「近くても、遠くても」 黒宮涼
コロナ禍の影響で、実家に帰りたくても帰れない状況が続いた五月後半。私は、ぎっくり腰というものを初めて体験した。昔、二番目の姉がぎっくり腰になってソファでふせっていたことを思い出す。あの時は、そんなに動けないほど痛いのか。と他人事のように思っていたのだが、いざ自分がなってみると本当に動けなくて涙が出てきた。
原因はというと、お米の入った米びつを少しだけ移動させようと引きずるように持ってしまったからだ。少し動かすのならこのぐらいの力で大丈夫だろうという油断をした。
私は施設にいた頃に、腰痛で病院に行って分離症と診断をされていた。そのためいつもは細心の注意を払って重い荷物などを持っていた。それをおろそかにしたためにこんな結果になってしまった。
最初の二、三日は本当に立ち上がることもできず、常備していた市販の湿布薬を貼って凌いだ。その間、料理などは夫が作ってくれた。こんなにありがたいと思ったことはなかった。世間はコロナ禍の中、リモート飲み会やらリモート帰省などしているというのに、私は何をやっているのだろうと布団の中で思っていた。同時に、夫がいてくれて本当によかったと思った。
私がぎっくり腰になるやいなや、夫はすぐにぎっくり腰について調べてくれた。「正座なら座れる」やら、「腰に負担をかけないような寝方」などを説明してくれた。私はそれをすぐに実践した。おかげでなんとか睡眠をとることができた。
徐々に動けるようになってきた頃、私は食器を洗おうと水道の蛇口に手をかけた。治りかけていた腰に痛みが走った。その日はまた痛みと戦いながら眠ることになった。
そんな攻防が続いて、一週間。まだ股関節の痛みが残っていたが、自粛期間中だったためもあり、私は病院へ行かなかった。たとえ期間中でなかったとしても、病院へ行ったかはわからない。何故なら私は病院が苦手だからだ。
じっと座っているのもつらいし、立っているのもつらいという状態が続いていたので、パソコンの前に座って執筆ができないことにショックを受けた。できる家事だけはやっていたが、こんなことなら腰を痛める前に、もっとたくさん書き物をしておけばよかったと思ってしまった。
そして腰が治りかけていた頃に、母からビデオ通話がかかって来た。母は最近、孫や子ども。家族のためにマスクを手作りしているらしい。私は母に、マスクの柄は何が良いかを尋ねられた。
「どれがいい?」と母が言いながら、カメラに様々な柄の布地を近づけて映してくれる。近づけすぎてピントが合わないのか、柄がぼやけていたので、私は思わず笑ってしまった。
「見えないよ」と私は返事をした。
母の姿を見て、安心した。こうして画面越しだけれど、家族の姿を見ることができるとは。なんていい時代になったのだろうと思う。インターネットがこんなに発達していなかったらビデオ通話で会話をするという発想もなかったかもしれない。逢いたいけれど逢えない時代が来るなんて、思いもしなかった。
私は母に腰のことを伝えようかと迷ったが、その時は伝えなかった。余計な心配をかけるだけだと思ったからだ。後日そのことを伝えることになったときには、「そういうことはちゃんといいなさい」と怒られてしまった。
マスクの話の最後に、母が「見て」と言いながらカメラを動かす。そこには、数日前に私と夫が母の日に送ったお花が花瓶に飾られていた。嬉しそうな母の姿を見て、私もまた嬉しく思った。
近くにいても、遠くにいても家族は家族なんだなと改めて思った。 (完)
「家族とは」 牧すすむ
夜のゴールデンタイムによくケータイが掛かって来る。然もテレビ電話だ。
画面を開けば孫の顔のアップ。観ていた番組は即中断。
「おじいちゃんおばあちゃん、元気?」で始まると思いきや、いきなりの本題。
