「浮遊していくもの」 山の杜伊吹

 もしもあの時、あの選択をしたらどうなっていただろう。そんなことをよく考える。
 いくつかの、人生のターニングポイントがあった。別の次元で、別の選択をした自分が、違う人生を生きていることを夢想する。何にも縛られず、囚われのない人生を選ぶことは可能だったはず。そんな自分は自由を謳歌していただろうか。
 でも、もう戻れない。タイムマシーンに乗って過去に戻ってやり直すのは無理な話だ。旅立ち、出会い、別れ、再会、チャンス、選択。迷いながら、逃して、寄り道をしながら、すべて、全てを自分が選んだ。その中のいくつかは、間違いだったと思えるし、正しかったとも言える。

 あの神社は、昔から寒々しかった。神社の名前が付いた幼稚園に通っていた。境内の公園でよく遊んだ。木登り、ブランコ、滑り台、何十年も前に、無垢な少女は確かにそこに存在していた。ちょっと鈍くて、暗かったかもしれないが、元気に走り回っていた。今思えば、幼稚園にすら行きたくなかった。卒園して、小学生になっても、よくその神社のある公園に行った。自分の身体は大きくなっていても、心は子どものまま。神社もいつも変わらないままそこにあったけど、空っぽみたいで、何を話しかけても返事はなかった。神社は、いたいけな私の成長を見ていたに違いないのに、ただ風景としてそこに在るだけに思えた。

 中学生になって、学校に行きたくなくなった。でも、朝は出発しなければならなかった。足は学校に向かない。どこか別の場所に行きたかった。遊んでいたかったわけではない。休む場所、潜む場所を探していた。
 あの神社は、無機質で寒々しいまま、変わらずそこに在った。訪れる人もまばらで、私は社殿の奥の茂みに身を潜めた。中学校の重いカバンを放り出し、石垣に背中をつけて座った。楽チンだった。ここにいようと決めた。神社は何も言わず、私を受け入れた。ダメになった私を、そばに置いた。
 3日間位そこにいたけれど、やがて、大人に見つかった。誰かが平日のまっ昼間に社殿の奥にいる制服の女子中学生を見つけて、学校に通報したのだ。また学校に行かなくてはならなくなった。神社は私を見放したのか、相変わらず、無言のまま、そこに在った。

 体調の悪い1年だった。仕事が半分になり、数カ月してそのまた半分になり、ショックと夏の暑さと仕事の完結に向けてのプレッシャーが重なり発熱した。39度の熱が1週間続いて下がらず、コロナを疑った病院は、換気のために真夏の熱風が吹きすさぶエアコンの効かないプレハブで発熱している私を一人で30分も待たせた。
 防護服ならぬビニール袋を被ったインターンらしき学生のような若い医者が現れて採血し、自家用車の中で待つよう言った。ウイルスは検出されず、念のため肺のCTスキャンをし、きれいな肺であることが証明されて、やっと院内に入るのを許された。
 一刻も早く点滴をしてほしいと言うと、別のインターンらしき医者が注射針を何回刺しても狙ったところに刺せず、弱り切った私は痛くても痛いと言うことすらできなかった。無力に横たわり、朦朧とした脳裏に、死、の文字が頭をよぎった。熱は意識を別の次元へ誘った。頭がぐるぐる回り吐き気がして、つぶった眼に発光体が現れた。ずっと忘れていたあの神社が、おぼろげに浮かんでは消えた。

