「嵐」 平子純

      1
   勧酒 于武陵 唐詩撰
   勧君 金屈卮
   満酎 不須辞
   花発 多風雨
   人生 足別離
 
 井伏鱒二の訳
    この盃を受けてくれ
    どうぞなみなみ注がしておくれ
    花に嵐の例へもあるぞ
    『サヨナラ』だけが人生だ

 余りにも有名な漢詩と井伏の名和訳
 私の人生の中で出会った人々の多くはもはや鬼籍に入っている。頭の中で数々の人々の 思い出が駆け巡ってくる。人は短い生の決まりの中で日々を送り別れていく経験をしなくてはならない。だから美しいとも言える。酒を飲み花が乱れ落ちるのを見ながら一言サヨナラと別れなくてはならぬ定めである。

 武陵は多分武人だったと思う。武人は別れを前提に剣を振っている。敵もまた一期一会である。

      2
 愛の嵐というイタリア映画を再度見た。ヨーロッパ各国にとってナチをいかに清算するかが大戦後の問題だった。ヒットラーという怪物ナチズムの嵐、ヨーロッパ各国はそれぞれ戦い戦後はいかに総括したか、映画は男女の愛欲を通し描いている。解説はしないが人間という屈折した存在をみごとに描いている。ドイツが何故ナチを受け入れ八〇%以上の人がヒットラーを総統にまで押し上げたか、病理学者のE・フロムは著作『自由からの逃走』の中で、ドイツ人の心を解剖した。

 イタリアはポーランドはフランスは?
 日本人の多くは余り知らない。映画を通して少し知るだけだがいかにヨーロッパの人々が傷を治していったのか日本人はもっと知るべきだろう。日本人は太平洋戦争後、軍国主義との戦いをGHQに任せ、天皇とマッカーサーのタッグで何とか乗り越え日本人同士の殺し合いをすることはなかった。幸せと言えるだろう。外国ではそうでないことを再認識せねばならない。
   
      3
 昔児童文学でシュトレムの『白馬の騎士』という本を読んだ。伊勢湾台風直後だったので強烈な印象が残っている。堤防を守って死に、その後も亡霊となって堤防を守り続ける物語だが幻想的なその作品はフロイトを生んだ国ならではのものだ。雷が鳴りその閃光に浮かび出された白馬に乗った騎士の姿は鬼気迫るものがあり子供には余りにすごい映像として残っている。
 嵐といえばもう一つ。トロイヤ戦争後、旅をするオデッセイが船に乗っている時大きなハリケーンに襲われる。その時出てくるのがメンデゥーサだ。ヨーロッパ人は地中海を旅する時やはり海が荒れる時が多かったのだろう。
 波が荒れ狂う姿をメンデゥーサという怪物の型で表現したのだろう。ギリシャ神話や日本神話は、幼い私に想像力を与えイマージュする力を与えてくれた。
 吟遊詩人ホメロスの脳は盲人ならではのイメージにあふれていたのだろう。
 伊吹山で殺された日本武尊も山で嵐に襲われ討ち死にしてゆくが、神話ではやはり荒ぶる山の神として賊を表現している。神話の世界はどうしてこうも東西を問わずイメージに溢れているんだろう。文明が進むにつれ現代人はその力を次第に失ってゆき、ポケモンGOの中で架空の対象をかろうじて見つけ出すのだろうか? (完)

   

「嵐」 牧すすむ

 少し前のこと、仕事上がりにコーヒーを啜(すす)りながら居間でテレビを観ていると、懐かしい場面が流れ思わず見入ってしまった。そこには入院した病院の屋上から大勢のファンやマスコミの人たちに明るい表情で手を振る石原裕次郎の姿があった。そして傍らに寄り添う妻の北原三枝と渡哲也の顔も見えた。
 このシーンは今もはっきりと覚えている。
 石原裕次郎といえば「日活映画」を支えた大スター。百八十二センチの長身に加え、股下が九十センチ。胴長短足が当たり前の日本人の中に突如現れた〝ナイスガイ〟!!  その人気は凄まじいものだった。

