「刹那的かんづめ」 山の杜伊吹
空が曇ってきた。雨の匂いがする。
洗濯物を取り込まなくてはならない。
今年の夏はヒトの耐性を異星人に試されていたのではないか。ヒトは何度以上になると常軌を逸するのか。弱るのか、死ぬのか。私は生き残った!!
暑すぎて、プールに入れなかった夏。川や海にも行けなかった。外に出るのも危険だったので、小学校低学年の娘は夏休みの44日間を、家の中で過ごした。菓子を食べ、クーラーの効いた部屋でごろごろしながら本を読み尽くし、私の秘蔵マンガにふけった。或いはテレビ三昧で、ジャパネットタカタのCMを脳に刷り込んだ。
かんづめは、核家族のわが家では仕方のないことであった。学童保育に預けることも出来たが、学校にかんづめになるのと、自由な家でかんづめになるのを天秤にかけると、おのずと家に軍配が上がった。外には絶対に出るなと約束させ、家の中という制約の中で、のびのびと、自由な夏休みを過ごしたのである。不幸なようで、代わってほしいような、私には憧れの日々でもあった。
こちらもフレキシブルな仕事柄、朝から晩まで不在ではなく、朝遅く出掛けて、昼に一時帰宅し、また出掛けて夕方戻るといった具合。アメリカではアウトかも知れないが、なんとか仕事と育児を両立させた。
主人が会社で野生のカブトムシのメスを捕まえて来たので飼った。娘が「ハナちゃんです。だれかおよめにもらってください」と書いた紙を飼育ケースに貼り付けていた。
ホームセンターを3カ所回ったが、オスはおろか、カブトムシはどこも売り切れで一匹もいない。ハナちゃんは外に出たそうに足でケースをガリガリし、たまに飛んで上部に当たりひっくり返る姿を見て可哀そうになり、逃がしてあげようかと話し合った。
しかし、ウチにいれば、エサはもらえるし、敵に襲われる危険もない。ハナちゃんにとって、外かウチか、どちらが幸せなのだろうか。考えても結論が出ず、悩んでいるうちに、ある日動かなくなった。かんづめの中で一生を終えた。娘と一緒に庭に埋めて手を合わせた。
息子は受験生で、塾にかんづめであった。ほぼ毎日、朝9時から昼まで塾、昼ごはんを食べてからまた塾に行き、夜も3つ目の塾というハードスケジュール。はたして脳の容量に入りきるのかという疑問もあるが、こなした。これほど勉強した夏はなかったと思う。学校は休みでも、家庭や塾というかんづめの中で彼の自由は制限されている。
私は結婚し、気付いたらかんづめの中にいた。結婚だけならまだしも、出産子育ては、時間を見事に奪い去った。
それまでは自由気ままに生きていた。好きな外国に行って、その土地の空気を吸い、歴史的な建造物を見て、現地の人と触れ合いを楽しみ、美味しいものを食べて、フォトジェニックな人や物の写真を撮った。思う存分仕事もしていた。
だが、奪われたのは行動の自由だけではなく、精神の部分が大きい。いまこうして原稿を書いていても、外の雨が気になるのである。洗濯物を取り込むタイミングを決めかねている。雨が激しくなったら、友だちの家に遊びに行った娘を迎えに行くべきか。
いや、そろそろ息子が帰ってくるので、夕ご飯の準備に取り掛からなければならない。冷蔵庫の中の食材はわずかしかない。どうやって頭が良くなる食事を作ろうか。
支払うべき請求書の代金をどのように工面するか。
市の広報紙を配るという自治会の役員の仕事も、早急にやらなければならない。来週の会議までに、昨日のPTA会議の議事録をまとめなければならない。敬老の日が近い、祖父母に送る荷物をまとめて早く出さなくては。
こんな具合に、やること、考えることに支配されているのだ。生きている以上、ヒトはどこかに属して、かんづめに入れられて、関係先は中で枝分かれして、どんどん増えていく。
かんづめに入らない時間を夢見ている。
一方で、作家が締め切り前にホテルにかんづめになるのが、どこか幸せそうに見える。おいしいルームサービスをとって食べたり、海苔のうまい朝食バイキングに行ったり、ふかふかのベッドに横になって体を休めたり、訪ねて来た編集者と紅茶でも飲みながら、文学談義をしたりする光景を想像して、憧れる自分がいる。
かんづめの中で、自由に泳ぐってのも、案外いいものかもしれないな、と。(完)