「花」 平子純
私の最初の娘、直子が生まれた頃、母は直子を背負い花を活けていたのを思い出す。母の活け花は早かった。各部屋に必要なので三十杯は活けなければならない。小さな床の間なら五分、広間は流石、三十分程はかけただろうか。六十才以降は名人の域に達していたと思う。私や母が教わった流派は村雲流だったが、本来はお生花が主で、京都から出発しただけあってお寺に飾る形が多い。しかしお生花まで行くと、花材を用意するだけで時間がかかり、しかも形を作っていくのにすごく時間を要する。
技を使う場合は、まず枝選びに時間がかかる。前々からいろんな所で枝ぶりの良いのを探す。花だけの生花は、線の狂いが許されないので枝花とは一味違う。菊を使う場合が多いが、それも本数が決まっている。その他の花を使う場合は、本当に技術を要する。器も好みのものを使う。陶器は余り利用されない。家元の花はいつも質素だ。古い小さな木を芯に活ける。枯淡の美というのか、お寺向きなのかもしれない。
話は生花にずっと行ってしまったが、母の花に話をもどそう。母は晩年お生花をやっていたが、やはり投げ入れの名手だった。基本が出来ているので、素早く活けてしまう。村雲流では基本の形を天・地・人と言い、三角形を作るのだが、各流派それぞれ呼び方が違うらしい。母は娘時代は松月道古流を学んだ。
三十才過ぎてから村雲流を学んだが、本当に好きだったのは山村御流だったようだ。とにかく花は線が勝負だ。器も大切だ。山村御流はなんでも利用する。無論、古代の器なら言うことはないが、朽ちたものへの好みがあるような気がする。桃山期の芸術のように、整った形とは違う何かを追求している。より自然に近いものを求めているのかもしれない。白洲正子の花の感覚に似ているのかもしれない。
母は晩年、田舎に移り、花に囲まれ生きていた。父の里は土岐市鶴里町だが、本当にいろんな花が咲く。空気が澄んでいるせいか色も鮮やかだ。都会の色とはまるで違う。少し山へ入れば、春から夏にかけて町では見られない花に出会える。不思議なことに毎年同じ場所に咲く。まむし草は、名の如く蛇と同じ形をしているが、毎年採っても翌年には又咲いている。螢袋もそうだ。哀しいことに業は本人が死ねば消えてしまう。枝の多くがそうであるように、個人が死ねば終わってしまう。伝承する以外にない。家元制度に私は納得出来ない部分があるが、伝承という意味では必要なのかもしれない。
先日、坂東三津五郎が死んだ。彼は肉体で表現する芸は自分が滅びれば終わり、ということを良く知っていた。芸事すべて同じなのだ。花とて同じ、人が滅びれば、たとえ花材をすべて用意しようと同じものは出来ない。ただ花には偶然性があり、季節が独特の花材を用意してくれる。母が好きだったのは利休梅だ。
初夏に白い花を咲かせる。その頃に一番活け易いのは寅の尾だろうか。白い寅の尾のような花に小さな星のような花がいっぱい咲いている。どんな花器に入れても様になる。花は季節ごとに変化する。しかし、花は自分が咲かねばならぬ時季を知っているようだ。だから楽しめる。千利休は茶を愛した。茶と花とは一対である。床の間には、必らず花を活けねばならないからだ。特に利休は一輪だけの花を好んだ。侘茶の心を花にも求めたのであろう。花、茶、器、三つがそろって侘茶が完成する。桃山期の器は独特だ。形や紋様がデフォルメされたものが多い。形が整ったものが普通だったのに、この時期は、そうではない。日本人の美意識を変えてしまう程の争乱や血腥い多くの出来事があったのだろう。
秋になると母は白薩摩の壺に縞すすきを活けた。脇には割れもっこう、そして花をそえた。お月見には最高の景色だった。花を語ったらきりがない。亡母の思い出と共に。 (了)
「イスラム国ふなっしー」 山の杜伊吹
いまにも雪に変わりそうな凍るような雨がずっと降り続いている。まだ日中というのに空は暗黒で、目を凝らしても視界はすこぶる悪い。こういう日に事故を起こすんだ、とハンドルを握りながら思う。いっそイスラム国へ行って、死に遂げたいと願う一部の人間の気持ちも分からぬではなかった。カメラもある、記事くらい書ける。ジャーナリストと名乗ってラッカへ行けば、きっと殺してくれる。現地から断片的に送られてくる映像には、花の一輪も生えない一面の乾いた砂漠。砂と土埃まみれの街の片隅に、希望を託す花の姿はない。人々は暗澹とした気持ちを背負いながら、あの色の少ない世界を生きているのだろう。
