「手」 牧すすむ
「やぁ、おめでとう! 頑張ってるねェ」
満面の笑みを浮かべながら私の手を強く握ってくれた人。中学の時の恩師だ。私が主宰する大正琴の発表会に来て下さっていた。
幕が下りると直ぐ様ロビーへと急ぎ、御来場頂いたお客様方にお礼を言いながらお見送りするのが私達の常。一斉にロビーにあふれる人の波。その一人ひとりに「ありがとうございました」と明るく声を掛け、求められるままに握手を交わす。
出演者は皆、舞台をやり終えた安堵感も相俟って最後の一人までお見送りをする。嬉しいひと時である。
握手といえば一つ忘れられない思い出がある。それはもう随分以前の話になるけれど、私の作曲による新しいレコードの件で歌手の三橋美智也さんのお宅へお邪魔した日のこと、通された応接室での打ち合わせが済んで帰ろうとソファーから立ち上がった時、にこやかな顔で手を差し出された。私もすぐに応え握手をした。が、彼のその手の何と柔らかかったことか。過去に経験したことのないあのほっこりとした感触は今も私のこの手の中にしっかりと記憶され、これから先も決して色褪せることのない大切な思い出となった。
私は大正琴が正職。演奏に指導に毎日多くの時間を費やしている。然し、指の動きもその日その日の体調等で微妙に異なり、同じ曲を弾いても音の走りと気持ちが噛み合わずイライラすることもー。更にそれが舞台の上でとなると焦りすら感じてしまう。“石川啄木”ではないけれど、~じっと手を見る~の心境に陥ることも少なくない。でも、まぁこれもみな自分の未熟さ故の結果なのだから。
と言いつつも、手については嬉しいこともある。前述のように日々の教室を忙しく駆け巡っている私。二時間の授業が終り「お疲れ様でした」と挨拶をして車に戻る。エンジンをかけ発車する際に生徒達が玄関先に立ち、口々に「ありがとうございました」、「お気を付けて」と言いながらあふれる笑顔で私を見送ってくれる。そしてバックミラーの視界の中にはいつまでも手を振る彼女等の姿が見える。
そんな時は私も思わず顔がほころび、教室の疲れも何処かへ消えて行く気がする。それと同時に、「ヨシ!! 明日も又頑張ろう」と自分に言い聞かせ、アクセルを踏む足にも自然に力を入れている私なのである。 (完)
「季節の風を胸に」 山の杜伊吹
友人Aが、言う。
「小6の娘とおんなじベッドで寝ているんだけど、この前の夜、私が手をつないだら、その手をパッと振りほどかれたの。あぁ大きくなったんだなって思った」
周りの子より成長が遅く、幼く見えるその娘さんだったが、着実に成長しているのだ。
子どもを育てているとそんな瞬間に出合う。親は安心するのと同時に、一抹の寂しさを覚えるものだ。ウチの息子は、ここ数ヶ月に1センチ近くのハイペースで身長が伸びて、数ヶ月前にとうとう私と並んでしまった。すごいーっと大騒ぎしているうちに追い越されて、いまでは2センチほど私より大きい。
「どうしてできないの!! この前教えたばかりでしょ。この忘れん坊が!!」と、鬼のように叱りつけながら、アレッ目線がいつの間にか上だ……と気づく。なんだか拍子抜け。迫力不足の感。いかんいかん、これでは効かないゾ。
「まずはそこに座りなさい」。作戦変更。上下関係をハッキリさせるために、お説教の場面では、これからはかならず彼を座らせなければならないことを悟った。足のサイズに至っては、「お母さんと同じだ」 と、言っていたのに、あれよあれよと言う間に27.5センチになってしまった。このスピードに戸惑っている間もなく、小さな日々の変化は、季節の風のように通り過ぎていく。
この春には中学校の入学式があった。数週間前にはランドセルを背中にしょっていた息子が、学生服を着ると、ちゃんと中学生に見えるのが不思議だ。目に見えない中身の成長と、見える成長が一気に来る。カラダが大きくなった分、中身も大人っぽくなったかと思うと、まだ幼いなあと思わせられるし、スーパーなどで客観的に我が子の後ろ姿を見ると、やっぱり大きくなってると驚く。
