「平和とは」 牧すすむ
最近はテレビを観るのも新聞を開くのも少し憂鬱(ゆううつ)である。国内外を問わず暗いニュースが溢れていて、つい朝から溜息をつくことになってしまう。
世界の警察といわれたアメリカも、今や彼(か)の大統領が「アメリカファースト」と声高に宣言し、その影響か世界各国できな臭い摩擦が取沙汰されているのが現状。誰が正義で誰が悪なのかを判別することはなかなか難しい話ではあるが、少なくとも国境を越えて人と人とが互に手を取り合える、そんな平和が一日も早く来てほしいものだと心から願っている。
一方、国内に目を向ければこちらもやはり暗い出来事が多く胸が痛む。中でも「オレオレ詐欺」には腹立たしいという言葉だけでは到底言い表せない程の怒りを覚えてしまう。人の心をもてあそび、悲しみのドン底に突き落とす。そしてそのお金をギャンブルや遊興に湯水の如く使い、悪を悪とも思わない族(やから)。卑劣極まり無い犯行である。
他にもあおり運転で他人を傷つけ尊い命までも奪う。まるで地獄絵図のようだ。更に追討ちをかけるのは、それらの犯行に対する刑罰が軽過ぎること。加害者にも人権が有るにせよ、到底納得出来る量刑ではない。
「何んだこれは」などとテレビを観ながらひとりで憤っていることが多い。そんな私を横目に妻が一言。「血圧が上がるわョ」まあ確かにー。
私が教室でそんな話をすると必ず生徒の何人かが「うちの主人もそうなんですよ。いつもテレビに向かってひとりで怒ってます」と笑う。これはやはり歳を重ねたという証拠だと思うのだが、目の前に展開する悪事に対し何も出来ない自分への苛立ちでもある。もしなれるのであればいっそのこと、スーパーマンかスパイダーマン、007のナポレオンソロ(少々古いが)にでもなって正義のために戦いたい。などと子供じみた空想に陥ったりもしてしまう。これも平和な世の中でありたいと願う余りである。
さて血圧に悪い話はこれ位にして、気分の良い話題に移ることにしよう。
今、日本中ににわかラグビーファンが急増している。かく言う私もそのひとり。テレビの中で繰り広げられる屈強な男達の熱戦には思わず握る拳に力が入る。世界中の一流選手が目の辺りに集う「ワールドカップ」に日本中が燃えている。最初はルールも分からなかったが、何試合も観ている内に少しは理解出来るようになってきた。しかも日本のチームが勝ち進んでくれば尚のことー。今夜もビールがうまい!
あの激しい格闘技に「ノーサイド」という言葉があることも知って感動してしまった。試合が終わればお互いの健闘を称え合い、握手、ハグをする。笑顔も見せてー。実に素晴らしい、これぞ真のスポーツマンシップなのだと心から拍手を送り、そこに広がる平和を噛み締める瞬間である。
スケールの大きな話の後は一転してごく身近で細やかな話題を一つ。
先日、我が家の庭に一匹のカマキリを見付けた。体長5㎝位できれいな緑色の体をしている。実は私はカマキリが大の苦手。側に居るだけで鳥肌が立つ程だ。ある時など車のドアを開けようと手を伸ばした時、ドアの取手にカマキリが掴っていた。「ギャー」と叫んで飛び退いた私。何んの事は無い。カマキリ嫌いを知っている妻のイタズラ。物陰から彼女の笑い声が聞こえて来る。然も「こんな可愛いのに~」とのたまう。少女の様な悪趣味だ。
そんな私だが、地面をゆっくりと這うカマキリの子供をこのままにすれば、きっと誰かに踏まれるか車にひかれるに違いない。そう思って一大決心。庭ぼうきを手にカマキリの側へ。静かに近付きそっと先に掴らせるとそのまま素早く花壇へと運んで行く。ところが途中でカマキリが手元近くまで登って来た。
