして、感謝の念と、一抹の寂しさが脳裏をよぎる。 (了)