「いろいろなしあわせ」  眞鍋京子

 この度、「熱砂」の同人から、今回のテーマは「しあわせ」にすると連絡があった。
 平生なにげなく、あの人は幸せだなあとかあの人は苦労しているから不幸だと言ってしまう。また昭和年代に一世を風靡したと言われていた水前寺清子さんの「しあわせは歩いて来ない だから歩いて行くんだよ一日一歩………」
 幸せを求めて歩け歩け、で歩いたものだ。

 津島洋一は京都市の有名高校をトップレベルで卒業後、京都大学の医学部も皆から羨ましがられる良い成績で卒業した。
 専門は循環器であった。最初は先輩の医師の助手になって、一歩一歩会得して行かねばならなかった。簡単だと思われる手術でも麻酔が覚めて患者の笑顔が見えるとほっとする。助手であってもこんなに責任を感じるものかとつくづく思う。最初の患者の執刀は、何時までも忘れられない。
 津島は年を重ねる毎に腕を磨き上げていった。大阪や名古屋での講演会にも呼ばれ名声を博した。忙しい中でも津島の執刀の順番を待つ患者で列をなした。
「この人の命はこの人にしか与えられない。自分の腕で、この人たちの願いを叶えてあげなれば」これが医師に課せられた命題であった。
 津島が医者を選んだのも高度の医学と向き合うプロセスの道のりのみである。幾十人、幾百人の生命を救う事である。自分の命は第二に考えて行くのが自分の命題であると、常々考えていた。

「先生の手術のおかげで、主人は一命を取り戻すことが出来、会社も定年を迎える事が出来ました。一家揃って裕福な年金生活を送らせて貰っております。あの時主人が死出の道を歩み出したら三人の幼い子供を路頭に迷わせていたかもしれません。このように考えますと先生の偉大なお力にお礼の言葉もございません」
 数々のお礼の言葉を受けていた。

 或る朝、いつもの様に洋一は玄関で靴を履こうとしたら、急に唸り声をあげ倒れてしまった。あわてて家族の者が救急車を呼んだ。脳内出血であった。
「津島先生、どうされましたか」
 その時津島はすでに言葉もしどろもどろでよだれをたらしていた。
 主治医が
「津島先生はお気がよろしゅうございますからつい患者さんのお言葉に耳を傾けなさるのですね。僕たち若い者がもう少し先生のご様子を感知していればこんな所まで進まずにすんだのでしょうけどね。医者の不用心とよく言われますが諦めることですね」
 洋一は少しずつ話せる様になったがそれでも医師には戻ることは望めなかった。
 仲間の医師達は
「あのように医学に尽くされた事を思うと、今の先生がお気の毒で仕方がない。早く快復されるのを祈るばかり」とささやきあった。

 しかし洋一は医師仲間のあたたかい言葉かけにそむくように言った。
「僕はこれでしあわせな人生を送れたと思います。他人から見れば、結婚もせず、夜遊びもせず、そんな人生楽しいのかと思っておられるのでしょうが、僕の人生はこれで精一杯だったのです」

 人生いろいろな生き方があるものだ。 (了)