「粋な一匹文士」 伊神権太
ゆめ。ユメ。夢。私のドリームは何か。正直言って、私はいつだって〝夢んなか〟を歩き、生きている。だれとて、そうかもしれない。いや、そうに違いないだろう。だって。みんな生きているってことは。夢を求めて歩いているのだから。
私の場合、は。こどものころから、ずっと頭の中に自分なりの世界を描いて生きてきたが今もあのときの〝あこがれ〟のようなものは、頭の中で消えないで脈打っている。いや、むしろこの年になってなお、私のなかの夢細胞はますます大きく、増殖しつつあるのである。いったい、どんな夢なのか。
最近なら。第一に家族みんなが目には見えない恐るべき新型コロナウイルスに感染することなく、元気で日々を過ごす。そうだ。毎日を何事もなく平々凡々と幸せに暮らしていければ、それはそれとして「ちいさな夢」の実現といってよいのではないか。とはいえ、夢はやはり、デッカイ方がいい。私なら何であれ、小学生のころから大好きだった書くこと、そう、私なりの物語やコラム、エッセイ、ドキュメント……を元気でいついつまでも書き続けることが出来、その内容が人々に喜んでいただけ、たとえ少しではあっても楽しく生きる寄すがになってもらえるなら、もう最高に満足なのである。
ここで自分の夢の軌跡を生い立ちからたどってみよう。小学下級生のころは名人横綱栃錦(後の春日野日本相撲協会理事長)にあこがれ、大相撲があるとはラジオにかじりついていた。ラジオドラマの〈笛吹童子〉や〈紅孔雀〉などが一世を風靡していたころである。私はお相撲さんになりたくて仕方なく栃錦の真似をして下唇を前に出し、小学校の土俵で毎日のように嫌がる友だちを強引にひきづり出して相撲をしていた。負けなかった。栃錦の得意技だった上手出し投げに二枚蹴りを多用し、よく友だちを投げ捨てたものだ。ある時など「かあちゃん。あのね。ボクがいなくなったら、春日野部屋に入門するため東京に行っているから。覚えといて」と真剣な表情でおふくろに宣言したこともある。
でも、よくよく考えると私はあまりに小さすぎた。デ、泣く泣く東京行きをあきらめた日のことがつい、きのうのようだ。そして。次にあこがれたのが歌手である。小学生のころ、私は音楽の時間になるとは女性教師に「いがみくんは、うたがとっても上手だから。みんなの前で歌ってほしい」とおだてられ、小学唱歌を何度も何度も歌った。ときには美空ひばりの〈リンゴ追分〉なども歌った。デ、相撲はダメでも歌手の道がある。ヨシッ、親に内緒で東京に行って歌手になるのだ、と決意したまでは良かったが、どうして東京に行ったらよいか分からず、そのまま親に言われるまま私学の中学に入学した。
こんどは相撲が好きだったこともあり、入学したその日に柔道部に入ったのである。というわけで、中学校に入学してからは、それこそ雨の日も風の日も柔道着を自転車荷台に結わえ付けての登下校が続き、稽古は一日も休まなかった。中学三年で講道館柔道の初段をその中学では有史以来、初めて取得。高校一年生の時、運悪く母校を訪れた先輩にかけられた捨て身小内刈りが仇になり、右足を複雑骨折。このとき自宅療養で過ごした日々をのぞいては一日たりとも稽古を休んだことはなかったのである。
稽古の虫だった私はおかげで不遇を克服、高二で二段、大学入学後も稽古は休むことなく技の練磨を続け、二年のときに19歳で三段を取得。オールミッションの大学対抗大会でも優秀選手賞に輝いた。そして、このころになると私の夢はなぜか、まず新聞記者になり、最終的には作家、すなわち私にしか書けない文の書き手、いわゆるこの世でただ一人の一匹文士(いっぴきぶんし)になろう、と。そう決意したのである。
そして。波乱に富んだ新聞記者を卒業した私は今。新たな夢舞台である作家の世界に大きな一歩を踏み出している。わが人生では待ったなし、の粋な世界だといっていい。 (完)