「青春で得たもの」 眞鍋京子
「青春とは何ぞよ? 」
成人式を終えた若者たちは考え直す機会に恵まれた。ここ大津市内の公民館では社会教育の一環としていろいろな講座を催している。週に一度、あるいは1カ月に一度、講座の内容に合わせて開催される。勤めが終わったら、その足で出向き、いろいろなことを思い思いに学ぶのである。
なかでも大林一雄や中村光夫をはじめ十数名の若者は野外活動のグループを選んだ。比叡山や比良山の手頃な山に登ることから始める。始めは見も知らない者はかりであったが回を重ねるにつれ話し合いも出来、次の山登りの計画も自分たちで話し合い、準備もできる。乗鞍や白山など日本アルプスにも何年か後には挑戦する。事前に書物で持ち物やコースの下調べをして大津を夜行列車で出発する。そして何時間かの乗車で目的地へ着き、ここからはピッケルやアイゼンを頼りに、急峻な山を登っていくのである。先頭と殿(しんがり)は経験豊かな者がつき、その間を未熟な者が同じ間隔でついていくのである。
この様子を見ていると〈ひとつの絆〉で堅く結ばれていることが解る。七時間も登って頂上に着く。リュックの荷物を降ろして万歳を叫ぶ。ただ一人として落伍者や怪我人を出さずに登頂出来たことを喜び合う。
平常は会社員、学校の教師、塾の教師、商売屋(魚屋)などである。なかでも珍しいのは、大林一雄である。彼は、彫刻家として朝はやくから六畳の畳の部屋で胡座をかいて先の尖った何種類もの鉄の棒を金槌で叩く。始めは一枚の銅盤だったものが大林の手先から流れてくる金槌の音に、大林が思うような形に変形してくる。大林の工房へ入れてもらうと槌の音とひとつになって、だんだん目的の形になってくる。しかし、それまでには、いくつもの工程を経なければならない。
亀の背中の円い形は銅盤をどのように回していけばよいのか。見ていても指先の動きが目の回る回転の仕方である。そのようにして亀の甲が出来上がっていくのである。大林の中指や人差し指は胼胝(たこ)が出来て硬くなっている。最近は鶴の喙(くちばし)の繊細な技量の成果も披露されるようになってきた。彫金師として厚生労働大臣賞を受賞。あの当時、若き日々の野外活動のグループのめんめんは機会あるごとに今でも交流を続けている。というわけで、私は今回の受賞のお祝い会にも喜んで参加させていただいた。
年月が経って野外活動は出来なくなったが大林を中心にして年に一回、御用納めに夜は一杯飲みで盛り上がる。中村光夫は魚屋をしているので毎年ふぐの「てっせ」や珍味の魚を格安の値で運んできてくれる。野外活動のメンバーは尾に尾を引いて、友だちを連れ出し、その夜はアルコールのメーターも上がり年に一回ではあるが、楽しい集いが続けられている。大林の青春は何であったろうか。彫金の道五十五年、皆夫々に青春を送ってきたことであろう。
野外活動で初めて馴染みになった者たちが大きく、その輪を広げていく。顔見知りで、こんな大切なことはない。それぞれの「青春」を思い出して、毎年の御用納めの忘年会はいつまでも続けていきたい、とそう願っている。私はいま、青春まっただ中。満90歳の乙女である。 みなさま、ぜひぜひ、よいお年を。(完)
「翳り」 山の杜伊吹
いつがその時だったのか、どうにも分からない。
十代の頃、二十代の頃か、今がその時だという人もいるだろう。気が付けは人生の折り返し地点を過ぎ、季節に例えれば秋か冬に身を置いているのだが、過去を振り返ってみてもそれはいつ頃と、はっきり言えない。確かなのは、今ではないということだ。
ついこの前、仕事で出会った人が姓名判断できるというので、話のタネにみてもらったら「最悪。よくこんな名前をつけたな」と言われた。驚いたりショックを受けたりすることもない。いつもの事でもう慣れたし、むしろ大いに納得するのである。