「ねぇねぇ見て、こんなこと出来るよ」と、持っていたケータイをママに渡しバレエのポーズ。音楽に合わせて踊りだし、部屋はたちまち舞台となり所狭しと跳ね回る。当然それを追うママカメラマンは大変である。ひと通り踊り終わっての決めポーズに、観客としての拍手と「すごいねー! 上手だねー!」の誉め言葉は不可欠。得意満面の孫娘は「もう一度見たい?」とのたまう。ここでママ(娘)の登場。「もうすぐ発表会があるからね」と笑う。
小さい頃からバレエを習っていて時々発表会があるらしく、その都度家族ぐるみで鑑賞に出掛けるという。パパとお兄ちゃんのネクタイ着用は規則であり、ママも気合のドレスアップ。イギリスの発表会はなかなか大変だ。
娘と話していると突然画面ににこやかな顔が割って入りパパの参加となる。
「オトウサン、オカアサン、ゲンキデスカ? ワタシハゲンキデス」。たどたどしい日本語での挨拶はいつもどおりだ。まあ、こちらの英語も危なっかしいのでお互い様ではあるけれどー。
日本とイギリス、遠く離れていても時代の有難さ。テレビ電話でお互いの様子をリアルタイムで確認することが出来る。夢のような世界の中で自分達は生きているんだな! と改めて実感してしまう。科学の力に感謝である。
又、次男家族もお嫁さんがこまめに動画やメールを送ってくれたりテレビ電話を掛けてくれたりするので、孫や息子のことが手に取るように分かり妻と二人喜んでいる。
長い海外生活を終え、昨年ロスアンゼルスから帰国し今は千葉県に住んでいるが、ご多分に漏れずコロナ騒ぎでテレワークが増えたという。生活の違いで何かと戸惑いはあるようだが、もし帰国のタイミングが今年にズレていたらと思うとゾッとする。カリフォルニア州はコロナウイルスの激震地なのだから、本当にラッキーだったと思う。ステイフォームで幼稚園は休み、毎日が子守状態というがイギリスも同じく休校中、娘の話によるとこのまま九月の新学期まで開校が伸びそうだワ。と、ため息交じりに苦笑していた。
一方、長男は私の仕事を継いでくれていることもあり、目と鼻の先に居を構え毎日顔を合わせているし家族皆のことも分かっている。孫達もかたみに顔を見せてくれるので一緒に食事をする機会も多くコミュニケーションはよく取れていると思っている。特に一番上の孫娘には誕生を過ぎたばかりの子供がいて、自分にとっては曾孫。時々連れて来てくれるのが待ち遠しい。
とは言え、遠くにいても近くにいてもやっぱり今はコロナが心配の種、いつも頭から消えることはない。世界中の誰もが望む幸せ、それは家族の安泰と大きな愛に満ちた未来だ。一日も早い悪の終息を心から願って止まない。
話は変わるけれど、近々我が家に新しい家族が出来そうでワクワクしている。毎日決まった時間に夫婦(?)で訪れ、早朝に出て行く。実に律義者である。と言ってもこれはツバメの話。
このところ我が家の軒下にカップルと思われる二羽のツバメが居着き、夕方暗くなる頃やって来て日の出と共に飛び立って行く。まだ巣作りは始めていないが、やがてここで新しい命が誕生するかもしれない。我が家にとっては初めてのことである。ツバメの営巣は縁起が良いとも聞くので楽しみも大きい。今日も二羽が仲良く軒下に並んでいた。これも新しい家族、早く可愛い孫達(?)の顔を見たいものだと、妻と二人胸を躍らせている。
コロナの暗いニュースで明け暮れる中、彼らは我が家に舞い降りてくれた天使なのかもしれない。と、心底そう思いながら~。 (完)
「阿闍梨のような先生」 山の杜伊吹
息子は小中学校で、5つくらい塾を替わった。勉強はしているのに、テストの点が上がらない。真面目な性格でちゃんと努力しているだけに、可哀そうであった。