びっくりするやら焦るやらの私。それでもなんとか無事に草の上に移してやってやれやれホッと一息。気がつけばいつの間にかカマキリ君の姿はなく、どこかの草むらの陰に消えていた。
考えてみれば、これも彼(?)と私の間に生まれた小さな平和と言えるのかもしれない。そんな苦笑いの出来事であった。 (完)
「まわれまわれ 平和の地球よ」 伊神権太
「平和」って。何だろう。
私は二〇一二年五月八日に横浜港を出港して百二日間に及ぶピースボート地球一周の船旅をした。新聞記者の一線を退いたのを機会に人々が願う平和とはどんなことかを寄港する先々で聞いて回るのが狙いでもあった。そして。船旅を終えた私は「平和」とは、家族一緒に普通の生活を平々凡々に続けることだとの確信に至った。
とはいえ、現実は違う。世界に目を転じると、国家のエゴや民族間の対立、紛争などを原因とした醜い戦争をはじめ、人災といっていい悲惨な福島第一原発事故、さらには地震・津波・風水害といった自然災害、最近では環境悪化による地球温暖化という深刻な問題まで浮上。穏やかな暮らしがいかにありがたいことか、とつくづく思う。
乗船時、私は中国の厦門(あもい)をはじめ、タイのプーケット、エジプトのポートサイド、スペインのゲルニカ、フランスのル・アーブル、英国のロンドン、アイスランドのレイキャビク、ベネズエラのラグアイラ、メキシコのエンセナーダなど行く先々で「平和って何」と人々に問うてみた=自著「ピース・イズ・ラブ 君がいるから」(人間社刊)に詳しい=。多くの女性が「おかあさんと一緒に食事をし、話ができること」を第一にあげ、ル・アーブルで出会った少年は瞳を輝かせて「ラブ・イズ・ピース」と言い切った。私は少年の目を見ながら「なるほど。愛があれば戦争が起きることもなく、平和なのだ」と合点したのである。
また一九三六年四月二六日に世界で初めて、人類最初の無差別空爆を受け、無差別爆撃を怒ってピカソが描いた壁画で知られるゲルニカ市では平和博物館を訪れ、平和活動団体代表と空爆生存者による証言を聴く機会にも恵まれた。女性スタッフらはその日何が起こったのか、をわかりやすく証言してくれ、平和には「協定」「内心」「環境」「日常」の四つがあり、結論として「平和への道はない。平和そのものが道である」とマハトマ・ガンジーの言葉まで紹介してくれた。
たまたま私たちが訪れたその年の四月には長崎市とゲルニカ市が「市民を犠牲にするいかなる爆撃、紛争を許さない」「核兵器廃絶を求める」「平和の大切さを広める」「新しい世代にも平和の大切さを継承していく」の四原則に基づく平和協定を結んだばかりだ、との説明も受け、祈ると願いごとがかなうとされる〝ゲルニカの木〟に向かい、私たち〈平和の使者〉は手を合わせ世界の平和を祈りもした。
このほか、アイスランドで地熱発電を見学中、ビデオ機器が忽然と消えてしまい真っ青になった際、バスの運転手さんがわざわざ心当たりのレストランまで探しに行き「ありました」と手渡してくださった時のことば「この国に悪い人などひとりもいません。国中が平和なのですよ。泥棒など信じられません」も忘れられない。さすがは、かつてこのレイキャビクでレーガンとゴルバチョフの両氏、米ソ首脳が冷戦終結宣言をしただけのことはある、と感心したものである。
船旅の途次にはほかに「人の心の中に平和のトリデを築かなければならない」といったパリ・ユネスコ憲章をはじめ、「旅が平和をつくり平和が旅を可能にする」(ジャパングレイス社是)といった言葉が身にしみたことも確かだ。そして。八月十七日の朝。オーシャン・ドリーム号は横浜港に無事着いたが、このとき波止場に前夜から泊まり込みで出迎えにきてくれていた家族を目の前に、平和の尊さを実感したのも事実だ。何よりも穏やかな日々を抱きしめて歩いていきたい。これは全ての人に共通すると思う。
