行きは良い良い〱  牧すすむ

「あれっ、ここは何処? 変だなァ」
 ハンドルを握りながら必死に辺りを見回す。
 何か一つでも見覚えのある物を探そうとするが、それらしい景色も何も無い。焦りと不安がどんどん昂ってくるのが自分でも分かる。仕事先の教室へ向かう途中、時間のこともあり近道をしようと方角だけを定め、普段は使わない道へハンドルを切った。
「もうそろそろ心当たりのある場所へ出るころなんだけど…」と思いつつもアクセルを踏み続けることしばし。道はどんどん峡くなり、気がつけばいつのまにか農道に迷い込んでしまっていた。
 バックも出来ないまま更に進むと、突然目の前に川が出現!! 土手道が左右に別れるT字路にブチ当たってしまった。ちょっと躊躇はしたが、なんとなく行けそうな気がして右折する道を選んだ。

 ところが50㍍も進まないうちにそれが失敗だった、と後悔する羽目に―。行き止まりだったのだ。道が無い!! 頭が真っ白になる思いがした。
 よく見れば右側は2㍍以上もあろうかという高い土手。左側は川。然も農業用水なのでガードレールも無く、下手をすればそのまま5~6㍍下の流れの中に滑り落ちてしまう。まさか、今時行き止まりの道があるなどとは夢にも思わなかった判断の甘さに呆然としてしまった。
 助けを呼ぶことも出来ない場所でもあり、仕方なく自力で引き返そうと決意。と言っても、何しろ車の幅ギリギリの土手道を50㍍もバックしなければならないため、その緊張はハンパでない。さらに折り悪く雨まで降ってきたのだ。
 濡れるのをかまわず窓から首を出し、ドアに肘をかけて後ろを見る。左手でしっかりとハンドルを握り静かにアクセルを踏み込むと、まるでカタツムリの歩みのようなバックを始めた。左側のミラーもしっかり睨みながら、先ほど来た道をゆっくりゆっくりと戻る。
 何しろ右側は壁のような土手、左側は豊かに水を蓄えて流れる川。然も降り出した雨で草が濡れ、更に滑りやすくなっている。僅かなハンドルミスでも大惨事だ。

 かなりの時間をかけ、緊張感と冷たい雨でズタズタになりながらも不運が始まったT字路まで辿り着いてUターン、無事迷路から脱出することが出来た。当然、私が教えている大正琴の教室の時間はかなり過ぎていたためケータイを入れて事情説明、とりあえずいつもの道に向かって走り出した。
 しかし、落ち着いて考えれば自分の車にはナビもバックモニターも付いている。真にパニクってしまったということだ。言うまでもなく、生徒たちにはかっこうの笑いの種に―。
 ほんの僅かな時間の短縮と軽はずみな判断が大きな間違いを犯してしまった。思い出しても冷や汗が出る悪夢の一日となった。

 諸君に告ぐ!! 「くれぐれも甘い勘を信じるなかれ」、である。  (完)