地球で同時間を生きる同じ人間だというのに、生まれた国、場所、宗教、性別、言語、親が違うだけで、呪われた一生を過ごさねばならない。イスラム国に惹かれて向かう者は、日本にいた時、一輪の花も見えぬ日々を過ごした者に違いない。自分に肉親があれば行けぬ。子どもが人質に捕らわれたなら、悲しみにくれる親のある者なら、決して行けっこない。愛に満たされた事のないこの世で最も不幸せな者を受け入れてくれるのは、あの乾ききった花のない国なのだ。
新しい年はやってきて、少しの晴れ間に希望の芽を見出すも、すぐに地獄へ突き落とす容赦ない仕打ちに、がっくりとうなだれたままだ。未来を担うはずの子どもも少なく、老人とそのペットと借金ばかりが増えていく。子どもの年金を親が自分の年金から国に納めてる。矛盾だらけのこの国に、まばたきを何度しても希望は一向に見えない。いっそ、国を捨ててどこかへ行ってしまおうか。
こんな日にも、どんな日でも、お笑い芸人たちが日本を救っている。あの人たちがいなかったら、どうなっていたろうと薄ら寒い思いがする。いまや日本人に残された最後の魂の救いはお笑いとなったのだ。
ふなっしーよ、生まれてきてくれてありがとう。あなたの黄色と水色の組み合わせが素晴らしい。キラキラが書き込まれた瞳がとてつもなく可愛い。あんな目、久しく見てなかったよ。突拍子のない動きと高い独特の声から、どんな言葉が飛び出すか、目も耳も釘付けなのだよ。あなたのおかげで、船橋の名産がナシであることを知った。その船橋市の公認キャラクターを断られた挫折の経歴。
でも諦めなかったね。最初はキワモノ扱いだったのに、メジャー番組多数出演。大手各社のCM獲得。ナシ味のさまざな製品化。ふなっしーグッズ発売。年末は特番に引っぱりだこだった。水に入ったり空を飛んだり、グルメレポートもして、カラダを張ったチャレンジに涙が出そうだったよ。NHKで文化人阿川さんと対談まで果たすまでになって。すんごい立派なサクセスストーリー。あなたの頭に咲くのは、ヒマワリの花。
ふなっしーの『中の人』、何者なのか。すべて、スケジュールもなにもかも一人でやってるって聞いて、本当にスゴイ人なんだと思う。会話を聞いていてもとっても頭のキレる人で、世の中をちゃんと見てる。フツーの人としても、きっと生きていけるちゃんとした人。ギリギリの危うさを笑いに転換できる第一級のお笑いのセンスを感じたさ。
いつかは『中の人』もメディアに出てくるだろうけど、ふなっしーで稼いで稼いで稼ぎまくってからにして。まだまだ日本人はキミを通して夢を見ていたいんだ。イスラムに行くのはもう少し後にするよ。(完)
「あぁ、淡墨桜」 伊神権太
私も若かった。二十代の後半から三十になるかならないころ。血気盛んな一線の新聞記者だったころの話である。
小説家の宇野千代女史に大変、かわいがられたことがある。岐阜県政始まっていらいの大疑獄とされた岐阜県庁汚職事件で大揺れのさなかだった。当時、私は新聞社の記者として岐阜県警と本巣郡回りをしていた。千代さんとは、その本巣郡根尾村板所(現本巣市)にあった樹齢千五百年の淡墨桜(うすずみざくら)の取材を通じて知り合った。これより先、老いさらばえ枯死寸前だった老樹を目の前にした彼女は地元新聞社を通じて、時の知事平野三郎さんに宇野書簡を出し、老樹の再生と保護を訴えた。このひたすらな声に文人知事平野さんらが快く応じ、淡墨桜顕彰保存会が誕生。以降は若い芽の根継ぎや周りの雑草除去、定期的な施肥などの保護再生に力が注がれた。
私はといえば、志摩半島の鵜方(現三重県志摩市阿児町鵜方)にあった中日新聞志摩通信部から岐阜へ転任してきたころで、あのころは週に一度は、と心に期し、どんなに多忙でも淡墨桜の元を再三訪ねたものである。千代さんとは、その折にたまたま根尾川河畔の桜のお宿・住吉屋さんでお会いし、それ以降は二度、三度と食事を御馳走になり、淡墨桜に関するいろんな話を教えていただいた。お会いするときは決まって、お付きのちょっと美しい女性と一緒で桜の模様が描かれた和服に身を包み「イ・ガ・ミさん。調子はどお」といった具合に微笑みかけてくださった、あの日々は今も大きく目の前に浮かんでくる。ある時など老樹の傍らに立つ民家が根っこの衰えを加速している、何とか移転して頂けないものかといった話になり私が東京の文化庁に電話を入れて自己談判、移転話が本当に実現してしまったこともある。おそらく千代さんの援護射撃があったからに違いない。