最後に乗船中のピースデー(八月九日)に平和の使者たちが船上で朗読した「原爆の詩」の一部を記しておきたい。
若者たちよ
君たちは 平和がどんなに尊いか
あなたたちは平和がどんなに幸せかを
もっともっと知ってほしい
……
地球に丸い輪がまわる
まわれまわれまわれ 緑の地球よ
まわれまわれまわれ まわれ
平和の地球よ いつまでも
(完)
「平和を楽しむ」 真伏善人
争いがなく、おだやかな日の続くことは、誰もが望んでいることであろう。しかしこの地球上の情報を見聞きする限り、残念ながら毎日のように争いごとがある。そして核開発だ。争いは生物の宿命でもあり、それによる新陳代謝が世界の歴史を作りあげているとも言えるだろうが、この先が本当に心配になる。
いったい平和とはどう理解し、受け止めたらよいのだろう。幸いこの日本という国は戦争の傷跡があるとはいえ、今では平和な国とされている。これからも世界の動乱に惑わされず進んでほしいものだ。
さて、この自由で平和という国の中で生活してきたのだが、もう自分の人生は終盤にかかっている。これからの日々をどう生きがいを持って楽しく進めるかを以前から考えてきた。結果、まずは人間関係を狭めることである。出来るだけ避けて進みたいのである。人間は関係が太くなるほど相手の影響も受けやすく、いつかは言葉の行き違いや理解の仕方などで心を痛め、そのことで離れていくのは辛い。
それと繁華街へはよほどの事がない限り足を向けない。これらを土台にして楽しく過ごせることを考え、行動に移せればいいのだが、ハードルは高かった。まずはこれまでの人間関係である。退職してからも電話での誘いが絶えることはなかった。また、近くの友達に口伝えでの誘われがあったりと、断るのにひと苦労であった。「自分の平和づくり」は甘くなかった。意を決して辛い決断をするしかなかった。
吹っ切れた気持ちは自由奔放をもたらした。まずは単独行動を基本として、一日を過ごせることを考えた。
道路地図を買い求めた。車のハンドルを握り郊外をめざす。そこは限られた地域の、河川敷である。人影は少なく、川の流れを目の前にして腰を下ろす。小石の敷き詰まった河原の凸凹感を尻で受け止め、足を投げ出す。
流れに見飽きたら、この辺に化石はないかと歩き回ったりをする。空を見上げれば季節感のある雲が浮かび、何とも言えない幸せよ。対岸の景色に見とれたり、声を上げて小石を精一杯遠くへ投げ込んだりと、身体を使う満足感もあった。
しかし、河川敷にばかり通うわけにもいかず、山の麓へと足を延ばした。広い道路から、くねった細い道へと進んでいく。里山が近くなってくると、川幅も狭くなり、招かれているような気持ちになる。青い田んぼや茶畑の美しさに、思わず見とれて車を停める。時を忘れ、歩く歩く、ただ歩く。木々の豊かさがあって、時には動物たちに出あったりもする。この穏やかさは、まさしく平和であるからこそだろう。そんなことを多く楽しんでいるうちに、ふと風景の美しさに、じっと見入ることが多くなっていた。
写真を撮ってみたい気持ちが湧きあがり、デジカメを持って出るようになる。切り取った風景写真を家でも楽しめ満足な日々を過ごす。描いてみたい―湧きあがる気持ちのままに、絵の具と画用紙を購入してしまう。自分が楽しめればそれでいいのだが、思いを込めて描かないと風景に申し訳ない。
こんな平和を楽しんでいると、ふと同じ地上で生きている動物たちはどうなのだろうと、余計なことを考えてしまう。同じ自然現象の中で生きているのに、平和とは人間社会だけが願い、思い、感じていることなのだろうか。 (完)