間違い常習犯  黒宮涼

「可愛いねえ。おいで、おいで」
 ソファで一緒にテレビを見ていた祖母がそう言って、両手を叩く。テレビに映っている幼児たちを本物だと思っているみたいだ。祖母はもう、テレビを認識していない。実際に目の前にいる人物だと思っているのだろう。もしこの場に家族以外の人間がいなければきっと祖母の行動を間違いだと指摘する人がいると思う。けれど祖母は素知らぬ顔でテレビの中の赤ん坊をあやしている。
 いつからと具体的な時期は答えられない。いつの間にか。気付いたら、そうなっていた。私の祖母は認知症だ。私が大学生の歳になる頃には大分症状が進んでいて、一人で買い物に行こうものなら帰り道が思い出せなくて家に帰れなくなり、警察のお世話になることもしばしばあった。今はもう徘徊が酷くて一人で外を歩かせることができない。
 いつだったか祖母の部屋の片付けをしている時に、あるノートを見つけた。それは病気の症状が出始めた頃の日記のようだった。私の叔母、つまり祖母にとっては娘に言われてつけ始めたものだったらしい。日付はばらばらで、ペンを持つのが覚束ないのか文字は震えている。
『頭の中がおかしい。こわい』
 私はその文字を見た瞬間、これを書いた時の祖母の心情を想像してしまい泣きそうになってしまった。祖母の頭の中で何が起こっているのかはわからない。けれど、そのノートの文字がすべてを物語っているように思えた。そのうち書くことを忘れてしまったのだろう。日記はたった三ページで終わっていた。その中の一ページには祖母の名前が2つ書いてあった。ひとつは書きかけ。途中で諦めてしまったのだろう。祖母はもう自分の名前を書くことも難しい。祖母と共に暮らしていたため、大学を辞めてからずっと近くで祖母を見ていたのは私だった。
 祖母はいつも外を歩いていた。最初の頃は気にもとめなかった。ただ外を歩くの好きだなとしか思っていなかった。祖母が家に帰る道を忘れたと言って近所の人が祖母を家に連れて来た時は衝撃を受けた。近所を歩いていただけなのに、帰り道を忘れるなんてあるのだろうか。祖母は家に帰る方法がわからなくなった。トイレの場所もわからなくなった。トイレに行くことさえ、忘れるようになった。
 歯磨きも忘れ、風呂に入ることも忘れた。
「私はもうだめだわ」
 祖母は口癖のように言う。
「死んだほうが楽だわ」
 ある時、真夜中に祖母が起きだしていつもの弱音を吐き出した。私は「死にたい」という祖母に「そうだね。死んだら楽だね」と同意した。私にもそんな風に思う頃はあったし、祖母の現状を見てもそうかもしれないと思っていた。だから「一緒に死のうか」と言った。すると祖母は「あんた死んだらどうするの。いかんがね」と返してきた。私は驚いたけれど、「そうだね。死んだらいかんね」と頷いた。私はその場に泣き崩れた。
「あんたは大事な子だで」と祖母は言った。それからは「死ぬ」とは言わなくなった。死ぬということがどういうことかちゃんとわかってるんだねと私は思った。
「死んだら、いかんよ」
 祖母は「死にたい」という言葉を「生きたい」という意味で言っている。と母が言った。私も今はそう思う。祖母は色々間違える。言葉も、行動も。はっきり言って無茶苦茶だ。わからなくなったことはたくさんある。けれどちゃんとわかっていることもある。間違えることを恥だと、普通じゃない行動を恥だと思うのではなく、ちゃんと理解してあげることができたならそれはお互いにとって良いことだと思う。
「おばあちゃん、私のことわかる?」
「うん。わかるよ」
 たとえ名前を呼んでもらえなくても、わかっているならそれでいいと私は思っている。生きていてくれてありがとう。おばあちゃん。(完)

間違いの搭乗券   眞鍋京子

 松下進は京都大学を優秀な成績で卒業した。
 ジャイカの一員として多くの途上国や地域で過去の経験を生かし道路の敷設作業に携わっている。一箇所が出来上がるとまた次の国へ取り掛かる。
 雨の多い国であっても、進が工事を始めたら雨は直ぐに晴れあがり作業の能率が上がる。
 進は何十回も飛行機を利用して海外へ行ったが、雨降りにあったことは一度もない晴れ男である。初めて海外出張する若い社員は、ニュースで見聞きする荒天時のエアポケットに恐れをなして、進と同じ飛行機に乗りたいと望む始末である。
 十二月も末近く、時々雪がちらつく日に進は台湾旅行に行く事になった。
「明日は飛行機に乗るのだが、乱気流にならねばよいがなぁ」
「そんな弱音をはかないで下さい。今まで社長は何十回もの飛行でエアポケットに入った事は数える程しかなかったと聞いています。気をしっかり持ってくださいね」
「そうだ。気をしっかり持たねば」
 当日、進の思い通り関西空港を出発した時は、見渡す限りの晴天、しかし進の胸には何かしら何時もと違った胸騒ぎが心の奥にうごめいていた。
「これから気流の乱れる所を飛びますので必ずシートベルトをしっかりしめて座席から立たないで下さい」
 客室乗務員のアナウンスに乗客は緊張した。何時もの揺れとは違った揺れ方であり、皆手に汗を握った。揺れが治まった後、一行は乗務員の指示により乗り換えの準備をした。
 外を見ると乗り換える飛行機の機影が見え、今迄乗って来た飛行機はその真横に停まった。自分が乗り換える機種は理解していたので、直ぐに台湾行のセスナ機に乗り込もうとした。
 ここでハプニングが起こった。
 客室乗務員が進の乗車券を見て立ち止まるように指示したのだ。進は理由が解らず乗務員の手をはねのけようとしたが、手首を抑えられ再度搭乗券を見せるように言われた。進は正気を取り戻し改めて自分の搭乗券を見つめる。まぎれもなく搭乗員の指示したものとは違っていた。
「あなたの搭乗券は別の台湾行のものです。もう一度搭乗券番号を確かめて下さい。先刻乗って来られた飛行機の真横に止まっている飛行機です。それは間もなく離陸しますから急いで行って下さい」
 頭のてっぺんからえぐられた様で、
「そんな事あるものですか」
 押し問答をしている内に
「あなたのものと解ったら、早くして下さい。もうドアが閉まるサインのランプの明かりが点滅してくる時です」
 松下は客室乗務員の指示通りに飛行機を乗り換えた。そこには一席だけ空席になっていた。松下の席だ。
 松下は飛行機を間違って乗り込もうとしていたのだ。機種が同じで行き先が異なるものだったので、間違ったものを脳にインプットされていたのだった。
 もうそろそろ還暦に近づこうとしているが、こんなミスを犯した事は一度も無かった。自分の頭がここまで弱っているとは思わなかった。搭乗券を迂闊に呑み込みそれが脳髄の真から離れなかったのである。思い違いという事は、恐ろしい事である。
 自分の学歴を傘に着て何もかも自分の考えが正しいとの思いは、この台湾旅行で終わりだとしみじみ知らされた。  (完)