そして。昭和五十一年四月十二日、淡墨桜観桜会の日が訪れた。私は、老樹の再生に情熱を注ぎ続けて、この日を迎えた宇野千代さんの満足そうな顔を永遠に忘れることはないだろう。確か、あの時は、千代さんと平野知事=まもなく県庁汚職加担の責任を取り失脚=、当時千代さんが執筆した小説「薄墨の桜」のなかにも登場する、東京平河町の料亭「一条」の女将室谷秀さん(76歳)の三人に桜の前に立って頂いて写真撮影したと記憶している。傍らでは、今は亡き榎本喬中日新聞岐阜総局(現岐阜支社)長=榎本さんは後の石川テレビ社長=ご自身が、取材しやすいように私のカバンを持ったり、傘をさしてくださった。大先輩に向かって〝エノさん〟というのもおこがましいが、エノさんには随分とお世話になったものである。今から思えば、千代さんが私を大切にしてくださったのは、その背後に元文化部長でもあった〝エノさん〟の無言の力があったからかも知れない。
観桜会の日は、あいにくの雨天だったが、千代さんが桜の若返りを平野知事らに呼びかけてから十年の月日が流れていた。その日、老巨木は小説「薄墨の桜」にも出てくる通り、雨の一粒ひと粒を吸いこむように生き生きとよみがえっていた。小粒で薄墨色をした銀の小粒にも似た花々を前に千代さんはしみじみと、こう話してくれたのである。
「ショボショボとなんだか、ひとひらひとひらが可哀そうみたい。でも、じっと見ていると、ちぃっちゃくても大きく見える。花弁も薄墨色の光りを放ち、いっそう妖艶だわ。」
そして最後にこう、おっしゃられた。
「あのね。イ・ガ・ミさん、淡墨桜は年老いても必死に生き、毎年美しい花を咲かせている。村のこどもたちには、こうした根性と同時に、いつまでも失わない若さを保ち続けてほしい」と。私はいまの齢になり、この言葉がよく分かるのである。 (了)
「桜の花とともに 」 眞鍋京子
琵琶湖から流れ出る疎水の両側の堤防には百年も年月を経た桜の木が百㍍ぐらい植えられ、三月の下旬から四月上旬に枝もたわわにすばらしい花をつけ、地元の花見客をはじめ観光客の目を楽しませている。ことしは冬の寒さがきつく、彼岸がすんでも桜の蕾は堅く四月の入学式になってやっと花の蕾が開き始めた。
山口愛は古くから、この疎水の近くに住み、その年の気候によってことしは早く花が咲く、まだまだ蕾が堅いよ、と気象予報士のように周りに知らせて歩く。彼女は高等女学校や女子専門学校を出て中学校へ奉職し主に理科を担任していたが同僚教師に気象についても教わった。結婚し大津へ来てからは植木に興味を持ち疎水堤に植えられた桜の花の開花状況について念入りな観察を始め、桜の開花時には毎年克明に、花が咲き始めた桜の一枝一枝を眺めたものだった。最近は卒寿も間近いのに手押し車を支えに見て歩く。
「こんなに伸びている桜の花を見ていると私も負けてはおれん。百歳までどうしても生きたいなあ」
ふとつぶやく愛にわが子や孫たちは「それは皆で証明してあげるよ。まだまだ桜の木以上にがんばっておくれよ。みんなで応援しているから」と励ましてくれる。でも、こんな温かい励ましにもかかわらず愛は米寿を過ぎたころから少しずつ弱り始めた。気力はしっかりしていて手押し車を押して花見にいこうとするが、歩みの状態を見ていると覚束なくて見ておられない。注意しても「ワシは百を越さなんだと死ねんのなあ」と言い張る。
ある年の四月、桜の満開の時期に愛は「ことしも花見が出来て、こんなに結構なことはない。仏様のお導きや。ありがたいことや」と言って出ていった。しばらくすると町の人の「愛さんが土手から滑り落ちやはったらしいですよ」の知らせに家のものが急いで見に行くと、元気は確かにあり「手押し車のハンドルを曲げそこなって土手から転げ落ちただけや」の返事。
「おばあちゃん、それだけでよかったなあ。けれど救急車で病院へ行ってみてもらわなければ」。というわけで、無理やり病院へ。医師の診断で腰の骨にヒビが入りしばらくの療養を強いられた。これには周りも「おばあちゃん、ことしも桜の花が見られてからのケガでよかった。来年までには、きっと治るよ」とは励ましつつも「この年齢では」とこどもや孫たちの心配は募るばかりだった。