「平和な風景」 黒宮涼
夫の母の初盆に彼の仕事の都合もありお盆明けに行くことになった。スケジュールは夫に任せていたが、あまり会えない義兄と同じ日に合わせて里帰りすることになった。
夫が住んでいたのは名古屋だったが、幼少のころは夫の父の実家。岐阜の山奥に住んでいたらしい。これまでも法事や里帰りなどで私も何度かお邪魔したことはあったので、田舎の風景を思い出していた。
実家には今、お義父さんとお祖母さんが二人で住んでいる。当日も普通に居るものと思っていたのでいつもの通りお祖母さんに美味しいものを食べさせてあげたいと、夫が持ち前の料理の腕を振るう予定であったのだが。なんとタイミングの悪いことか。前日にお祖母さんが緊急入院することになった。病気で定期健診を受けていたのだが、体調が悪くなったらしい。私と夫は、お祖母さんの入院している病院へお見舞いに行ってから、実家に行くことになった。
病室でお祖母さんは笑顔で出迎えてくれた。思っていたよりは元気そうで安心した。
病院からさらに田舎のほうへ行くと実家があった。広い敷地に田畑。大きな家。何度訪れても口をぽかんと空けてしまう。家は親戚の人たちが集まって建てたらしい。築三十年ほど経つ。
お祖母さん不在の中、夫は手の込んだ料理を作った。美味しいご飯を食べたあと、順番にお風呂に入ることとなった。私の番になったので脱衣所に行くと、扉に鍵がついていないことを思い出した。浴室の扉にはあったが、以前閉めたときに鍵が回りにくいことを覚えていた。今回はいつもと違って家の中には私以外の女性はいない。人の家で不安なので浴室の鍵をかけることにした。
(これでもし開かなくなったら大変なことになるから、お願いだから出るときは開いて)と願いながら体を洗い湯船につかった。
しかし、私の願いはむなしく打ち砕かれた。何故ならば鍵が回らなくなり、扉が開かなくなったのだ。
そのときの私は、顔が青ざめていたと思う。最悪の事態だった。
私は自力で鍵を開けようと頑張った。傍にあった乾いたタオルを使ったり、掃除用のブラシの柄を使ってみたり。けれど鍵はびくともしない。私は恥ずかしさを押し殺して助けを求めることにした。
「助けてー」
早く気づいてほしいと願いながら、両手で拳をつくり扉を叩く。
私はせっかく温まった自分の体が冷えていることに気づいた。しかしそんなことを気にしている場合でもないと思った。なりふり構わず何度も叫び、音をたてた。気付かれたのはそれから数分後のことだった。
「どうしたの」
扉の向こうから声がして、夫が来てくれたのだとわかった。確かめるように夫側に鍵はあるかと問うと、ないという。
窓から出ることができればよかったのだが、窓は外側に柵がついており出ることができなかった。なので柵の隙間からレンチなどの工具を受け取り、頑張って自分で開けた。ほっと胸をなでおろしたかったが、開けたときに鍵が壊れてしまったことに申し訳なさを感じた。その日の夜はよく眠れなかった。
そんな悲惨な目にあった翌日のことだ。
「平和だね」
家の縁側で窓の外を見ていた夫の口から、そんな言葉がもれた。
「え?」
私は昨夜の騒動を思い出して落ち込んでいたので、首をかしげる。
「だってそうじゃない」
夫が窓の外の景色を見てという。田畑と近所の趣のある家。そして少し遠くに川と山が見えた。鳥の鳴き声と風の音も聴こえた。
「そうだね」
景色を見ながら私は頷いた。昨夜の出来事がなんだか小さなことに思えた。
そのとき私は確かに平和を感じていたのだ。 (完)
「得難い平和」 平子純
まず好戦的な生き方をしてきた私に平和を語る資格などない事を言っておこう。人に内在する戦闘意識をいかに抑えるかが第一の鍵だ。
