「癖について」 平子純
人には七癖あると言われているが、中でも一番いけないのは人を殺すという殺人癖だろう。どうしても何千人か一人の割合でそういう人間は居て、とんでもない事件を起こしてしまう。人間には本来人を殺すという欲望を秘めているのだ。その究極が戦争だろう。その欲望の為に人はいろいろ考え戦争のない社会を考え生きたのだと思う。
二番目というか上位に来るのが賭博の癖だろう。古代から人は賭けることが好きなのだ。ただ良くないのは自分を失ってしまう程の破壊のエネルギーを持っていることだ。私に三十年近く仕えてくれた人物に支配人のAがいた。彼の癖は賭博依存症であった。頭脳も良くなんでもてきパキこなす男で計算も素早く何かと私の役に立った。私の間違いは境目なく彼を友人のように利用してしまったことだ。彼は女ぐせも悪く金には余りルーズではなかったが、何年かに一度ずつ大博打をやり何百万か一千万近い借金をつくってしまった。彼がどうやってその苦境を忍んだかは疑問だったが何年かはなんとかやりくりしていた。
無論彼の奥さんの協力もあったろう。しかし重なるにつれてどうしようもなくなったのだろう。彼は仕入業者や知合いにかたっぱしから借金をするようになり、私の耳にも入り良からぬ人とも付き合うようになってしまった。そんな折、彼はそんな仲間の一人から良からぬものを買い会社にそれを背負わせた。無論私とは対立し私も彼の事で随分苦しんだ。長年の実績もあり彼をなかなか切れなかったのだ。結局彼は自分で会社を去ることになり同じ業者の所へ就職し私の会社と同じ方法で集客を始め、私の会社を随分いじめた。彼がその会社を追い出されたのは彼が会社の金に手をつけてしまったからだ。この事件は私には未だに嫌な思い出としていつまでも残っている。
そのほかに競馬狂、競輪狂、パチンコ狂、薬中の女、女好き、男好き等の好色人達と様々な性癖を持った人間模様は語り尽くせない。そんなある種片輪の人間がかえって仕事が出来たりする。ある経理の女はブランド品に目がなく欲しくなるとどうしてもと会社の金に手をつけそのブランドを買ってしまう。罪の意識というより病気に近く、誰かが気がつくまで悪事を働いてしまう。大胆不敵というより欲望が何にも増して勝ってしまうのだ。
私はいろんな人間を沢山見て来た。人間というのは奇妙奇天烈で多様な性癖を持ったどうしようもない動物に違いないと思う。かく言う私も賭博好きの時代があったし、好色の時代もあった。時代時代と共に色んな欲望が生まれその煩悩に従って生きて来た気がする。いろんな病気をして煩悩の多くはなくなった。年を経るということは浄化の道で人は否応なくその道を歩んでいくのだと思う。
幸い今は多様性の時代で、障害を負った者にも優しい時代である。私は非常に助かっている。何十年前ならもう死んでいるし、隠居部屋で死の恐怖に怯えながら一日一日を過ごしていたであろう。姨捨て制度のある頃なら野垂れ死ぬほかなかったはずである。医学の急速な進歩とリハビリ等の技術、研究で全て前へ進んでいると思える。最近看護士の人達との交流が当然多い。彼等は私の育った人間よりもはるかに真面目で患者と向き合っている。
すでに幼少の頃の癖の思い出は思い出せず若い頃の幾多の癖も忘れてしまったが、そのかわりに多くの障害が逆に私の個性、癖と今は言えるかもしれない。人類多様化、高齢化その中にいる私はしたたかにその中でリハビリに努力し少しでも能力を高め生きて行きたいと思っている。それが私の現在の癖と言えるかもしれない。 (完)