あれは中3の前期の中間テストの後だから7月だったか。人づてに聞いてワラをもすがる思いで駆け込んだのが、自宅で教えている78歳のおばあちゃん先生の塾だった。
もう時間がない。最後の賭けであった。阿闍梨のような眼をした先生は、50年以上塾で教えていたが病気をし、今は自宅で教えている。指を使って計算しなければならないような子から、進学校を目指す子までどんな子どもでも対応できるという。
時給500円で1回3時間、金儲けの塾ではないことが分かる。その良心的な時給もさることながら、3時間という長さも魅力であった。通常の塾は90分で詰め込む。理解の遅い子にはまたたく間に過ぎ去ってしまう。3時間で繰り返し問題を解き、マンツーマンでじっくりと見て、どこでどうつまずくのか、ミスしやすい癖まで、きめ細かくアドバイスしてくれるという。
週に3~4日通い、テスト前や長期休暇ではほぼ毎日教わりに行った。
その先生の献身たるや親心そのもので、息子のことを、まるで実の孫のように可愛がってくれたのである。
そして夏休み明けの前期の期末テストで150点もアップ。苦手な数学が平均を大きく越え、教わっていないもっと苦手な理科までも40点上がり、親も同席する進路説明会で全校生徒の前で褒められるくらいであった。まさか、こんなに上がるなんてあり得ない。絶対に魔法を使ったと思った。何か、すごい術を。
親だからよく分かるが、ミスしがちで理解も遅く、何度言っても忘れてしまう手の掛かる子だ。赤ちゃんの頃住んでいた古い借家には大きなゴキブリがよく出て、殺虫スプレーをかけて殺していたが、その煙を吸い過ぎて、脳に悪影響が出たのか、とか山の近くで春から秋は蚊取りを一日中つけていたので、それが子どもの頭に悪かったのだろうかと、真剣に考えたくらいである。どの塾へ替わっても点数は上がるどころか下がる一方で、絶望していた。そこへ現れた救世主だった。
その後もテストの点は上がり続け、第一志望の高校に合格した。無理を言って、入学してからも教えてもらった。先生も高校生は過去6人しか教えていないということで、高校の教科書や参考書を買って努力され、解けない問題は知り合いの数学者やらご近所の大学教授に聞きに行き、難易度の高い問題も解るように、かみ砕いて教えようとしてくれた。
そのお姿は、教える道の求道者のようで、決して諦めることなく、努力され続けていた。まるで命を削るように教えてくれていた。息子は高校のテストでも点数が上がり続け、特別進学クラスに入った。
脳をオーバーホールしてもらったと思っている。まるで新しく生まれ変わったかのようだ。分解点検修理し、記憶の刻み方を教わった。驚くのは、塾は数学がメインだったが、教えてもらっていない理科、英語、国語まで上がったことだ。勉強ができるようになると、運命が、人生が変わってくる。友達が勉強を教えてと言ってくる。学校の先生があなたは分かるわね、と優しく接してくれる。周りが一目置くようになった結果、ますますやる気になる。
先生が入院したのは昨年の夏頃だった。テスト前で心配だから、病院まで来てくれれば教えられるし、すでに家族の了解は取ってあるという。息子は病院にテキストを持ち込んで教わった。
今年の1月、いつものように家に行くと先生が倒れていて、救急車を呼んだ。その後、ご家族から「息子さんに勉強を教えるのが生きがいになっているから今まで言えずにいたが、末期がんで余命わずか。ドクターによると昨年死んでいるはずだが、まだ奇跡的に生きている」と、知らされた。
そして、5月に先生は亡くなられた。
家族でお通夜に行くと、ご主人であるおじいちゃん、息子さん2人、お孫さんたちなど、ここ1年半よく顔を見たご親戚の方々が、息子の顔を見るなり、波のように嗚咽した。こちらもすっかり身内のような感覚になっており、溢れる涙を止めることができなかった。