主治医やホームヘルパーに相談した結果、介護用のマイクロバスでベッドに寝たまま空を見上げることに。屋根は全部ガラス窓で透き通っている。クビを横に曲げると、目の辺りに桜の枝が今にもガラス窓から車内に入ってきそうだ。天井からも高い枝の花が車内に入ってくる錯覚を覚えた。この〝花見〟は知らぬ間の工作で愛のこうした花見は二年続き、愛はしみじみ話すのだった。
「世の中が進み、医学のおかげでこんなに足が不自由になっても今までどおり、いや、それ以上に花見が楽しめるようになった。世の中に感謝しなければいけないねえ」と。
そこには、頬をほころばせていつまでも桜の花を見つめる愛の姿があったが、愛はその後、急な心筋梗塞で亡くなり、三度目の花見はかなえられなかった。
寝ているような母を前に「お母さん。疎水の堤防の桜はいつまでも栄えて咲いていくでしょう。安心してお浄土へ行ってください。」
母の笑顔に安心して家族は愛をみおくったのだった。 (了)
「~花はいろいろ~」 牧すすむ
「ではここで花束の贈呈です。先生、中央へどうぞ」。
司会の言葉に誘われて舞台袖から花束を持った生徒が登場。ホールに沸きあがる大きな拍手を全身に浴びながら、差し出された花束を受け取る。美しい花とその束の重みを楽しむように胸に抱え、「ありがとう」と声を掛ける。そして軽く握手を交わす。
にこやかで、それでいて少しはにかんだような表情が嬉しくて又二こと三こと―。
演奏が終わってホッとしたタイミングと重なって、思わず顔がほころんでくる。そして舞台人であることの幸せが心に強く沸き上がってくる瞬間でもある。
私は仕事柄こうして花束を贈られることが多い。普通の人達にはなかなか無いシーンなので、よく羨ましがられもする。
実生活の中でも、イギリスに嫁いでいる娘から毎年私達夫婦の誕生日や結婚記念日等に花が送られて来て、暫くの間、玄関先や応接間を飾ってくれている。
その他にも何人かの知人に折々の花を頂くのだが、花好きな家内は良く手入れをして翌年に又きれいな花を咲かせたりもしている。
花と言えば歌にも花を題材にしたものがとても多い。古くは「上海の花売り娘」、「黒百合の歌」、「白い花の咲く頃」、「この世の花」、「バラが咲いた」等々。近年ではあの東日本大震災の復興支援曲として大ヒットしている「花は咲く」がある。又、私が職業としている大正琴の教本の巻頭にも日本古謡の「さくらさくら」が載っていて、初めて琴を手にした人達が弾ける喜びを覚えるのもこの曲である。
とは言え、レベルアップした「さくらさくら」を演奏会に掛けることも少なくない。特に海外公演等の時、オープニングで使用する曲としては気分も乗りやすく、観客の受けもよいようだ。
三年前ロシア公演に出掛けた時は、前出の「バラが咲いた」をプログラムに入れた。というのも、以前あるテレビ番組で「ロシアには〝バラが咲いた〟を校歌にしている大学があります。」と報じていたからだ。それによると、学長の女性が日本に留学していた頃、この曲が大好きとなり、帰国後に自分が創立に関わった大学の校歌にしたという。
その証拠に、その大学のある市では市民の多くがマイクを向けられると躊躇なく歌っていた。その光景に驚くと共に、「歌に国境は無い」というあの言葉を思い出していた。
そんなこともあって、これを演奏曲の一つに加えたのである。心なしか拍手が一際大きかったように感じたのは私だけでなく、他のメンバーもきっとそう思ったに違いない。
又、昨年ハンガリーと韓国を訪れた折は「花は咲く」を両国の数カ所の会場で演奏した。東日本大震災の復興の曲として、心を込めて大正琴を奏でた。自らの心にも響くように、と念じながら。
私には常々思っていることがある。人は誰でも何らかの輝きを放って生きている。国も職業も年齢も、そして男女の違いも無くそれぞれに色様々な輝きを放ちながら生活している。しかしその輝きが他の何倍も大きい時、その人は人々の憧れを受けて世に出るのだ。世間はそれを華(花)のある人と呼ぶ。
天生の場合もあり、努力もある。いずれにしても自らの輝きを常に磨き続けての結果であることに変わりはない。私も舞台人として人として、そんな華のある人生を送りたい、と心から願ってやまないのである。 (了)