「封筒と葉書」 真伏善人
封書での手紙というものを書かなくなって久しい。というより記憶をたどってみても、どの辺まであったのかさえもはっきりしない。他人に送る文書になるのだろうが、故郷の親族あてに送ったものさえ遠い昔のことだ。
そんなことを思いながらも、劣化の激しい頭の中をゆすっていたら、あの出来事がくっきりと浮かびあがったのである。
数十年も前のことだ。あれは二十歳の前後で、季節は初夏のころだったろう。ずっと想い続けていた同い年の娘に、意を決してラブレターを書いた。何度も何度も書き直して眠れない夜をすごした。
覚悟を決めた翌日、そっとポケットに忍ばせて職場に向かった。あまり早く渡しては彼女の仕事に差し支えると思い、就業前を待った。その時間が来るまで全く仕事が身につかなかった。就業前の彼女の行動に目を配り、すれ違いを狙った。そしてその時が来た。息苦しくなり手足が震えた。彼女一人が歩いてくる。そ知らぬふりして前に立ち止まり「これ」とだけ言って白い封筒を差し出した。彼女は、とまどった表情をしたが受け取ってくれた。胸の動悸がおさまらなかった。
「交際してもらえるなら待っています」、と待ち合わせ場所を最後の一行に書き添えた。
そこは、青いあじさいの咲いている小さな公園。
陽が陰りはじめたころに姿が見えた。だが現れたのは彼女ではなくて、その先輩だった。
「付き合っている人がいるから…」
と気の毒そうに言い、白い封筒を返してきた。
すごすごと暗い部屋に戻り、夕食もとらず膝を抱え、ため息ばかりをついていた。
そんな時、ラジオから流れてきたのが、『悲しき雨音』だった。なぐさめるようにそっと心に入ってきた。
痛めた胸も今ではなつかしい。
数年前のこと、彼女はこの地域の半径三キロ以内に住んでいるらしいと、耳にしたのだが。
そんな白い封筒の思い出がよみがえったのだが、つい先日印刷された一枚の辛いハガキが舞い込んだ。
裏面に目をやると、先輩だった彼の奥様から年賀状辞退の連絡であった。目を疑った。なんと四か月ほど前に亡くなっていたのである。思いもよらぬことに呆然とした。二、三年前に元気な先輩に会っていたのである。
その後、自分の身体の劣化に気が付いて、進行する前に、これは一度会っておきたいなと、常々思っていたのだ。全く残念であり、やるせない気持ちでいっぱいである。
それは遠い昔のことだ。同じ会社に勤めていた先輩が転勤を言い渡され、顔をしかめながら言葉を絞り出した。
「おい、おれ転勤になってしもうたぞ」
突然のことに返す言葉が出なかった。
先輩とは六歳違いで、独身寮の同じ部屋で過ごした。職場は異なったが私生活面ではあれこれと面倒をみてもらっていた。自分は、わがままで言葉遣いも悪く、他人に対しては、いつも上から目線で付け上がっていた。それでも、いかつい目をした角刈り頭の先輩は、決して怒鳴ったり手をあげたりはしなかった。
よく遊んでもらった事が次々と浮かんでくる。まずは花札であり、競輪に競馬、そして日暮れになれば飲み屋街。前後不覚になれば引きずられながらの帰寮。全く世話になりっぱなしであった。
この葉書が届いてから悔やんでも遅いのだが、冥福を祈りたい。 (完)