「言ってはイケナイ」 山の杜伊吹
『食べてはいけない』のシリーズ本が売れたことがあった。
普段、巷で簡単に手に入れられるスナックやレトルト食品などが商品名と写真付きで紹介されており、恐ろしい添加物や着色料が使用されているので、食べるととても体に悪くて、がんになると書かれている。洗剤や柔軟剤などの日用品を列挙した『買ってはいけない』だったか、『使ってはいけない』も、一時期自然派の人たちからバイブルのように扱われていた気がする。
でも、その体に悪い商品はいまもスーパーに並んでおり、売れている。体に悪いらしいと分かっていても、手に取り買ってしまい、家で「旨いんだよね」と思ってしまう。タバコはその最たるものか。
とはいっても『言ってはいけない』事柄がゴマンとあることを、オトナになってから知った。「本当のことを言うとおこられる」という本を書いたのは、有名なコピーライターだが、私は変化球が不得意で、いつも直球勝負であり歯に物が挟まったような言い方は好きではない。
バシッと核心を突くのもたいがいにせんといかんなあ、とオトナとして気をつけてはいる。振り返るに過去数々の失言もしてきただろう。怒りを覚えた人たちがいたらこの場を借りて謝りたい。謝っても、取り消すことはできないのも知っている。でも私だって、言いたいことはやはり言いたい、いつも大人しくて言われっぱなしだったのだ、言ったもんが勝ちみたいなことも実際あるじゃないか。イザとなれば私だって言いたいさ。
コミュニケーション講座の先生に会う機会があったのだが、自分の意思を言葉で出せるようになると、生き方が楽になると言っていた。みんな遠慮してる、それが日本社会。なかなか嫁に行かない娘に結婚の話は「言ってはいけない」と分かっているけれども、口元から漏れ出てきてしまうと、近所のおじいさんが言っていた。言いたいことを言えばいいんです。
最近やっと、ブラックPTA問題を取り上げるマスコミがちらほら出てきた。ある新聞がPTAのことを書いたら、各所から苦情が来て、書いた記者が悪徳記者呼ばわりされたって言ってた。本当のことを言ってなにが悪いのだ。令和の時代に過去の遺物は持ち越したくないとみんな思ってる。ごまかし、虚偽は去り、真実だけが生き残ると思う。
加えてスマホを政略したあのLINEよ。日本人たち、なぜ気がつかない。世の中の主たるコミュニケーションツールが、LINEでいいのか? そもそもすべてを短文で送ってくるのが気に入らない。ショートメールしかり。長文が入らない、よって短文になる。小間切れに慣れ、スタンプで会話も楽でいいね! 国語の先生が、ラインを使うようになると、国語力が確実に落ちると言っていた。長い文章が書けなくなる。
スマホ一年生の息子のラインを覗いてみたら、まるで言葉のゴミ箱だ。「クソだな」あんなにおとなしそうな、いい子の頭の中はこうなのかとショック、げんなり。中学生男子なんてこんなレベルかあ。
うちの子の送る文章は誤字脱字はあるが、なかなか上手い、ああ良かったと胸をなで下ろす。最低限の常識礼儀をわきまえないと、頭の中が、その人の品性が丸見えなのですよ。
メールはまだよかった。目指すは源氏物語の恋文のやりとり、短き文の中に、命懸けの恋の駆け引きがあった。刹那の熱情を醸し出すあの高貴な香りのする一文字を、文を、日本人なら忘れまい。だから私は断じてメールを使う!!
