「僕の忘れもの」 加藤 行
僕はとても「記憶力」がいい。そう確信して、かつては青春時代の「受験戦争」をひたすら戦い続けて来た懐かしい想い出がある。それから三十数年が経って、現在、その信念が、意外に、もろくも、崩れてきたのである。ある種の危機感も覚える。しかしこれも僕の加齢的問題であるとは充分に承知しているのだが、それでも何やら歯がゆい気持ちがする。かの、中島みゆきの歌に、「――忘れっぽいのは素敵なことです」という有名なフレーズがあったが、そう簡単に悟りの境地になれないのは、僕が人間的に未熟なせいだ、と断言するのも何だか悲しいものである。
子供時代は、ワクワクするような沢山の大好きなオモチャに囲まれて育った。というのも僕の両親は、子供に何を与えるべきかの判断もなく、ただ放任してきたからである。両親は、戦々恐々とした夫婦ゲンカを繰り返し、忙しいせいもあって、子供の教育も後回しであった。しかし、あまり干渉されないという自由感があり、自分の世界を広げられた良い所もあった。そして学生時代を迎えてからは、いくらかの友達もいたのだが、僕の関心は、友人よりも、ひたすら推理小説の読書に向けられていた。かたや、学校のグラウンドで野球に興じていた同級生たちを、ひとりで物陰に隠れて寂しく眺めていた思い出もある。とにかく、ひとりで居るのが常であった。
高校時代の受験期は、受験用の教科書と参考書が、僕の相手をしてくれていた。どこか漠然とした立派な社会人へのレールが敷かれているような安心感もどこかにあったのだろう。しかし、その頃から、次第に僕の精神状態は容赦なく異常をきたしていた。漠然とした強迫観念が僕を取り囲んでいた。それでも僕はがんばった。精神的な重荷を背負いながらも、僕は大学や大学院で果敢に研究活動に励んでいた。たくさんの微生物を培養した試験管を振り、実験用のネズミを使って記憶と学習の実験を繰り返していた。現在から思い返せば、夢のように、情熱に溢れた青春時代を謳歌していたのである。いくらかの友人たちと、とりとめもなく語らい、漠然とした将来への希望を抱いていたのだ。
しかし、学生時代に別れを告げて、ひとたび社会に飛び込んだ僕は、容赦ない社会人としての厳しい現実に直面して茫然自失とした。大学生活での「象牙の塔」に保護されていた時代とは異なり、企業での仕事と人間関係では、他者と一線を画して、切迫する孤立感に激しく苛まれた記憶がある。そして精神のバランスを崩して、ついには退職し、自宅での孤独な引き込もり生活を余儀なくされた。
僕は大学院時代からすでに、精神科の医師から薬物治療を受けていた。そして医師のアドバイスでデイケアに毎日、通うようになった。そこで僕は、初めて同じ障害を持つ仲間たちと共感して、交流を深めていき、それまで閉ざしていた心の壁が薄れて癒されてきたことを、どこかで感じ取っていた。
そして最近になってようやく気づいた。おそらく僕は、自我に目覚めた思春期から、何につけても、他人を「人間疎外」してきたのだ。しかし、人間を疎外してきたのが、自己の脳の障害によるものだと認識するのは非常に困難であった。これまで、僕は、たくさんの「人間」を忘れてきたのだ。そして「人間は人間によって救われる」という明快な答えを知った。だから、なにより、人と「共感」する気持ちを忘れないでおこう。いつでも「過去に失ったものを再び取り返す」という強い意気込みで、決して、「人生の忘れもの」を後で残さないように、これからも人間との関わりを大事にも持ち続けていきたいと思う。 (完)