私がインフルエンザに罹ってしまった。ほどなくして夫と娘もインフルエンザ陽性が判明。強力な菌から息子を守らなければならない。我が家では、子どもたちと一緒に、就寝時には6畳間に布団を敷いて、川の字ならぬ、州の字、ではちと字画が多いが、とにかく仲良く横に並んで眠っていた。「別々に寝ましょう」 と、強制的に布団を子ども部屋に移動し、息子は生まれて初めて(遅すぎ)一人で寝ることに挑戦した。大成功。人一倍恐がりで、寂しがりやであまえんぼの息子は、これまで学校行事の宿泊研修以外で、私と離れて眠ることはなかった。
そして一週間。一人で自分の部屋で寝起きした息子は、私たちからインフルエンザ菌がなくなった後も「そろそろ一人で寝る練習をしなきゃね。今日も一人で寝てみる」 と言い、自然に一人で自分の部屋で眠るようになったのだ。
思えば昨年の今頃は、幼稚園の娘と、どっちがママの横で眠るかで就寝時に大ゲンカをしていたのである。それがこの成長。先日のピアノ発表会では、モーツァルトの『トルコ行進曲』を弾いた。手が小さいからと、ずっと弾くのを許されなかった曲である。いつの間にか、鍵盤に手を広げると、1オクターブ以上届くようになった。手も、大きくなったんだ。
そんな息子の成長に目を細め、喜び幸せをかみしめるのと同時に、自分のおばさん化の現実も直視せざるを得ない日々である。 (完)
「手が可哀相」 平子純
私が手と付き合って六十七年になる。よく私に仕えてくれたものだ。私の手はなよなよしていて指も長くほっそりして労働者の手とは、とても言えない。よく女のようだとか羨ましいと言われる。確かに自分のものながら美しいと思っていた。よく洗い事や包丁で手を使った女性には羨望の的だったかもしれない。
多分もうすぐ死がやって来てこの手とも別れなくてはならない。そう思うと少し可愛そうな気になった。この一年私は病気で寝込む事が多かった。六十歳から酒を飲み過ぎ、私は運動しなかった。すぐ悪い影響が表われ足もとがままならぬようになり、ほんのちょっとした穴に足を取られ転び大腿骨を骨折し入院したのが昨年の四月。手術してさらに別の病院でリハビリもした。
ようやく歩けるようになったが今度は腰が痛くなり退院したものの自宅で寝込むことになった。一カ月半ほど寝たきりの状態で妻に下の世話までさせたが、杖でやっと歩行が可能になったものの今度は脳梗塞で再び入院。四十日あまり治療ののち再びリハビリ病院で百日余入院した。病院では主に足の訓練だったが、たまに手のリハビリもした。手の場合は作業療法師が教えることになっていて、よくグーやパーの運動や手を上げたり曲げたりの作業とか、物を並べたり持ち上げたり、と幼児がするような運動をさせられた。
いまだに健康だった頃のように無意識になんでも出来るとは言えない。特に、左手に障害が残ったようだ。実に怖い病気で人間の脳がよく造られ無意識のうちに脳が神経を通し手や足に命令をするものだと考えさせられた。私の場合、喋りにも障害が出たので本当に人間の体のよく出来たことに再認識させられる。脳からうまく命令を伝達しないと舌は動かないし喉も動かなく声も出せない。呂律も回らず、喉の弁がうまく動かないと音が出せないどころか食も駄目になる。
食が出来ないことは致命的で、鼻や腹から直接、栄養を注入しなければならなくなる。脳はよく出来ていて無意識のうちにすべての器官が動くようになっていて、手も足も体も動くようになっている。どうやって進化したものかは分からない。人知を越えて長年をかけ出来上がってきたのだろう。コンピューターがいかに高度になっても人体のような完成品は出来ないだろう。
さて手に話を戻そう。私は思い出している。女性の髪の間を私の手が伸び、髪と髪をすき、撫でた日々のことを。髪は私の手の中を生きもののように自由に流れ、その一雫が私の手を優しくさすり、私がその手触りに歓喜したのを。私の手は乳房をやわらかくもみ、その動きに合わせ乳房は赤らみ少し膨らんだのを。私の手は、さらに下に伸び腰を撫で女性の持つ大切な泉や柔毛の部分に触れたとき、女性はたまらずちいさく声をあげ、さらに愛撫を求め私は泉の部分から愛液が湧き上がるのを悦び、私自身も声を上げたのを。
