「忘れられない忘れもの」 真伏善人
今はもう広く知られた格安の理髪店だが、当町に突然現れたころのことである。広い店内は明るく、ほとんどが若い男女の理容師であるという話だった。なんといっても早い安いが気になって仕方がなかった。
散髪には苦い思い出がある。行きつけの床屋ではなく、友達がひいきにしていた店へ行ったときのことだ。彼が長髪からスポーツ刈りにしたのを見て、あのように爽やかになれるのなら、この自分だってなれるはずであると疑わなかったのである。朝一番に店の前に足を運ぶが、ねじりん棒が回転していない。おそるおそるドアの取っ手を引いて声を掛けてみると、意外にもすぐに白衣の小柄な主人が手もみをしながら現れた。ほっとして黒革張りの椅子に腰を下ろすが、すぐに不安が襲ってきた。酒臭かったのである。
鋏がいやに早く、そのうちに、「おっ、あっ」と妙な小声を発し始め、髪が食われ出す。「ちょっと真っ直ぐ向いて」という言葉に目を開けると、右側が見た目にも短くなっている。主人は気づいたのか、左側に鋏を入れ出した。これでそろったかと思いきや、今度はこちらの方が短くなった。とりかえしのつかないことに進行して声も出ない。右も左も何度か鋏が走って、スポーツ刈りどころかまるで坊主頭になってしまった。失った髪の毛は戻らない。人目を避けようにも術がなく、うつむいて足を速めるしかなかった。
その後は自責の念もあって、行きつけから他の店へ移るということは考えなかった。ところがこの引っ越し先に、例の理髪店が駅前にでんと構えたのである。待っていたかのように髪も耳にかかりだしている。安い、早い、に加えて近い。これが頭の中を巡り始めて、あの後悔の念が徐々に薄れ、ついに休日の昼下がり、自転車のサドルにまたがった。これまでの行きつけは車で二十分、今度はペダルを踏んでも十分未満。分厚いガラスドアの取っ手を引くと、眩しいほどの店内から「いらっしゃいませ」のシャワー。
順番待ちで店内に目を遣ると、確かに店員たちは皆若い。てきぱきとした動作に、言葉のやりとり。客の回転は速く、次の方どうぞという大声に腰を上げる。まるでモデルのような理容師から、「どうされます」の問いかけに言葉を詰まらせる。軽快な鋏さばきが心地よい。あっというまにカットが終わり、手鏡で後ろ髪の確認を求められる。これといって注文をつける所もなく洗髪、髭そりも手っ取り早く、整髪の鋏を入れてはい終了。
軽やかな足取りで支払カウンターに向かいながら、たしか千円札が二枚でお釣りがあるはずだと、ズボンの左ポケットへ手を入れる。ない!指に触れるものがない。あれ?まさかと右をまさぐるが、こちらにもない。金のないのがはっきりして愕然とする。「どうされました」の問いかけにしどろもどろで「落とした」と目を合わせずに訴える。「落とした? それは困りましたねえ、ちょっとそこで待っていてください」と店の奥に引っ込んでいく。警察かそれとも家人の呼び出しか。そう言われても、家人の電話番号がここでは分からない。面倒な事になる。奥で腕組みをした店長らしき男と話し合っている。
何分かが経って店員が早足で戻ってくると、なにか身分を証明するものはないかと言う。その言葉に応えるには、もう一度空のポケットに手をやるしかない。あれ、ひょっとしたらと、尻のポケットに手を入れると免許証だ。これは助かったと目尻を下げてそれを渡し、一時の放免にあずかる。店員たちのあきれ顔と、待ち客の含み笑いを背にドアを押す。金を忘れたなどと口が裂けても言えなかった。
買いものであれば品物を戻せばそれで済むだろうが、飲み喰いの金を忘れたですむか?同じ思いだった。あんな無様を晒してから何年にもなるが、いつまで経っても忘れられない忘れものである。 (完)