政治家のセンセイたちの失言は、国語力のなさを露呈、ちょっとした言葉尻をつかまえてやんや騒ぐマスコミもしかりと思う。『言ってはいけない』という本はあったかな、書いてみるか。 (完)
「ないしょ」 牧すすむ
♪ ないしょ ないしょ
ないしょの話は あのねのね
にこにこ にっこりね 母ちゃん
お耳へ こっそり あのねのね
坊やの おねがい きいてよね
(結城よしお 作詞 山口保治 作曲)
子供の頃によく歌った童謡だ。今でもちゃんと覚えているし、心がほっこりとするような優しさが詞にもメロディにも溢れていて、聞けばすぐに幼い頃の自分に戻してくれる。
特に三番の歌詞は、ないしょ話の楽しさがまるで絵のように心に浮かんでくる、そんな言葉で結ばれている。
♪ にこにこ にっこりね 母ちゃん
知っているのは あのねのね
坊やと母ちゃん 二人だけ
幼い子供が大好きなお母さんの耳に口を寄せ、何かひそひそ話をする。ワクワクと胸を踊らせながらー。
きっと誰にでもあったであろう良き思い出でもあるし、又、今もしばしば目にするほほえましい光景でもある。こういう優れた童謡が歌われなくなった時代の変化に寂しさを覚えると共に、日本の大切な文化がどんどん失われていく空しさに胸が痛むのを禁じえないのだ。
一方、歌謡曲に目を転じると、昭和後半の一九六八年に “伊東ゆかり”が歌った“ゆうべの秘密”が思い浮かぶ。彼女のデビューシングル曲である。
♪ ゆうべのことは もう聞かないで
あなたにあげた わたしの秘密
幸せすぎて 幸せすぎて
あなたにすべてを かけたのだから
ゆうべのことは もう聞かないで
そのままそっと 抱いててほしい
(タマイチコ 作詞 中洲口一 作曲)
意味シンな言葉で始まるこの曲を、清純な乙女の装いと優しく甘くそして澄やかな声で歌い上げた彼女は一躍スターへの道を駆け上った。又、その頃に青春を過ごした私も彼女の魅力にハマった一人である。
さて、話を今回のテーマ“ないしょ”に戻すことにしよう。
人は誰にも秘密が有り“ないしょ”好きである。それが大きいか小さいかは別にしても、日々の生活の中では人生の所どころで“ないしょ”は花開くのである。罪になるのもあればクスッと笑えるかわいいものまで、私達は秘密の中に生きていると言ってもけっして過言ではない。
そう言えば先頃世間を騒がし流行語大賞にもなった“忖度(そんたく)”という言葉がある。我々が日常の生活の中で他人に気遣いをするという意味でのそれは必要であり、利害が発生することは余り無い。しかし、これが政治絡みとなればそうはいかない。
真っ黒な腹がお金で膨らみ、“ないしょ”が嘘に塗(まみ)れる。全く始末が悪い。“ないしょないしょ”の口裏合わせとダンマリ。国民不在の高笑いが聞こえて来るようで腹立たしいこと極まり無い。
まあお堅い話はこれくらいにして、私が最近耳にした“ないしょ”をひとつー。
先日数人の御婦人達とお茶を飲みながら雑談していた時、御決まりの展開で旦那の話に。ひとりの人が「うちの主人たらね」と口を開いた。「時々ね、洗い物を手伝ってくれるんだけど、昨日台所の片隅に割れたお皿が隠してあるのを見付けたの。ちゃんと素直に言えばいいのにね~」。その場が笑いに包まれた。なんともかわいい隠し事、“ないしょ”ではないか。
いかにも仲睦まじく平和な家庭ぶりが垣間見えた気がして顔がほころんだ。それと共に「こんな“ないしょ”を又聞きたいものだな」と心でつぶやきながら、熱いコーヒーをゆっくりと口に運ぶ私であった。 (完)
「他言しない、それが愛」 伊神権太
内緒の話、イコール秘密といって良い。人間、善きにつけ悪しきにせよ、ヒ・ミ・ツが多いほど魅力的だと。私はそう思う(なかには〝秘密だなんてアカンよ〟と言う方がおいでかもしれない)。デ、私の場合はといえば、だ。もう時効になるやもしれない。人並みに時には恋にも溺れ多くを傷つけてきた。自分の方が、血がしたたり落ちるほどに傷ついてきたのかもしれないが。そのごく一部を告白しよう。
