「語り継がれる歌〈琵琶湖周航の歌〉」 眞鍋京子

♪われは湖(うみ)の子 さすらひの
 旅にしあれば しみじみと……
    (小口太郎作詞 吉田千秋作曲)

 夕方五時、大津市役所からは「琵琶湖周航の歌」がメロディーになって流れて来る。退庁の時刻を知らせる音楽である。
 琵琶湖は日本で一番大きい湖である。我々は湖(みずうみ)とは言わず海と言っている。一九一七(大正六)年六月二十八日。そんな湖に魅せられ、歌に引き寄せられた人々が紡いできたのである。生みの親は、旧制三高(京都大学)の学生だった小口太郎(一八九七~一九二四年)。水上部(ボート部)の琵琶湖一周の途上、今津の旅館「丁子屋」でクルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と、歌詞を披露したとされている。
 流麗な七五調は、当時流行していた原曲「ひつじぐさ」のメロディーに乗せてみると不思議と良くなじみ一つの歌が出来上がったと言われている。作曲者は長らく不明だったが九三年、新聞報道をきっかけに吉田千秋(一八九五~一九一九年)と判明した。英国の詩を翻訳し、キリスト教の賛美歌風に曲を付けたものだった。小口と吉田は同世代で、ともに早世した。小口が二十六歳、吉田は二十四歳だった。ふたりは一つの歌を共作しながら、生涯顔を合わせることはなかった。

 歌はやがて三高水上部の寮歌として定着し学生に浸透する。七一年(昭和四十六)年、歌手の加藤登紀子さんがカバーし大ヒット、全国に知られる青春の歌となった。
 今や湖国では「第二の県歌」として会合や宴会の締めくくりとして歌われることもしばしばとなった。幾多の変遷を経て誕生した、この歌の成り立ちに迫る研究書も数多く出版されるようになった。
 そもそも一九四一(昭和十六)年四月六日、旧制第四高(現・金沢大)ボート部の艇が高島市の萩の浜沖で転覆し、学生十一人全員が死亡。「哀歌」は学生の死を悼む歌で、周航の歌を参考にして作曲されたとみられる。作詞者の奥野揶夫(一九〇二~八一年)が生まれた大津市本堅田には、地元の市民団体が建てた歌碑がある。
 事故から翌年、四高関係者らが萩の浜に植えた「四高(しこう)桜」は、接ぎ木などで百本ほど残り「四高桜を守り育てる会」は琵琶湖一周を四高桜でつなぐ夢を持っている。多くの人が訪れれば、亡くなった学生も喜ぶはず、と話す。周航の歌とともに「哀歌」を歌い継ぎながら、浜に植樹を続けていこうとする。

 前述した加藤登紀子さんは「琵琶湖周航の歌」でヒットしたあとも国民的ヒット曲の育ての親として全国に広めていった。「日本哀歌集」というアルバムで、当時の酒場で歌われていたような名曲を集めたのが最初である。そこから選んだシングルの二枚目のB面に「琵琶湖周航の歌」を入れたのである。「琵琶湖周航の歌」は加藤登紀子さんが受け継いでポピュラーにすることは出来た。その後も受け継がれなきゃ、いけない。若い世代のアーティストや子どもたちに参加してもらって、もっともっと広がりのあるものにしたい、と抱負を述べている。

 ことしは琵琶湖周航の歌誕生から百周年で、六月には高島市今津町の高島市民会館で100周年記念「周航の歌音楽祭合唱コンクール」で加藤登紀子さんも参加し、大合唱する試みも。琵琶湖汽船のビアンカ船上でも今津港を発着点としての船上イベントがあり、大津市民会館では100周年記念チャリティーライブ「湖の子音楽祭 2017」など各地で記念イベントが多彩に催された。
 なかでも京大ボート部のOB・OG会「濃青会」の有志は〈我は湖の子〉の旗をかかげたボートで六月二十四~二十七日に歌が生まれた時と同じ三泊四日の行程で周航まで実現させ、各地の歌碑の前で歌を「奉納」し、湖上スポーツ愛好者らとの交流も深めた。
 十一月二十五日には京大時計台大ホールで「琵琶湖周航の歌100周年記念音楽祭」も開かれる予定で、関係者全員が胸躍らせている。

 湖国・滋賀県は琵琶湖周航一色の1年に染められている。(完)