先生の人生の中で、息子は最後の教え子となった。
「もう先生にLINEしても返事は返ってこないの」
頭の良い子に教えるのは簡単だ。そうでない子に分かるように教えるのは難しい。プロ中のプロの先生であった。息子だけでなく私たち、家族を救ってくれた。棺の中には、先生との血のにじむような勉強の証、お家に残されていた息子のプリントを一緒に入れてくれたという。 (完)
「【泣かんとき】。ある家族の風景」伊神権太
どの家族にも喜びや悲しみの風景がある。遠い昔も、今だって。わが家とて同じだ。そう言う私自身、今はチョット辛く、悲しく、胸が痛んでいる。
というのは、妻が先日(6月27日)、自転車に乗っていて路上で転倒。救急車で病院に運ばれ、左大腿部頸部骨折という悪夢に襲われたのである。そんなわけで私は彼女の手術の間、病院の控え室で無事終わるよう祈りつつ、このテーマエッセイを書き始めた。人生いろいろ。山あり谷あり、だ。そして家族はそのつど危機にさらされるが、その分、絆は深まっていく。
―もうずいぶん昔になる。話は能登にいたころに遡る。やっとヨチヨチ歩きができるようになったばかりなのに。寒さからきたリンパ管腫に襲われ二度の大手術を乗り越え、ほっとしたと思ったら今度は熱湯が煮えたぎったヤカンに激突、大やけどを負った三男坊。
それより前には新聞社の通信局舎階段を二階から転げ落ち、救急車で運ばれた次男。名古屋の私立中に入学してまもなく私の転勤で涙ながらに転校した長男。皆、こうした艱難辛苦を一つひとつ乗り越え、今がある。
森進一の「襟裳岬」が流行っていたころ。若さゆえか。志摩半島で地方記者生活をする私のもとにダイビングよろしく、飛び込んできた妻に至っては、楽しく幸せだった分が多いだけ、突然の不幸に何度か襲われた。今回の悲劇は、東日本大震災の年に行った脳腫瘍摘出の大手術に続くものでこんどは、これまた世界を震わせ続ける新型コロナウイルスによるコロナ禍にあわせでもするような、わが家にとっては思いもしなかった不幸、大事件発生となったのである。
そして。生後13日目から母の胸に抱かれ中国東北部・奉天(現瀋陽)から日本への引き揚げ開始で人生街道が始まった私は、といえばだ。少年時代の柔道の稽古さなかに起きた右足複雑骨折、寒い朝に突然見舞われた名鉄駅での転倒入院、最近では右肺三分の一の切除とこれに続く右ひじ骨折など。いろいろあったが、能登にいたころ断崖絶壁から夏の海に真っ逆さまに自ら飛び込み周囲をあ然とさせたことなど、幸せ余っての無謀な行いとなると、数え知れない気がするのである。
海に飛び込んだ日は、確かモントレージャズフェスティバルの誘致に成功した和倉温泉に歓喜してのことだった、と記憶している。
今回の妻の大腿部頸部骨折による入院手術では母を心配する長男から「回復して歩けるようになったら、小牧のメナード美術館か、どこかに行きましょう。ただコロナもあるのでゆっくりで良いと思います。短歌の件ですが、おかあさんのブログ欄には載せられなくても、毎日作って下さい」とメールが入り、ほどなくして「短歌ではなく俳句でした。間違えました」の訂正メールも。
これに対して私は「ありがとう。おかあさん、俳句はむろん、短歌の方も七尾の短歌の会【澪】に所属し作っています。おかあさん短歌では若いころ、栄誉ある長谷川等伯賞の初代受賞者です。俳句も中日(東京)新聞の<平和の俳句>賞など数々の賞を得ており、文学者としては私よりはるかに上の実力者です。おまえたちは知らないだろうが、今は亡き俳句界の巨星・金子兜太さんからは以前、NHKの俳句番組の助手として一年間出演してほしい、と懇願されたことがあります。当時は私が忙し過ぎて、こどもの世話もしなくちゃならないので丁重にお断りしたことがあります。だから、おかあさん。手術が終わって落ち着いたら、また俳句も短歌も作り始めるかと思います。詳しくはネットで調べるとよい、と思います」と返信した。