「なりたくて仕方がなかった新聞記者にとうとうなれる」。そう胸を弾ませ記者のトロッコ、すなわち駆け出しとして松本支局にサツ回りとして着任したのが昭和44年の夏。私は、それまでの1年近く。三重県鼓ケ浦での新人合宿社員教育に始まり雨季の金沢での販売店実習に続き本社で整理、校閲のイロハを学んだ。そして夢がかない地方支局生活が始まることとなった。
その日。母に見送られ国鉄(現JR)名古屋駅から松本に旅立った中央線のプラットホーム。ホームの柱の陰で私を送ってくれたのが、それまで内緒で付き合っていた年上の人妻、Sさんだった。松本の下宿に着くや、彼女からは雨に濡れた封書が届いており、その後2、3度手紙を交わしはしたが名古屋にいた時のように会うわけにもいかず、互いに疎遠になっていった。
あのころは〈君は心の妻だから〉や〈時には母のない子のように〉が大ヒットしており、たまに女鳥羽川沿いの居酒屋やスナックに入るにつれ、よくこの歌をうたったものだ。
時ながれ。舞台は三重県志摩半島に移る。かつて真珠王御木本幸吉の右腕として君臨し和具漁協組合長だった松田音吉さん。音吉さんには未明の熊野灘に出ての密漁摘発の定置網同行取材をきっかけに何かと大切にされ、伊勢神宮奉納大相撲の高砂一門(親方は3代目横綱・朝汐太郎、高見山が相撲界に入って間もなかった)の組合長宅を開放しての打ち上げに招かれたりした。
音吉さんの家を何度も訪れるうち、お孫さんのK子さんと親しくなり彼女がカンタベリ大学に留学するというので、石川啄木の詩集を餞別代わりに持参し、泣く泣く別れたことがある。K子さんとは、なぜか気があい私は彼女が東京の大学から帰省するつど、半島突端に近い自宅まで出向いて何度もお会いしたものだ。
音吉さんは私を独身と思い込まれていたようで、彼女の帰省のつど「ガミさんや。今、孫がきてる。チョッコし、きましょ」と誘いの電話をくださり出向くと「わしゃ、アンタに、あの島ひとつをそっくりやろう思っとる」とまで言ってくださった。そのころの私は、といえば。阿児町鵜方にあった新聞社の志摩通信部で幼な妻との駆け落ち逃亡記者生活のさなか、取材も何かにつけ命がけで、二人の女性を同時に思う〝ふたつ心〟に揺れたのも事実。森進一の「襟裳岬」が流行っていた。
岐阜への転勤が決まって初めて音吉さんに自分が既に結婚していることなど一部始終を話したが、「本音を言うと、わしゃ、かわいい孫を嫁にもろうて欲しくて、な。互いに好きおうてみたいやし。失礼してしもうた。ガミさんは駆け落ちまでしたんやから。奥さんを大切にせんといかん」とまで話してくださり、「これはウチのがこしらえたやっちゃ」と真珠のネックレスなどお祝いまで頂いた時には涙が出て止まらなかった。
ほかにも数えしれないほどの大事件や大災害。そんな激務のさなかにひょんなことで出会った踊りの師匠はじめ大学の後輩、県警の電話交換手、書道教師、生け花の先生など。忘れ得ぬ人は多い。秘密といえるかどうか。三重の嬉野豪雨では遺族に責められ、カメラマンが撮った貴重なフィルムを「これですむなら」と谷底に投げ捨て、通信局で留守を預かる妻が暴力団組員に「殺せるものなら殺してみな」とタンカをきったり、訪れた読者にビンタをくらわせた。これとて秘密といえば秘密。今だから話せる。
すれ違いというか。ヒ・ミ・ツは数えしれない。生きている以上、誰とて同じだ。後年。本社務めのころ、それまで〈おわら風の盆〉の旅の取材などで越中八尾を訪れるつど宿の手配などで何かとお世話になっていた女性がある日突然、氷の如く冷たくなったことがある。あとから考えれば、私が中国人の女性琵琶奏者と連れ立って一泊したあげくに彼女の店ののれんを一緒にくぐったことに堪忍袋の緒が切れたためらしい。