人生山あり谷ありでなく谷、谷、谷の人もおり、だからこそ絵を描いたり、曲を作ったり、私のように文を書いたりするようになってしまうわけだ。
改名したところで今さらの感。運の悪さを嘆いてみたところで何も変わらないし、とうの昔に諦めたから、こうして明るく生きていける。ただ、仕事を頑張っても頑張っても余計悪くなると聞くと、さすがに気になるし、自身の最悪な宿命が、子どもにまで連鎖し影響していると聞くと、やはりいたたまれなくなる。
しかし「この人、顔は笑っているけど、中身はズタボロだよ」と言われると、分かってもらえた! と、うれしくも思う。
若き頃を回想してみても、よくある青春のイメージとはほど遠く、このようなネガティヴ感情がほとばしるばかりである。しかしそれでも青春について書けと無情なテーマが与えられるのであれば、あえてしぼり出そうか。それは、中学3年生の頃だったかも知れない。
親と丸2年ケンカをして、やっと分厚いレンズの眼鏡から解放されコンタクトレンズを買ってもらえた。この出来事は大きな喜びであった。
親友のTちゃんはかわい子ちゃんで、一緒に歩いていると男子が寄ってきた。受験勉強のために図書館に通い、お腹が空いたら、今は無きユニーの2階にあったスガキヤでラーメンを食べて、それがものすごくおいしかったこと。青春だ。
クラス全員一致団結して、合唱で校長先生を泣かせたこと。受験生であり、大人と子どもの境界を彷徨うその横顔には翳りがあったはずだが、温かい先生とクラスメートが辛いことも乗り越えさせてくれた。あの情熱、若さ、楽しい思い出は、青春の一ぺージと言えるだろう。ホンの一瞬、光があたっている瞬間の輝きの儚さ、心の翳りに気付く頃。
同じように遊んでいたTちゃんは志望校に合格し、私は落ちた。
コンタクトは後から分かったことだがサイズが合っておらず、ズレたり、白眼に吸い付いたりして、痛くてたまらなかったけど、3年くらい我慢して使い続けた。絶対に行きたくなかった高校に、親に文句を言われながら我慢して通った。今でいうブラック校則バリバリだった。落ち葉の舞い散る停車場の吹き溜まりのような場所だった。落ち葉たちは、少しの風で、いろんな場所に簡単に散っていった。先生たちは誰も止めず、行方を追う友もいなかった。
思い出したくない高校のことを思い出してしまった。タイムマシンを2017年12月に戻そう。もうすぐクリスマスがやってくる。余談であるが、Tちゃんは社長と結婚して、今や海外旅行に行く身分である。
私といえば、税金の支払いに頭を悩ませ、サンタさんのプレゼント2人分、ケーキは買えるか、ナヌ、ボーナスなしだと、ケンカ勃発、そんな切羽詰まった時に、突然テレビが真っ暗になった。説明書を見て、自力で直そうと試みる。メーカーに電話をかけてみる。修理が決定する。新しいテレビを買うか、それとも直すか、紀子さまのお育ちになったテレビなしの家庭を見習うか、決断を迫られる。
修理完了のサインをする。本名を書いてと言われる。「字画が悪いから当て字にしているんです」と言うと、修理の人が「自分も最悪なんですよ」という。
「いや、私の方が悪いと思いますよ」「僕の方が悪いはずです」「この間も、何をやってもやればやるほど悪くなると言われたばかりです」「男の4画はどうにもならんですよ」そこに思わぬ連帯感が生まれた。
「最悪と言われても、それで生きていくしかないですからね」「私も諦めました」「社長とか野球選手で成功している人も名前の良くない人っていますしね」「そういう人は先祖が偉大らしいですよ」
頑張って生きてくれ、と願いながら、工具のいっぱい詰まったバンを見送った。(完)
「楓の青春」 平子純
社会はたった六十年前まで存在した遊郭の事や遊女達の生涯を知らない。ましてや彼女達の青春等興味もないだろう。そこで私は父母たち戦中派の時代も含め一人の遊女の物語を語ってみようと思う。