                    

これほどの涙が、波のように  山の杜伊吹

 先日、家族4人で名古屋まで出掛けた。独身の頃は通勤で毎日使った私鉄、地下鉄にもここ10年殆ど乗っていない。いつもクルマだが、たまには子どもに〝電車に乗る〟という体験をさせる事も必要と考え、わざわざ電車を使うことにした。
 目的地までのお金を券売機に入れ、ボタンを押し、切符を買う。券売機がすでにあの頃と違っていて、親である私が戸惑う。スイカ的なものもなかった。改札の通り方、切符の入れ方、ホームに行き、正しい場所で待つことを教える。白線の内側の意味。降りる人が先だよ、お年寄りには席を譲るんだ、優先席の意味はね。
 懐かしい栄、あの頃毎日のようにランチしていたパン屋はまだあった。閉店していたショップ、高くて入れなかったカフェ、でもお気に入りの店の大半はもうない。あなたたちの親がまだ娘だった頃闊歩していた街よ、時は流れ伴侶と子連れで同じ場所を歩いてる不思議さ。セントラルパークで、テレビ塔をバックに記念写真を撮ってみる。田舎者丸出しだね、いいよホントに田舎から来たんだから。無邪気に写真に収まる子どもたちふたり。
 夕方になり帰宅しようと、東山線栄駅のホームで電車を待っていた。買い物帰りの客でホームは混雑。電車が着こうとガタンゴトンやってきた時、逆方向のホームに並んでいたことに気づいた。ごめん名古屋行きこっちやったわ、と夫と長男に伝え、反対側に移動。さっきの電車はたくさんの人を乗せて出発した。乗らなくて良かった-と胸をなで下ろし、ふと気がつくと4つの娘の姿がない。
 いない!! 閑散としたホーム、どこを見渡しても娘がいない。慌てふためき、夫と長男で探し回るも身長100センチのあの愛しい我が娘の姿はどこにも見つけられない。そうしているうちにも次の電車が来て、出発していく。改札付近に駆け上がり、血眼になってその姿を探す。さっきの電車に乗ったら名古屋港駅まで行ってしまう。ひらがなを読める程度の娘が自力で戻って来られるはずもない。全身血の気が引く。駅員さんに娘がいなくなった事を知らせ、なす術もなく心配のあまり気が狂う寸前。さっきセントラルパークで撮った写真が最後の写真になってしまうのか、テレビの公開捜査番組や、知らない駅で泣いている娘を、悪いおじさんが連れていく場面が浮かぶ、まさか名古屋港から船に乗せられてどこか知らない土地へ・・・。
 ほどなくして、隣の新栄駅の駅長室で娘らしき女の子が保護されていると連絡が届いた。すぐに新栄駅に向かう。駅長室で、愛しい我が子を見た瞬間、涙が止まらない、娘を抱きしめ声を上げて泣き崩れた。あの時幼い娘は人混みに紛れ、そのまま電車に乗ってしまった。車内で家族がいないと気づき、なんらかの形でSOSを出し、親切なおばさんと一緒に次の駅で降りることができたのだ。駅長室で娘を抱きしめている間に、その親切な方はいなくなっており、お礼も言えなかった。
 誘拐、転落、さまざまに想定される事故を未然に防いでいただいた神の化身だった。そして自分なら見知らぬ子どもが迷子になっていることに気づき、瞬時に電車を降りるという判断をして行動できるか、自答せずにはいられない。あの時のおばさん、有り難う。神様、ありがとう。  (完)