人は賭事やスポーツが好きだ。いずれも闘いの中に美しいものや勝利を喜びとするからだ。古より人は飢餓と戦って来た。生存競争で始まる。人は奪ってでも生きようとしてきた。今潤っているからといって明日飢えるかもしれない。
気候変動は続いているし、明日何が起きるか分からない。人はいつも不安定なのだ。今日本が平和だからといって安心はしていられないのだ。私のように障害者となっては成すすべもないが体がいうことをきくならばスーパーボランティアのように出来たらと夢想するばかりである。ましてや現在のように隣国の韓国とさえ危ない状況なのだから。いつ何が突発的に偶発するか分かったものじゃない。人の心はいつ壊れ諍いに走るかもしれないのだ。人は競い易い。その為に昔の人達は徳を説いたのだ。
私の父母達の世代はまさしく戦争の世代であり、よく『撃ちてし止まむ』を口にしていた。戦前日本の中には大東亜共栄圏という思想があった。ヨーロッパやアメリカに対し日本が中心となってアジアに巨大な貿易圏を創るというものであった。戦争に負けその思想は徹底的に否定され今では口にする者さえなくなった死語だが、けっしてその時代において間違ってはいなかった。
中国が今、一帯一路とか巨大な経済圏を創ろうとしているが、それも同じ発想でいつまでたってもアジアと米欧とのしのぎ合いは続くし、もしアフリカ県が力を持てばもう一つの新しい核が加わるだろう。文明、宗教同士の対立はいつも続くのだ。そして戦争が始まる。
先日こんな事があった。障害者の私は常にリハビリが必要で時には機械が使いたいのだが、某整形外科の運営する場に通おうとしていた矢先、私がそこのレベルに達しないということで差別されてしまった。むげに断られたのである。優しさに欠けた事案であった。
世間とは不合理なことが多い。ちっぽけな事でも当事者は傷つきそこで黙ってしまえばそれまでの事だが、私のように反抗心が強い者は矛盾に抗ってしまいたくなる。大人気なく抵抗したくなる。いわば小さな戦争が始まる。
とことん私は戦争主義者なのかもしれぬと思うことがある。現在、香港のデモも香港市民は生まれながらに民主主義に慣れていて社会主義とはまるでイデオロギーが違う世界なのだ。市民が自由を求めるのは分かるが、イデオロギーの違いは抵抗を常に生み、いつか弾圧か殺し合いが始まる。民はいつも危機なのだ。日本は民主主義に慣れきり当たり前のように享受している。しかしいつ他の力によって壊されるかもしれない。
たとえば半島から八十年前の恨みでミサイルを撃ってくるかもしれないし中国やロシアが野心でちょっかいを出してくるかもしれない。国防を考えると背中が寒くなる。軍事大国でない日本は今年航空母艦を持つそうだが、搭載するのはアメリカから買うF35に何兆円か費やすらしい。国防とはいかにも金がかかるものだ。平和の代償は大きい。軍事は経済と完全に癒着している。アメリカの圧力はいかにも大きく日本はトヨタや三菱等を売る為にそうなっているのだ。
日本人の中には侍魂が内在している。どうしようもなく遺伝子の中に組み込まれたものだ。いつ何時又頭を出し侍国家を目指すかもしれないと私は危惧する。アジア各国もそれを恐れているのだろう。私の祖先も武士だった。父は旧帝国海軍軍人で同年兵や教え子たちがいつも来ていた。話題は戦争のことばかりだったし、中には朝鮮戦争に駆り出された人もいた。私は戦争に囲まれて育ったので戦争は遠い存在ではなかった。
現在、世界はまだ争いが絶えない。ヨーロッパには難民が押し寄せ、中東では戦争が続いている。アフリカはまだ殺し合う国が多い。私は平和を望んでいるが、周りはいつかそれを許さなくなるかもしれない。 (完)