遊女の名は楓と言った。昭和八年日本は満州事変を経て、大陸に野心をあからさまにした頃だ。東北は例年の冷害で食う事にも困り多くの農家が娘を売って凌ぐ年が続いていた。楓は十三になったばかりの秋、紅葉が色づく頃に名古屋へ売られて来た。汽車で女衒につれられて笹島駅で降り中村へと向った。
まず一泊目は現在の鵜飼リハビリテーションの敷地になっている紫水という宿で泊り一日だけの娑婆との別れをする。次の朝売られた先の店へと送られた。それから二~三年は行儀作法、郭言葉、歌舞音曲等みっちり仕込まれ初潮を迎えた後十五、十六で遊女となる。最初は見習いで花魁の付人となる。女郎の社会は相撲社会と同じような階級制度があり人気がある娘程上の位に付き、多くは関取になれない相撲取りのように一派人から下の体を売るだけの存在だった。
一番下位の女達は各地の遊郭を売られ売られして来た者達でその夜時間までに売れ残るとスーパーの安売り時間と同じで安価で一晩に何人もの客を取らなければならなかった。楓は東北美人の特性を持っていて色白で肌もきめ細かった。
客を初めて取る数日は、顔見せで店の上客に初物と言って高く買ってもらう。処女を買うのは最初の男だけだが、それは商家の金持ちで初物好きの好色と決まっている。こうして十五歳になったばかりで男を知り遊女生活を段々身に付けていった。昭和十年代になると日本は軍事色を深めますます戦争へとのめり込んでいった。それに反比例して庶民の自由は制限され恋愛も許されなくなり郭だけが男の自由区のような形となった。
色恋沙汰は浮世では許されないという余裕のない社会となっていった。楓は十八となり店の看板娘となっていた。それには彼女の美しさともう一つ床上手という評判がたったからだ。彼女は客が喜ぶ事が自分の生きがいのような形になっていった。客が喜べば自分に優しくしてくれる、思わぬ金もくれたりする。ある客が男と女は合歓の木になる時が一番愉楽の時だと教えてくれた。十八になり自分の体が男と共に共鳴するようになり合歓の意味が分った。男と共に自分の体が素直に半のし歓びを表せば客は喜んでくれる。その事さえ分れば男を愉しませるのは容易だった。
その頃兵隊が女を初めて知るのは遊郭が多かった。特に中国戦線に送られ死ぬかもしれぬ兵士にはこの世の名残りに女を経験させる、つまり童貞を失う機会を与えたのである。楓の店にも名古屋の師団のそんな兵がよく来た。
楓はそんな兵には自分の仕事が聖職と思って心から体を委ねた。そんな若い兵士の一人に恋をした。二人共互いが忘れなくなった。兵士が中国へ渡ってからも葉書が送られて来た。その度に心が躍った。そんなある日。紅葉が深くなり落ち葉が舞い散る夜、痩せこけた見知らぬ男がやって来て楓を抱いたことがあった。男は執拗に楓の唇を吸った。唾液を通し彼女に違和感のある物が入って来た。こうして彼女は肺病になった。肺病を患った遊女は悲惨である。彼女は隔離部屋へ入れられ、ただ死を待つ身となった。病はどんどん進んで行き寝たきりとなり血を吐くようになった。遊女の身では療養は考えられなかった。近くの鵜飼病院の医師は半年は持たないだろうと告げた。
中国戦線へ渡った兵士、武夫は松井大将の下、南京を攻め、そのとき傷つき腕を失い、帰国する事になった。彼は国へ帰ったら楓を見受けしよう、と勢んで名古屋へ帰り楓に会いに行った。二年ぶりの再会だったが楓は湿気の強い余り新鮮な空気の通らぬ部屋で寝かされたままようやく頭を持ち上げると消え入りそうな声で待っていたわ、会いたかったわ、とだけ言って微笑を浮かべた。