私は愛撫をやめ、女性の手に移り手をさすったり噛んだりすると、女性はさらに大きな声を上げ私自身も達してしまった。女性は指の先の爪と指の間の狭い部分に性感帯があるようで、そこを柔らかくさすると女性はちいさな口を開き、からだ自身が細かく動き、さらに泉が液をふきだした。私は、今度はしっかりと二人の手を結び接吻をすると、女性は満足したように微笑を浮かべ、こんどはからだを入れ替え私の体に乗り、私自身を欲しがった。
私は今、つくづく自分の手を見て、もう出来なくなった恋のうごめきを懐かしく思い、次のリハビリ運動に心を入れ換え、先生の来るのを待っている。きょうの作業療法師の先生は、厳しくて手の動きを大きく要求する。私は先生の要求に合わせ手を垂直に上げたり、右や左に伸ばしたり、と忙しい。
再び手をじっと見てみる。右手の中指の真ん中には生まれながらの文筆黒子(ほくろ)が残っている。手には潤いが失せ、乾き、皮膚のための乳液を求めているのに私は薬がないまま放置している。太宰治は小説の中で手が可哀相と言っている。私もつくづく私の手が可哀相と思うようになった。 (完)
「掌を見つめて」 眞鍋京子
寒の戻りか窓を開けると粉雪がガラス戸の隙間から掌の方まであたってくる。この佐智子の掌にはいくつもの思い出がある。それもその筈、佐智子の手はもう米寿を超えている。重なる掌の皺には目に見えない苦労や喜びの思い出が折れ重なるように刻まれている。
数ある思い出の中でも佐智子の脳裡に一番色濃く浮かんでくるのは、第二次大戦後の混乱期の事である。
軍隊では階級の高かった佐智子の父は終戦と同時に職を失い、戦争中に犯した過ちから何時GHQから呼び出され投獄されるかとの不安を抱きながらも、僅かばかりの田畑を借り当座のさつまいもや簡単に育てられる野菜で飢えをしのぐ暮らしをしていた。
佐智子は女学校を卒業し祖母の「手に職をつけておけば一生暮らしに困る事はない」との勧めで専門学校の保育科を目指し、今で言えば幼稚園の教員になった。しかし手先は不器用、唱歌も音痴に近い歌い方であったが子供が好きだった。祖母が保育教育を勧めた訳には一年で卒業し就職出来るとの思惑があった。
当時オルガンしかなく佐智子は楽譜を頼りに子供と共に童謡を歌ったが、子供の顔を見る余裕はなかった。二つ違いの同僚が「自分の知っているピアノの先生の所に、一緒に習いに行こう」と勧めてくれた。
先生は五十歳をとうに過ぎた白髪の老人であった。
ピアノの弾き方は、現在は小学生でもバイエルの教則本で学ぶが、当時佐智子は老教師から逐一教えてもらった。その教えを幼稚園で練習し後日見てもらう。
「この指はもっと強くタッチすればいい音が出ますよ。次はその点を考えて弾いてみて下さい」
始めは手がこわばってどの指が押えているのか感覚が麻痺してくる。しかし、それを乗り越えなければ滑らかな演奏は出来ない。子供を褒めるように、「本当に二人とも上達が早いですね。私も教え甲斐がありますね」と言って下さる。
老教師は永年音楽教師をしていたので指導のツボを心得ていた。
「掌に卵を乗せた感じで弾いて下さい。卵が落ちないよう、気を付けていれば指先のバランスが取れてくるのです」
小指や薬指の使い方を直せば、音のバランスが取れる事に気付いた。基礎的な指導のお蔭でツェルニーやソナタの教則本をマスター出来た。二人は老教師の指導により、本来の幼児教育にも生かせる事が多かった。
二人を教え始めて三年が経って老教師は―
「こんなに上達の早い人達は見たことがなかった。やはり子供の教育を毎日考えておられた為でしょう。もう指の運びも掌の動かしかたも充分身に付けられたと思います。ここで練習は終了致したいと思います」
老教師は涙ぐんで別れを惜しんだ。
自分の思う音が出ず、悩んだことも度々あった。また練習のし過ぎからか掌がぽんぽんと腫れる事もあった。その掌を見る度に老教師の励ましの声が伝わってくる。