 昭和三十一年に兄である石原慎太郎原作の「太陽の季節」(芥川賞作品)で鮮烈デビュー。老若男女を問わず、瞬く間に日本中の心を虜にしたと言っても決して過言ではないと思う。
 そしてその後、彼の後を追うように「日活」には新しいスターが次々と誕生。小林旭、宍戸錠、二谷英明、赤木圭一郎等々――。同じく女優勢も華やかだった。後に裕次郎と結婚した北原三枝を始め、浅丘ルリ子、白木マリ、吉永小百合、松原智恵子他、今も第一線で活躍している人達も多い。
 一方、時代劇では「松竹」等が中村錦之助や大川橋蔵という美形スターを生み、人気を集めていたのを覚えている。テレビの画面に映し出される様々な懐かしい映像に、いつしか私自身の心もその時代へとタイムスリップしてしまっていた。

 石原裕次郎のカッコ良さに魅せられたのは、中学生の時。学校で禁止されていたジーパンをこっそり学生ズボンの下にはいて登校したり、溢れる程のブロマイドを買い集めたり。とにかくその憧れはハンパないものだった。
 又、〝裕ちゃん〟は歌手としても超一流!! 中でもクラスメートとよく歌ったのが同名の映画の主題歌「錆びたナイフ」だ。

♪ 砂山の砂を 指で掘ってたら まっかに錆びた ジャックナイフが出て来たよ ♪

 それまでの歌謡曲では全く考えも付かない強烈な歌詞に、少年の心は揺れに揺れた。正にジャックナイフで胸を突かれた程の驚きを持って聞き、そして夢中で歌い大人の世界を少しだけ覗き見た満足感を覚えたりもした。当時のクラスメート達(男子)も一様に、心は皆裕次郎であったにちがいない。それ程に彼の存在は大きかったのだ。
 昭和三十二年封切りの映画「嵐を呼ぶ男」では笈田敏夫との有名なドラム合戦があり、〝やくざ〟との喧嘩(けんか)で痛めた手を休め突然目の前のマイクを掴んで、

♪ 俺らはドラマー やくざなドラマー 俺らがおこれば嵐を呼ぶぜ ♪

と歌いだすシーンは半世紀以上経った今も忘れることが出来ない。胸躍る私の青春の一齣だったのである。
 その後もスーパースターであった彼は映画にテレビに歌にとマルチな活躍をし、男らしいハスキーな声で甘いラブソングを数多く歌ってくれた。
「ブランデーグラス」「銀座の恋の物語」「北の旅人」「夜霧よ今夜も有難う」等々。今も高い人気を保っている曲ばかりだ。カラオケでも常に上位にランクインされているのが嬉しいし、きっとこの先もそうあり続けることだろう。

 五十三才の若さで旅立った偉大なヒーローは昭和の時代を嵐のように駆け抜けて行った。私達の心に〝青春〟という永遠に消えない素晴らしい贈り物を残してー。 (完)

「あゝ 人生とは」  伊神権太

 嵐は日々、この世に生きる全ての人に荒波の如く押し寄せている。人々はそうしたなかを生きてゆかねばならない。みな懸命に日々を過ごしているのだ。いや、この世のありとあらゆるものが、時には〈悲しみの海〉の中を泳いでいる。
 嵐にもいろいろある。伊勢湾台風や室戸台風、地震、雨などの自然災害があれば、人生の行く手に立ちはだかる〈壁〉だってある。進学、就職、病、事故、家庭破壊、失恋、各種トラブルと限りない。「思い通りにならない」ことだって、その人にとっては人生の嵐に違いない。