最近では「お金を貸してくれなかった」と私の元を去った画家(私はご本人のためにも貸さなくて良かった、と信じている。彼女は文化センターナンバー1の売れっ子講師だった)など別れた女性となると、数えしれない。
そんな私を目の前に「みんな分かってる。言わないだけよ」と嗤う妻。もしかしたら、そんな彼女にだって、そうしたヒ・ミ・ツはあるかもしれない。人は秘めごとを胸に抱かえて生きていくもの。最近、私はそう悟って生きていくことにした。でも決して他言はしないでいきたい。♪ボウフラが人を刺すよな蚊になるまでは泥水のみのみ浮き沈み、か。ああ~ (完)
「内緒の理由」 黒宮涼
夫からそれを聞いたのは、二年と少し前のことだった。
「お母さん、癌なんだって」
私は自分の耳を疑った。普段はほどんと泣くことのない夫が、瞳を潤ませていた。
呆然としながらも、ただ事ではないことを私は察してしまった。
夫の母親は、治らない病気にかかってしまったのだという事実が、私の胸を打ち付けた。
「大丈夫か」と問いかけるのは簡単だった。けれど、そんな一言で済ませられる問題ではないことを私は知っていた。私は夫のことをただひたすらに抱きしめることしかできなかったのだ。
私の中でお義母さんは働き者で、綺麗好き。裁縫の得意な優しい人だった。
初めての対面は、夫と交際していた頃。家に遊びに行ったときだった。コミュニケーションが苦手なうえに、緊張していた私は挨拶するだけで精一杯だった。けれどお義母さんは、写真やビデオを見せてくれたり話しかけてくれた。帰り際にはパンをもらったことを覚えている。
癌が判明してからのお義母さんはずっと、入退院を繰り返していた。薬の副作用で全身に湿疹がでたりしたが、それでもそのころはまだ表情は明るかった。
夫の家族は元気なうちに。と、お義母さんのしたいことを色々叶えてあげていたみたいだった。具体的に何を。とは書くことができないが、聞いている範囲では、色々なところに旅行していた。その旅行に私と夫が同行したのは一度だけだが、大事な思い出が作れたと思う。
そんな状況の中、私は自分の両親にこのことをずっと内緒にしていた。
打ち明けたのはつい最近のことだ。
当の本人が今の姿をあまり見られたくないとの理由もあった。
けれど、話を切り出せなかったのもある。
「親孝行は親に心配をかけないことだからね」
いつか聞いたそんな言葉が、頭に残っている。
黙っていることが心配をかけないことならば、できるだけそうしたほうがいいかもしれない。
特に私の母は施設にいる祖母のことで、色々と大変そうだった。母に負担をかけたくはなかった。
今年に入って、長らく入院していたお義母さんの自宅療養が決まり、そろそろかもしれないと深刻な顔をして告げられた日。私たち夫婦は、私の両親に病気のことを打ち明けることを決めた。
「やっぱり。おかしいとおもっていたのよ」
怒ったような、呆れたような。そんなどちらともいえない顔をして母は言った。
一方父は、ただ黙って私たちの話を聞き「そうか。大変だね」と静かに言った。
見舞いに行きたそうな母には申し訳なかったが、家族の希望で我慢してもらった。
私たち夫婦は以前より頻繁に家に行くようにした。ベッドで寝ているお義母さんを見るのはつらかったが、そんなことを思っても口に出せないし出してはいけなかった。誰が一番つらいか考えると、泣きたくなった。
このエッセイを書いている途中、訃報が届いた。
葬式も無事に終わり、落ち着いてきたので書いている。
別のものを書き直すか悩んだが、せっかくなのでこのまま残そうと思う。
読み直しながらまた泣きそうになっているが、進まないので今は耐える。
私からお義母さんには「ありがとうございました」という言葉しか送ることができなかった。おつかれさまもごめんなさいも、そぐわない気がしている。ましてやよく頑張ったねなんて言えない。五年、六年という短い間だったけれど、本当に感謝しかない。(完)
