「爪を噛んで見る夢は」   山の杜伊吹

 美奈子が職場に復帰したことは、社内のちょっとしたニュースとなった。バブラーと呼ばれる世代ではあるが、まだまだ美しい。ぴったりしたスーツの腰か ら尻にかけてのラインを横目で盗み見る男達の間では、肉付きがよくなった分ダイエットに励んでいた若い頃より魅力が増したという意見が大多数だ。
 東京の女子大を出て、地元に戻り建築会社に就職した。最初はお茶出し兼務の事務職であったが、物怖じしない性格を見込まれて営業職へ転身、持ち前の頭 の良さで図面を描く技術も手にした。建築業界の表も裏も知り尽くし、いつしか会社の顔のような存在となっていた。
 その美奈子が、田舎の理髪店に嫁いだ。一人娘に恵まれ気づけば平凡な主婦となっていたが、多くのキャリアを捨てた女が抱く同じ思い、輝いていた若い頃 に忘れものをしてきたような悶々とした日々を過ごしていた。
「美奈ちゃん、そろそろ職場に復帰できないかな。業績が好調で経験者が欲しいんだ」
 携帯に久しぶりにかかってきた社長の言葉に、迷いはなかった。夫に告げると、「いいんじゃない。収入が増えると楽になるしな」と言った。夫は、美奈子 と社長の秘密を、何も知らないのだ。何も・・・。
 美奈子が勤めていた頃の社屋は、増築に増築を重ねた平屋建ての建物だった。それがいまでは付近で一番高いビルに建て替えられている。(あの頃はこんな ぼろぼろの会社の跡継ぎ息子と結婚するなんて、まっびらだと思ったわ。まさかこんな立派なビルに建て替えるなんて。)洗練された壁、朝日にきらきら光る 無数の窓を見ながら、美奈子は驚き、心底後悔していた。美奈子がまだ熟す前の桃のような果実だった頃、夫と社長の愛は同時進行であった。美奈子はどちらにするか、吟味したのである。
 デートでの強引さ、必死さは夫の方が上だった。美奈子に惜しげもなく金を使い、時間を割いた。すらりとした長身で、夫はお洒落であった。対し、社長は 小太りで服装のセンスも悪く、食事のときはくちゃくちゃと音を立て、箸の持ち方も信じられないものだったのだ。加えて爪を噛む癖があり、それがどうにも 堪え難かった。
 美奈子は夫の手に落ちてしまった。いまとなっては、見かけでは幸せになれないことが骨身にしみて分かる。生活上の一番大きな問題はお金がらみ。多くの 問題を、お金は解決してくれるのだ。そんなことが、なぜあの時分からなかったのだろう。体型や服装や癖がなんであろう。
 社長がまだ独身であると知り、美奈子は心の中で喜んだ。あの女にうとい坊ちゃん社長に下心がないわけがない。(私は間違えたのだ、選択を)(それを伝 えるのだ。そして虜にしてやるのだ)(子どもが一人いるけれど、きっとあの男は受け入れるはず)美奈子の中に、危うい炎が生まれた。仕事でみるみるブラ ンクを取り戻し、魅力を増した美奈子を、社長はずっと遠くから見ていた。その視線を全身で感じていた。
 ふとしたツーショットの瞬間を、美奈子は逃さなかった。濡れた目で見つめる。会議室には誰もいない、社長もなにか言いたげだ。「これ、あなたからも らったブレスレットよ。つけてきたの」「まだ持っててくれたんだ」「気に入ってるから。忘れられないから」「・・・」「後悔してるわ。あなたの思いを裏 切って、傷つけたことを」「いま幸せなんでしょ」「後悔してる。私は間違えたのよ。あなたと結婚すべきだった」「え」「夫とは、もうダメなのよ」
 そこまで言った時、猛烈な吐き気をもよおし、美奈子は会議室を飛び出した。「美奈ちゃん・・・‼」社長の声が遠くに聞こえる。トイレにかけこんだ美 奈子はそこでげえげえと吐いた。まさか・・・月のものが遅れている・・・その事実に気づいた時、夫と娘と、理容室の赤白青の螺旋模様が見えた。  (完)