 「間違い」こそ、成功への道

 今回のテーマは「間違い」に、と同人の一人からキツイ提案が出されたとき正直、私は自分のことを指摘されているようで、ギョッとした。「権太さん、あなたの人生を書いたらいいよ。それだけで大いなる間違い続きなんだから」と言われた気がしてウーンとうなったのである。というのは、ご推察のとおり私自身この年まで間違いだらけ、失敗の連続の人生を歩んできたため、その点をズバリ突かれ一本取られたと思ったからだ。世のなか、失敗は成功のもとだ、とよく言われるが、現実は「失敗は失敗の連鎖の始まり」といっていい。でも、分かっちゃいるけど人は過ちを犯し、繰り返すいきものなのである。
「間違い」との言葉に現役だった新聞記者時代の失敗談が洪水の如く、目の前に浮かび上がってくる。人生最初の大失敗として生涯忘れられないのは小学2、3年のころにあった校内水泳大会でのハプニング。ちいさいころから水泳が得意だった私は平泳ぎの校内競泳大会に出場。「用意、ドン!」のピストル音にプールに飛び込んだまではよかったが、水泳パンツのバンドがパチンとはじけて取れてしまい、なんと素裸のままヌード泳法(こんな言葉があるかどうかは知らないが)でおよぐはめに。あのときの恥ずかしさといったら。こども心に人生最初の大恥となったのである。
 屈辱といえば、大学生のころ講道館柔道3段を実力で取った19歳のころの話しだ。当時、自尊心の塊で【ブルース・リー】気取りでいた私は、恥ずかしげもなく仏文科の女性Uさんを大学祭が行われていた学生会館屋上にまで連れ出し半ば強引に自ら書いたラブレターを目の前で読んで聞いてもらったことがある。その場で「そんなにまで言ってもらい嬉しいけれど。アタシ、困っちゃう。アナタ、まだ若いのだから。イガミさん、それにふたりでこうして話しを交わすのもきょうが初めてじゃない」とやんわり断られた。
 いま思えば、あのときの勇気ある撤退、気恥ずかしさも忘れられない。初対面の女子大生を前にいきなりのプロポーズだったが、相手の女性は面食らったに違いない。(私自身は登下校時に擦れ違うUさんが天使に見え、彼女に憧れのようなものを感じていたのも事実だ。それとも、こいに恋していたのか)
 そして。社会人になってからの失敗も生涯忘れることはない。新聞記者の駆け出しとして松本支局でサツ周りをしていたころの話である。その年の夏、上高地臨時支局に駐在。合間を見て北アルプスの焼岳に登山しているさなかに、事件は起きた。読売新聞のヘリが槍ヶ岳に墜落したというのだ。「君の上高地駐在は一体何だったのだ。一番警戒すべき山岳遭難に備えてなのに、一番必要な時につかまらないとは。どこをふらついてたのだ。山の取材で行動するときは、朝のうちにすます。それも相当早いうちに、だ。午後は絶対、離れない―とあれほど言っておいたではないか」とそれまで叱られたことのなかった今は亡き、当時は〝仏の支局長〟として有名だった支局長にどなられたことがある。おかげで初動の遅さが最後までたたって、現場到着が他社の遅れをとる結果となった。
 上高地から帰り、恐る恐る支局に顔を出すと仏の支局長曰く「オウっ、ガミちゃんか。無事、帰ったか。ご苦労さん」と、ひとり酒を飲みながらヒョッコ記者の私の帰りを待っていてくれた、あの笑顔と優しさは永遠に忘れないだろう。 
 ことほどさように人生、間違いと失敗の連続である。不思議なもので周りを見渡すと間違いが多い人間ほど大物になり、大成している。そういう私も若いころ、真珠の海・英虞湾と海女さんで知られる三重県志摩半島で駆け落ち逃亡記者生活を強行、周りをヒヤヒヤさせ通しでなんとか記者道を務め上げ、いまだに失敗につぐ失敗の連続である。この人生。もしかしたら、間違いの積み重ねが大成功につながるのでは。人間とは、間違いをする生きものなのである。 (完)