「門 出」 平子純
人の一生で何回もの門出を行う。幼稚園や保育園へ入る時、小・中学校、高校、大学その都度門出を祝う。次に成人式、就職、結婚、子供の誕生、年を経てからは厄祝い、還暦、古稀、米寿、喜寿等々、次から次へと門出はやって来る。それが繰り返し次の世代へ受け継がれるのだ。だが一番大きな門出は永遠の旅への、つまり死への門出だろう。人にとって必ず一度は経験しなくてはならぬ最大のもの。生きている時間よりも生まれる前の時間や死んだ後の時間が果てしなく長いのだから人はその時の為に幾多の試練を重ねなくてはならない。人生は行のようなものだと七十歳になる私は思うのだが、振り返ってみると実に今までの生き方は行に過ぎなかったとつくづく思うのである。
今年の三月半ばに父が九十五歳で生涯を終えた。桜の咲き出す一日前のことだった。今はつつじや花水木が満開になり、今朝はシャワーのような雨の中に咲く小手毬が白く輝いていた。私は花の移ろいを見ながら父の一生を考えていた。
父の青春は戦時下、一番太平洋戦争を戦った世代で、父は海軍の職業軍人として国の為に働いた。新兵の頃、太平洋戦争が始まり香港上陸作戦に参加しその後は台湾の基地等に居たりした後、内地に帰り教育部隊として通信教官となった。戦争末期には特攻兵を教え、多くの若者を送り出した。父の同年兵は戦時中に丁度半数が戦死している。ミッドウェー、ソロモン諸島、マリアナ、沖縄、海戦毎に死んでいる。山本大将の機と共に一緒に死んだ者もいた。
ここで話を特攻を生み出した大西瀧治郎の事に触れておこう。瀧治郎の特攻という戦略は本来兵を自ら失うという点では禁じ手のような策であった。それ程までに日本は追い込まれていたのだ。強大で物資豊富なアメリカと戦う事はなかなか無理な事は彼には分っていた。しかし開戦し初戦は大きな成果を収めたもののミッドウェーからの負け戦続きで彼は特攻という爆弾を抱えた戦闘機が敵空母に突き当る自爆戦法を考え出した。まさしく貧者が考え得る最後の手段であった。
戦争末期彼は何千人もの若者を死へと飛び出させた。彼はこうして多くの若者を死への旅路へと泣く泣く国の為に送り出した。その事で随分彼は悩み苦しんだ事だろう。
八月十五日終戦の日。彼は玉音放送を聞いた多くの高級海軍士官達が、戦争は終った天皇の御聖断があったと喜んでいるのを怒り聖断もあれば開戦した愚断もあると捨て台詞を吐いて自室にこもり自死の道を選んだ。数千人もの若者を死への旅路へ送り込んだ自分を許さなかったのである。私は彼の死をどう評価しようとは思わない。昭和天皇のように国民を何百万人も死なせた贖罪を各地を巡幸し御霊を弔うことに一生を送った方もいるし平成天皇のように各地の戦地や島々を巡り慰霊し続けた方の生き様も立派だと思う。
しかし大西将官の思想は生き残り世界各地の紛争地域に飛び火した。自爆である。無力な女が体に爆弾を巻き自爆で敵を攻撃するのである。
そして9・11が起った。ウサマ・ビン・ラディンが資本主義の象徴ニューヨークの貿易センタービルへ特攻させたのである。人道主義的に許される事ではないが、彼の戦略はすごく計画的で全世界を驚かせた。私も映像で何度も見た。ハイジャックした航空機を使いツインビルやペンタゴンに見事に突っ込んだのである。その際ビルに飛び込む様はまるで日本の零戦が海面すれすれに飛び水平に敵艦に突っ込む姿そのまま、しかもビルの幅まで考え飛び込んだように当った様子は衝撃そのものであった。ビン・ラディンがどう日本軍の特攻を学んだか知らないが、教科書通りの戦法であった。こんな所にも大西の思想が生きていたとびっくりした程だった。
話は随分逸れてしまったが、もうすぐ八重桜が満開となる。八重桜は父の海軍時代の記章であった。もう一度その木の下で酒を酌み交したいものだ。【二〇一八年四月十九日】(完)