 私の場合。自然災害の嵐で忘れられないのは、昭和34年9月26日に体験した伊勢湾台風だ。その日は雨戸という雨戸を兄と妹、両親と私の一家5人で手がちぎれそうになりながら命がけで抑えていたがとうとうバリバリバリッ…、という大音響とともに吹き飛ばされ、私たちは吹きさらし同然となった家屋を捨て母の実家の土蔵にたどりつき、そこで一夜を過ごした記憶を鮮明に覚えている。
 そして。その後になって知ったが、この伊勢湾台風の襲来で思いがけず、江南市内の民家土蔵で発見されたのが前野家古文書、すなわち戦国時代の興亡が書かれた書物「武功夜話」で、この書物により、ここ尾張一円が織田信長、豊臣秀吉を育てた舞台であることも分かったのである。「武功夜話」の発見と解明により、その後、遠藤周作さんが小説「男の一生」を書き、歴史家の注目を集めたことは知る人ぞ知る。
 そんなことがあり、武功夜話の存在に触発されたためもあってか、私たち3兄妹は少年少女のころ毎週1回、今は亡き父に吉川英治の〈新書太閤記〉を読んで聞かせられた。父は、この地は信長と秀吉が育ったところだという事実をわが子に知らせようとしたのかもしれない。私は父の死後、あらためてこの〈新書太閤記〉8巻を読破。今になって信長を陰から支え続け信忠、信雄、徳姫の3人の子をもうけた吉乃(きつの)のことを執筆しているのである。これも何かの縁か。

 台風でもうひとつ。平成3年の秋だった。私は当時、新聞社の七尾支局長として能登全域を管轄していたが、猛速台風19号が深夜から未明にかけて駆け抜け、能登半島の各地で観測史上最大の風速(輪島で瞬間最大風速60余㍍)を記録したことがある。あのころは、幼かった末っ子も加え一家5人で支局長住宅のガラス戸などを抑えていたが台風が通過したあと、わが家を見ると屋根瓦の3分の1ほどが吹き飛んでいた。
 こともあろうに、翌日が全能登駅伝(輪島から珠洲、能都町を経て七尾に戻る内浦コース)初日で前夜から台風の警戒取材で一睡もしていなかった記者を愛用のパルサ助手席に乗せ出発点の輪島に向かった。行く手には倒木がゴロゴロしており、やっとの思いで輪島に着いたが市役所のガラス窓はめちゃめちゃに破損。輪島通信局の瓦は吹っ飛び、看板もズタズタで惨憺たるありさまだった。
 それでも全能登駅伝は強行され、2日間にわたる駅伝が繰り広げられた。駅伝2日目の未明、私は能都沖の定置網の台風による被害状況をこの目で確かめたくなり船で沖合の現場へ。定置網はどれもこれもズタズタで無残な姿だった。その後、七尾の支局長住宅の屋根瓦は修復され、輪島通信局は建て替えられることになり一年後には、地方の通信局舎では1、2を争うほど立派な局舎がたてられたのである。

 最後に。過去、1番痛烈だった嵐といえば。それは高校1年の5月13日に柔道の練習中に稽古に訪れた先輩に捨て身小内刈りをかけられ、右足を複雑骨折。翌春までほぼ1年、自宅療養と自宅学習で通学できなかった、あのときの悔しさである。幸い私はそのまま2年に進級。大学にも入れ柔道もその後3段をとり、記者にもなれた。ほかに、社会に出てからは反対を押し切っての志摩での駆け落ち結婚など、何度も人生の嵐に襲われたが、どれも乗り切った。だから辛うじて今がある。そう信じている。(完)