武夫という兵士は、楓をとにかく店の外に出そうと考えた。もう郭の主人も拒まなかった。楓は武夫に引き取られ中村区の小さな長屋の一室に住むようになった。薄倖な彼女にとって本当に幸福な日々だったが三カ月後、彼女は大量の血を吐いて旅立った。検死は、鵜飼医師が行い、彼女の骨は中村観音に祀られた。武夫はその後、焼夷軍人としてその姿をよく駅で見かけられたが故郷岐阜の寺へ入ったと聞いた。(完)
「青春とは何者」 牧すすむ
〝青春〟。なんてステキで魅力的な言葉なのだろう。誰にも青春があり又、青春があった。テレビを観ていると若い人達が今にも画面から飛び出して来るかのように歌い踊り、跳ね回っている。然も息切れの一つもなくー。
当然、口パクの場合もあるだろうが、それにしても大したものだと感心することしきりである。テレビだけでなく一歩外へ出れば青春真っ只中の若者達がそれぞれに溢れ出るエネルギーを全身にまとい自由を謳歌している。なんと羨ましいことか。我々の世代には、遥かな過去となってしまった光景でしかない。悔しい限りなのだが…。
いや、ちょっと待てよ。〝青春〟とは一体何者なのだ。単に年齢が若いだけのことか。元気が良いだけのことなのか。それなら自分にもまだあるゾウン、まだまだあるゾ などとこんな負け惜しみじみたことを考え考え、もう一度自分を見直してみる。
自分にはやりたいことややり残したことが山程だ。愚痴など言っている場合ではない。そう思うとなぜか心の底から力が湧いて来て、知らず知らずに顔がほころぶのを感じるのである。
又、〝青春〟という言葉は昔から巷に溢れていた。例えばスポーツの世界しかり、歌の世界しかり。私事でも若い頃から学校関係の歌作りをよく依頼され、求めに応じてきた。
その歌詞の中にも〝青春〟の二文字がいつも踊っていたように記憶している。学園は正に青春そのものであり、子供達が明るく力強く歌ってくれているのを見ると、逆に自分の方がエネルギーを貰ったように思えて胸が高鳴る。今も自分は青春なのだと心の中でそう叫び続けている。
歌謡曲に目を向ければこれまた〝青春〟を歌った曲は数知れず。懐かしいところでは「青春サイクリング」。今は亡き小坂一也の代表曲だ。
藤山一郎の「丘を越えて」の歌詞の中にも、~讃えよわが青春(はる)を~の一節がある。又、少し近いところでは「森田公一とトップギャラン」の「青春時代」。これは今も私達がよく演奏し好評を頂いている一曲。どれもリズミカルで思わず一緒に口ずさんでしまう、ノリの良い名曲ぞろいである。
話しは変わるけど、今日身近な場所で〝青春〟を二つ程見付けた。私は「大正琴の会」を主宰していることから年中様々な舞台に追われている。又、その間にも時間が有れば老人ホーム等の慰問に出掛け、大正琴の美しい音色を多くの人達に楽しんで頂いている。
今日もあるホームに数人の生徒を連れて行ったのだが、私達の演奏に合わせて手拍子を打ち明るい声で歌って下さる姿に、今この人達は時を超越して〝青春〟しているんだなァ、と気付き心の中がほのぼのと温かくなってくるのを感じた。
もう一つは帰り道でのこと。買い物がてらに寄ったスーパーで思いがけず弟にばったり。近くに住んではいるものの中々顔を合わせる機会がなく、お互いにびっくり。五分程の立ち話で彼が一月中旬に兵庫県で行われるマラソン大会に参加することを知った。
四歳違いの弟は昔から体育系で走るのは大の得意。それでも念のため、その大会はシニア部門なのか? との問いに、「いや、一般だよ」と軽く言う。更に〝まさか〟とは思いながらも「フルかハーフか?」と尋ねると、これ又何事もないように「フルだよ」、との返事。
フルであれば四二.一九五km。色々な大会に参加しているとはいえ、年齢を考えるとやはり驚きのひと言。彼は今もバリバリの〝青春〟なのだと思い知らされた。
我が弟ながらそのパワーの凄さには脱帽しかない。と同時に〝自分もまだまだ若いゾ〟と己に言いきかせ、心なしか軽くなった足取りで帰路に着いた私であった。 (完)
「舟木一夫と青春時代」 伊神権太