その声と共に祖母が選んでくれた教師への道、お蔭でこうして収入のある生活が出来るのも祖母のお蔭だと亡き祖母の仏壇に手を合わす日々である。 (完)
「良い手わるい手」 伊神権太
人生、モノの持ち運びに限らず、いろんな意味で大切な【手】がなくっちゃあ、生きてはいけない。よい面では優しさのあふれる「手とり足とり」から「手当て」「花を手向ける」などホンワカと温かい〈手〉があれば、緊迫したり緊張したりした時には「手に汗握る」や「手につかない」とも。「手みやげ」や「手料理」が日本文化の象徴なら、一方で「手を汚す」「手を焼く」など事と次第によっては、犯罪にも手を染めかねない危険な言葉に変身してしまう。人間だれしも、そんな〈手〉との二人三脚で生きている。
ことほどさように【手】とひと言でいったところでさまざまな〈手〉が、この世を闊歩しており、人間たちは、そんな〈手〉たちに翻弄されつつ、それぞれの道を歩いていくのである。そこには、手痛い失敗の〈手〉があれば、壁となって立ちはだかる〈手〉も珍しくなく、時には落とし穴にはまり立ち上がれなくなるなど、油断できない事態に翻弄されることも珍しくはない。
実際、握手して心から親愛の情を表す〈手〉があれば、実はにせもので笑顔で〈手〉を差し出しこそするものの、表面的なもの(これは選挙などで遊説中のハチマキ姿の候補者にしばしば見られる)、さらには〈こんな手を使ってみたらどうか〉といったような策略を意味する〈手〉などいろいろある。
というわけで、〈手〉はなかなか気を許せない、不気味で一つ間違えば互いの信頼関係が破談となりかねない、そんな危ない存在ともいえる。【甘い手】に乗っかり、うっかりすれば人生の行く手にさえ黒い暗雲が垂れ込める。心の片隅で【悪い手】に騙されないで、と叫んでいるのは私だけか。人間、生きている以上、皆多かれ少なかれ【手】を使って生きているのである。
【手】と聞いてピンとくるのは、落とし穴といったらよいか。罠だ。私自身、かつては切った、張った、の世界を生きるブンヤ稼業(新聞記者)という職業柄もあってか。何度もド壷に嵌まる寸前までいき、危ない橋を渡り続けた。暴力団の覚せい剤密売に始まり、長野富山連続誘拐殺人、大韓機撃墜取材…など。実際、第一線時代は、なんども、その落とし穴の〈手〉に落っこちそうになった。
覚せい剤密売では担当デカの自慢めいた大げさな話を信じてしまい、赤いトンボめがねの女による連続誘拐では単独犯を共犯と報道し続け(他マスコミも同罪。ただ私一人が周辺取材などから女の単独犯を強調し続けたがデスクに受け入れられなかった。この真実は私自身、今も内心で自らの取材力の確かさを自負している)、大韓機が撃墜されたオホーツクの海では本社航空部員に片肺飛行を知らされないまま上空取材を続けるなど、どれもこれも一触即発のなか厳しい日々がつづいた。
【手】による災いは、それにとどまらない。これも、ある面では手を誤ったといってよいのかどうか。自分では「良かれ」と思って取った強い姿勢が誤解を生み、多くの大切な人々が私を見限って私の元から離れていったことも事実だ。風の盆恋歌の町・越中八尾では生涯の友だったはずの女性が、私の泊まったある宿に他の人も泊まっていた、というそれだけの誤解から、私の元から去って行った。ほかにもそうした話が降っては湧き、湧いては消えた。
ことほどさように【手】の存在は怖く、かつ魅力的だといえよう。そういう私自身、結婚後はずっと【妻の手のなか】で泳がされてきた。良きにせよ悪しきにせよ、今こうしてあるのはそのおかげだと感謝している。最後に手酌でもしながら他の【手】をここに列挙すると。
――手練手管に長ずる、手に余る、手勢、手を打つ、手もない、手立て、手ぐすねを引く、手ごわい、手にあまる、手が速い、手がつけられない、手が届く、手が離れる、手に掛ける、手を切る、引き受け手がない、手鏡、手製、手ぬるい……。
まさに、波乱万丈の【手たち】がそこには横たわっている。そんな〈手〉を、生かすも殺すも、それは自分自身か。 (完)