いやはや、この世の中。いつなんどき何が起きるか知れたものでない。でも、こうした時は決してめげることなく、手に手を取り合って行くしかない。そう思う昨今である。そういえば、三男坊が金沢医科大学病院に入院していたころ、こう言って私たちを逆に励ましてくれた。
「オトン。オカン。泣かんとき。ぼく、頑張る。がんばるから」。 (完)
「旧家族」 真伏善人
僕の父は新潟県の北部で、農家の長男として生まれ育っていた。だが成長するにつれて、農家を継ぐ気持ちが次第に薄れていったらしい。いつか親にそんな態度をみてとられて激怒されたが、本人の気持はもう他に移っていたようだ。親にその旨を願い出ると、怒声の「出て行け!」を言い渡されたらしい。勘当同然で東京へ向かったという。家族を全員連れて行くことはできず、とりあえず妻と長男だけで向かった。残されたのがおばあさんと二男三男長女の、計四人であった。
都会での商売は、思ったようにいかず、すぐに茨城へと移ったという。やはりそこでもうまくいかず、今度は宮城県へと移動となる。そこで始めた商売が、思いのほかうまく進んで、かなり恵まれた生活が出来るようになっていたという。そこで新潟に残っていた家族たちを呼び寄せて一家がそろったことになる。
だがその数年後、悪夢が襲ってしまう。日本が戦争という国策に舵を切った。有利に戦えたというのは一時のことで、その後は日本上空に戦闘機の群れが舞い、爆弾を雨のように投下したという。それは仙台市に店を構えていた父の地域にも及び、逃げることだけで精一杯で、家も失い命からがら故郷へ戻ったという。
しかし故郷は当然冷たく、背を向けられてしまう。仕方なく親戚にたよるしかないと、頭を下げて、ようやく豚小屋の一区画を貸してもらえる。そして、なんと僕はその豚小屋で、五男として生まれたのだった。手狭になったらしく、他の親戚の裏小屋に移り、窓のない筵敷き広間で、菓子作りを続けるのであった。
僕が記憶にあるのは、そこでの家族六人の生活からである。 その後、三つ違いの次女が生まれて兄となってしまう。この家に時折、背の高い男が入ってきて、なにやら親と言葉をやり取りしていたが、それが家族の次男であることを、随分あとで知ることになる。僕は菓子の仕入れに来ていると思っていたくらいだ。長男にいたっては、勤め先の菓子店舗で生活を続けていたらしく、まるで面影はなかった。
僕が小学校に通う年齢になった春-。これから必要な制服や帽子、そしてランドセル。これをどうしても揃えなければならない。母が毎日のように近所を回り、お古を貸してもらえないかと、頭を下げていた。同じように頭を下げている人たちがいて、見通しはつかないと首を垂れるばかり。新しいものを揃えるようなお金は、到底都合ができなかったのであろう。
そんな日が続いていたある日。住んでいる小屋の、狭くて暗い入口に「小包でーす」との声があった。手を止めて出て行く母。大きな包みを抱いて戻ってくるや、床筵にそっと置いた。
父が溢れんばかりの笑み。
「開いて見ろ」
おそるおそる手をかける母。
「わあ!ランドセルがきたあ」
名古屋で働いている三男の兄からであった。顔も知らない兄からランドセルと学用品が届いたのだ。声をあげて、とびまわったあのうれしさは、今でも鮮明に覚えている。それは、生涯忘れることができない。顔を見たこともない兄、口を利いたこともない兄、こんな家族の中で育ったのだが、残っている旧家族は僕と長男、姉妹の四人である。 (完)