♪こんこんこんこん 君はいまなぜ泣いてるの
♪こんこんこんこん 君はいまなぜ悲しいの…舟木一夫〈心こめて愛する人へ〉から
私の青春時代。それは、嬉しいこと悲しいことが怒涛となって押し寄せた高校生から二十代にかけてか。
高1のとき柔道の稽古のさなかに右足を骨折して2年後。昭和38年6月(1963年)。愛知県一宮市出身の青春歌謡歌手舟木一夫さんのデビューシングル「高校三年生」(丘灯至夫作詞、遠藤実作曲)が、爆発的ヒットとなった。夏から秋にかけて、だと記憶している。「高校三年生」の大ブレイクもあってか、私が通う愛知県江南市の滝高キャンパス=当時、私は滝実業高校普通科3年。滝実は進学校の先兵で翌年から名前が滝高になった=で映画「高校三年生」のロケがあり、舟木さんはじめ姿美千子さんや高田美和さん、倉石功さんら若手俳優が集結。自転車置き場などで毎日のようにロケが繰り返されていた。
あのころ柔道部に在籍していた私は稽古の合間に黒帯姿で柔道場近く自転車置場で行われていたロケ班の模様を見ていたことが思い出される。主役の舟木さんが何度も自転車で転ぶ姿、その一部始終を見ていた。たまたま、そのころは一年下の演劇部のAさん(商業科)に片思いをしており、映画ロケの見学もさるものの彼女が見物に来ていないかどうか、私にとってはそのことの方が気になった。
でも彼女とは、ただのひと言もかわすことなく私は学び舎を巣立ち大学に進学。そして柔道部の後輩からの情報で、Aさんがその後名鉄百貨店に入社、名駅店のエレベーターガールとして新たな人生を歩んでいることを知った。数年後。私は新聞社への入社が決まり、ある日思い切って名鉄百貨店に会いに行くと、会うには会えたが彼女は既に結婚していたことが分かった。
三十年後。私は、新聞社の一宮支局長として在任時に苦難時代の舟木さんを支え続けてきた当時の一宮市議会議長三浦さん(故人)から、歌い手になるため舟木さんが単身上京したいきさつなどを伺い、まだ若かったのに歌にかける情熱には鬼気迫るものがあったことを知った。感激した私は妻を伴い、新橋演舞場まで訪れ〈おやじの背中〉を観劇した。
そして。それから二年後。私が文化芸能局の部長だったころ、中日パレスで舟木一夫公演のなかじめパーティーがあった際、親しく話し合う機会に恵まれた。せっかくなので「滝高でのロケ風景を見ていたこと」や「舟木さんが郷土に、と贈られた真清田神社の梵鐘はいまも多くの市民に喜ばれ、現役として活躍している」「記者としてあちこち回ってきたが、どこでも舟木ファンは多く、追っかけ女性は年々増えている」などといったことを話した。
あのとき彼が私の目を見つめて「いや、本当にファンというものはありがたいものです。感謝してますよ」とポツリと漏らした言葉は今なお忘れられないのである。
そして。私自身、26歳のとき、三重県志摩半島の阿児町鵜方であのころ幼な妻だった舞との駆け落ち記者時代を過ごしたが、いまから思えば私は当時、舞を片腕に〈心こめて愛する人へ〉はじめ、〈夕笛〉〈絶唱〉〈仲間たち〉〈学園広場〉など数々の青春歌謡を歌ってきかせたのである。
事実、自分でいうのもおかしいが、小学生のころは「あなたほど歌のうまい子はいないね」とよく音楽の先生や母に褒められ上級生のころには本気で「母ちゃん。俺が居なくなったら。東京だから。歌手になって帰ってくるから」と冗談とも本気ともつかないことを話したものである。だから、私にとっての舟木一夫の存在は、今もまぶしくて仕方がない。
年こそ重ねたが許されるなら私は私のペンをこの先も握りしめ時にはステージで舟木一夫さん気取りで人々に勇気と希望を与え続ける歌をうたってみたい、と思っている。そのひとつが〈ラブバード・カトマンズ〉だ。人生、山あり谷あり。わが青春は、まだこれからだと願う。(完)