「恐ろしい嵐の思い出」 眞鍋京子

 一九三四年(昭和九年)九月二十一日に高知県室戸岬に上陸した室戸台風は、近畿一円で約三千人の死者行方不明者を出し、滋賀県下でも草津市などで多くの被害が出た。県内では瀬田川鉄橋で強風のため急行列車が転覆するなどして四十七人の死者が出たという。草津市北山田町の山田小学校では教諭と児童十七人が亡くなった。
 小学2年生だった、ある少女の場合。その日は登校にもひと苦労するほどの雨と風だった。傘は役に立たず、雨合羽を頭からスッポリかぶって学校へ急いだ覚えがある。確か一時間目は国語の授業だったが、始まってまもなく吹きすさぶ風に耐えきれず、ガラスが割れた。それをきっかけに建物が船のように横に揺れ始めた。三〇度か四〇度は傾いたのではなかろうか。
 担任は緊急の職員会議で呼び出されており教室には児童たちだけが残されていた。少女は、不安で、不安で仕方がなかった。教室の隅で震えていると先生が戻り「外に出ろ」と叫んだ。混乱のさなか、少女と同じクラスだった堀井和夫さんはあわてて外へ出ようとしたが、飛び散ったガラス片か何かで右目の上を3糎(㌢)ほど切った。が、それに気付いたのは、数日たってから。それほど必死で命がけの脱出避難だったという。
 校舎は倒壊し顔なじみだった田中儀三郎教諭と児童ら十七人がその下敷きになり亡くなり、帰らぬ人となった。「先生が児童を守ろう、と覆いかぶさった時には木が直撃していたと聞いてます」と、その少女。何本も木が折り重なるありさまは当時助かった子どもたちの脳裏に深く刻み込まれ、台風が来るごとに頭に想起させられてきた。
 この嵐の恐ろしさを忘れることは生涯、出来ないだろう。何かの形で伝え、残していくことが命拾いをした当時の私たち児童の果たさなければならない大切なことだと考えました、と述懐するのは堀井さん。そのご、ことあるごとに悲惨だった室戸台風の体験談を語り続けてきた堀井さんは、そうして当時のありのままを伝えていくことこそが、生き証人としての〈生の伝達〉だと信じてやまない。

 九月二十一日の命日。当時生き残った児童はもとより台風に関心を持っている人たちが学校の講堂に集まった。そして。堀井和夫さんは過去の体験が少しでもはっきりと伝えられるように、と言葉を探しながら、語った。体験を聞いた六年の松下一美さんは「自然の力の大きさや怖さや、自然を敬う気持ちを忘れずにいたい」と誓った。
 室戸台風の辛かった体験を後世に伝え続けたい。そんな思いでどこまでも語り続ける堀井さん。かつての少年はそのつど満足感を肌で感じて帰ってくるのだったが、堀井さんをはじめその時の体験者は今では皆、九十歳を越えようとする高齢者ばかりで堀井さん自身も年を重ねる毎に体力が衰え、記憶は鮮明でも言葉が続かない。そんなことが増えてきたという。
 学校によると、被災当時の児童はほかにも数人いるが、いずれも高齢のため、学校に出向いて話すことは難しくなった。今後は自宅と学校を結ぶ遠隔授業などを検討していきたいとの話ではあるが、具体策が出てくるまでにはやはり日時がかかるという。
 堀井さんはこれまで「何年も体験者として在校児童らに当時のことを話してきたが高齢なこともあり、今回で最後にしたい」と考えている、と話した。そして一方で「慰霊式典は続けていってほしい。それが死者に対する何よりの供養になる」と訴えて講演を結んだ。
 皆さんの記憶が忘れられたり、うすれたりすることが怖い。自然災害は何時くるかわからない。自然災害の勉強をして万一にそなえなければならない。室戸台風に襲われたとき。私、眞鍋京子は小学二年生で大津の小学校に通学していた。祖母に迎えにきてもらった、あの日のことは鮮明に記憶しており背中に負われ随分の時間をかけ、自宅に帰った。途中、三井寺さんの境内では何本もの杉や松の木が見るも無残な姿で倒れており、そうした木々を避けながらやっとの思いで家にたどり着いた記憶は、この先も忘れることはないに違いない。
 それは私だけではなく、室戸台風を経験したすべての人に共通するような気がしてなりません。自然は怖い。あなどってはいけませんね。(完)