「内緒の幸せ」 真伏善人
僕がギターを抱えるようになったのは、随分昔のことだ。名古屋に就職して三、四年たった頃であろう。寮生活では一部屋で数人が寝起きを共にしていた。ある日のこと、窓を開けていたので夏のかかりの頃か。ギターの音色が流れてくるではないか。部屋の先輩の行動は早かった。部屋を出ると、あっという間にそのギターを持って来た。たどたどしく弾いていた先輩は、お前もやってみろよと差し出してきた。断る理由はなく、同じように抱えて親指で弾き下ろした。この時の事は忘れもしない。
その後どうしても自分のギターが欲しくなり、どの程度のものなら買えるのかを品定めに通う。ずいぶん日にちが経ったころ、ついに気に入ったギターを買ってしまった。先輩にしつこく値段を聞かれたが、これはもう内緒だった。当時で五万五千円。ろくに弾けもしないのに高価そうなものを手に入れてと、周りの冷めた視線。しかしそんなことは気にもしなかった。とにかくギターで気に入った曲を思うように弾きたかった。教則本を見ながら少しづつ覚えていくのが楽しかった。次第に映画音楽などを弾きたくなり、レコードを買い、好みの曲を聞き覚え、楽譜を探した。なんとか曲を弾けるようになるには、相当の時間がかかったが、自己満足は大きかった。
誰がどこで聞いていたのか、夕涼み会でギターを弾いてくれないかとの言葉。いきなりのことで断るも、おだてられて夕暮れの会場で弾くことになってしまう。何をどう弾いたのかは覚えていない。そんな寮生活も終え、家庭を持つことになる。住んだ所は会社に近い長屋で、狭い二間に台所。大家さんの敷地内でギターなどは近所迷惑と思い、もう誰かに譲ろうとしたが踏み切れない。ケースに収めて箪笥の上で眠ることになる。数年後、空きができたから社宅に移らないかとの情報がくる。願ったりで即、応じる。三つの部屋に風呂、キッチン。これは何とかやれるかもと、口には出さず、勇んで引っ越す。
しかし、すでに一歳の子供を授かっていたので、家庭内では原則アウト。年月が経ち子供が学校へ通うようになると、忘れかけていた埃だらけのギターケースを降ろしてみる。長い空白を取り戻すのは容易でなかった。年齢も相当に取り、それでも練習を重ねていくうちに、ふと思いが弾んだ。自分のCDを作れないだろうか。上手い下手はどうしようもない。誰にも分からぬように録音を取ることから始める。これまた難しいことだった。まずはギターを抱えるのだが、素早くしないと間ができてしまい慌ててしまうと雑音が入る。外部の大声やクラクションは致命的であった。
そんな環境で何か月かかっただろう。出来たCDを再生してみると、まあこんな程度だろうと納得するしかなかった。もちろん誰にも内緒で、一人達成感を味わっていた。何歳から老年なのかは知らないが、何を思ってしまったのか、新しいギターが欲しくなった。全く狂ったとしか言いようがない。へそくり、その他で貯めていた金があったからだろう。楽器店に足を運び品定めをする。目に留まったものを見つめていると店員が横に来ていた。
「これはお値打ちですよ。いちど弾いてみてください」と手に取り、差し出した。言われるがままに椅子に腰を下ろす。調弦を確認してそのまま曲をやってみると悪くはない。サウンドホールから覗いてラベルを確認するとR.Mとある。「今なら勉強させてもらいますよ」これが突き刺さってしまった。商品は間違いはなかろうと購入に傾く。駄目押しは「25万円を思い切って20万」。秘かに持ち帰り、さりげなく部屋の隅に置いておく。
幸いなことに、家族はギターにまるで興味を示さない。聞いたこともない音楽などには背を向けているのだろう。これ幸いで、この内緒は無難な内緒なのであった。 (完)