「あらしの記憶」真伏善人

 これまで一番印象に残っている嵐は、1962年9月第二室戸台風である。当時、裏日本の越後平野に住んでいた身としては台風というものは、ほとんどが太平洋側の地域に上陸して被害を与えているのだとおぼえていた。1959年の伊勢湾台風では、数千人の犠牲者を出したその恐ろしささえ、まるで他人事であった。当時のニュース情報は、新聞と古ぼけた木製縦長のラジオだけで、中学生だったことを考えるとその程度の認識であったのだろう。そこへどうもこちらへ大きな台風が来るらしいと、当日の昼近くになると両親が色めき立った。
 どの程度のことかと想像もつかない中学生としては、親の顔色を見て台風をやり過ごすことしかない。家はまだ建てて数年しか経っていなくて、まず大事にはならないだろうと思っていた。来るらしいということは承知していたのに、これを準備して被害を防ごうということもなく、時が過ぎていくと風が出てきた。みるみるうちに強まり夕刻になると、風音と共にガラス戸がガタガタと震え始めた。唸りわめく風が襲いかかり、外では何かが飛ばされ転がる音がする。南に面したガラス戸が軋んで、今にも外れそうに見える。これはまずいと思ったのか、父が長男に部屋の畳を上げてガラス戸を押さえろと言う。長男が身体をあずけ押さえているのを見ていると不安になり、手伝おうと近寄った瞬間、パリーンという音と共にガラスが割れ、怒涛の嵐が殴り込んできた。
 こらえきれない兄が後ずさりすると同時にガラス戸が吹っ飛び、続き部屋のガラス戸と窓が吹っ飛ぶ。身の危険を強く感じた家族七人は、四畳半のドアを押して逃げ込んだ。ドアを閉めて身体を預ける兄。家の中を吹き抜ける嵐のすさまじいほどの唸り声。やり過ごすしかない無念さと、屋根が飛ばされないかという不安がよぎり、祈るようにこぶしを強く握る。どれくらいの時間がたったのだろうか。とても長かった恐怖の時間は、風音が弱るとともに過ぎ去って行った。避難部屋から出ると家中は見るも無残な状態であった。呆然と見回すだけで手のつけようもなかった。両親が深いため息をつくと、皆がそれにならうようにため息をついた。
 翌日は学校へ行くつもりで勉強道具を集めようと、風雨にかき回された部屋の中を探し始める。さして広くないスペースに、どうしてこれがここにという、わからない物やゴミが重なり合い、探し物ははかどらない。困ったことに鞄は見つかったものの、肝心の教科書が何冊か見当たらない。どこにといえば家の外へということになる。暴風は南のガラス戸を突き破り、北の窓と東のガラス戸を吹っ飛ばしていた。東隣との距離はさほどなく、あれば見つかるはずだ。だが北側はずっと続く稲田である。わずかな希望をもって目をこらしてみるが、らしきものは見当たらない。この広い稲田をどうやって捜せばいいのか。途方もないことに焦点を失った。自分のものは自分で捜すより他はない。よく分かっているつもりだが、現実は目の前の広い稲田だ。たとえ見つかったとしても破れてしまい泥まみれか。それを思うとあきらめの気持ちが湧きあがり、踵を返した。
 学校を休むつもりはなかったし、休めとも言われなかった。あるだけの学用品を持って家を出た。校門が近づくと何とも言えない重苦しさが歩みを遅らせた。教室に入ると台風のことでざわついていた。誰とも口をきくことなく席に着くと、やがて担任の先生が現れ、やはり台風被害の有無を聞き取り始めた。席が前から二番目なので何人が手を挙げたのかは分からなかった。ざわめきは小さく、そう何人もいるようではなかった。いきなり先生から問われ、家のことは話さず教科書を失ったことを聞いてもらった。先生は少し間を置いて、それじゃあとりあえず一緒に見せてもらえと、隣の生徒にも促した。その生徒はクラスで一番小柄で、僕が二番目だったと思う。お互いがいじめられっ子だったが、彼は闊達で反骨心が強く、何事も消極的な僕とは大きく違っていた。僕より小さいとあって何度か悪づいたり小突いたりもしたが、彼は快く隣に寄せた机を迎え入れてくれた。それを機に仲が良くなったのは、台風がもたらした恵みともいえるのではないか。
 もう半世紀以上になる。あの台風はこれまでの中で最大の災いであった。この愛知県という太平洋側に住むようになってからはこの季節になると、発生から進路まで気になって仕方がない。はるか南海上にあるうちから、あっちへ行けを繰り返す。あっちの人は聞いたら怒るだろうが、あのような経験をしたものであれば、そう願わずにいられないだろう。この地に来てから幸いにも直接的な被害は記憶にない。だが自然災害は、何時どこで起こるか分からない。
 台風が東海地方に近づくと、風の気配を感じる前から防災行動にかかる。笑う家族に何と思われようとも、あのとんでもない台風で打ちのめされたことを思い出すと、臆病心にスイッチが入るのである。  (完)