 体調が回復し、甦った私は、再生への道をゆっくりと上り始めた。仕事が激減した分、時間に余裕ができて、知り合いが誘ってくれたトレッキングの会にゆるく参加し始めた。30年前に買った山靴が、朽ちることなく下駄箱の奥にあり、履いてみると近所の山歩きで、立派に息を吹き返した。
 一歩、また一歩と、落ち葉の積もった道を進む度に、憑りつかれたように山に登っていた20代が思い出される。都会で疲れ切った魂を、空気、木々、眺望、すべてが癒やして浄化してくれた。山が好きだった。
 30年経ち、人をこの世に2人産み出してすっかり重くなった脚を、ゆっくりと運んで進んでいく岩山。四本の手足で這いつくばって登って行く先では、カケスの声が聞こえる。根が絡まる林道を、森の精霊がよけて行く。五感が狂い、道に迷い、背丈ほどの草木が生い繁る道なき道を分け入り、急な斜面を下山する。靴の中で、足の指をいっぱいに開いて猿になり、引力の力で落ちて行く体を食い止める。木に体を頼るが、あっけなく折れ、尻で体重を支え、そろりそろり。イノシシのヌタ場、川のせせらぎ、小魚、名もなき滝。甘酸っぱい野イチゴ。
 自然から力をもらって生還し、眠っていた野性が目覚めた。遠くに太平洋の海がキラキラ光る。ああ再び、無になっている。

 久方ぶりに、偶然あの神社に行った。昔のように、無慈悲であるかように、寒々とそこに在るばかりだった。話しかけても何も聞こえない。祭囃子の音色も廃れ、祭りもなくなり、幼稚園も他所へ引っ越してしまった。公園で遊ぶ子どもたちの姿もない。私もいつか骨になり、村人が絶え、過疎地になってしまったとしても、無のまま、神社はそこに在り続けるような気がする。(完)

「一本の弦に寄せて」 牧すすむ

「先生、音が合わないので見て下さい」と声が掛かる。「はい、はい」と腰を上げ生徒の席へ向かう。これがいつもの大正琴教室の風景だ。チューニングをしてあげると〝凛〟とした音が室内に響き、嬉しそうな顔で再び譜面に向かう彼女の指は楽し気に弾んでいた。
「では始めますよ、用意はいいですか」という私の掛け声とともに演奏が始まる。何度も練習してきた曲なので感情も入り、心地良いリズムに乗ってメロディが美しく流れて行く。一緒に弾いている自分も思わず笑顔になる。大正琴の音色に魅せられた彼女達が繰り出すハーモニーは多くの人の心を癒すと共に、深い感動の世界へと誘ってくれる。音楽を愛し楽器を愛し、日々の練習を愛する彼女達だからこそ分かり合える一瞬とも言える。
 同時に私もこの道に携わった人生の幸せを思い、ピックを持つその手の先に熱い血の流れを感じるのである。大正琴が奏でる多くの曲はナツメロ等の演歌と思われているが案外とそうでもなく、「白鳥の湖」や「運命」、「エリーゼのために」等のクラシックを演奏したりもする。というのも元々大正琴は和楽器ではないからだ。
 構造はギターとピアノを合体させた西洋楽器で百年程前に名古屋出身の「森田吾郎」という人が考案、その後広く海外にも伝えられた。という訳で音色もギターやマンドリンに似ている。然も今では専用マイクも取り付けられエレキギターの様な演奏まで可能、愛好者の世代も幅広くなった。それ故ジャンルにも変化を求められ、若者の歌う曲やアニメの曲等も手掛ける様になって楽しさも増えた。大正琴に向かう時はそんな日本の文化の更なる発展を願いつつ、自分なりに微力を尽くしていきたいとそう思うのである。
 又、発表会となれば夢の舞台に胸をときめかせてその練習が続くけれど、時には逃げ出したくなるほどの重圧に駆られることもある。そんな時は楽譜に八つ当たりもするけれど、やっぱり音楽は捨てられない。昔から「練習は嘘をつかない」という諺がある。思い直して又弦を弾く。そんなことを重ね重ねて出来上がった時の喜びは何にも変え難いし、だからこそ私達は大正琴という楽器を心から愛し恋するのである。

  ところで目を他に移せば、今や世界中が新型コロナウイルスに侵され日々その恐怖におびえながら生活している。治療薬のメドも立たないまま毎日多くの人達が大切な命を亡くし、もがき苦しむのを誰が想像しただろうか。テレビをつけても新聞を見てもこのニュースで溢れ返り、思わず目を覆いたくなる。又それが原因で様々な醜い争いも起き、世界中の人達の心までが病んでしまったかの様だ。
 私もイギリスに嫁いだ娘がいる。二人の孫もー。アメリカやフランス、インド等と並べられる程イギリスも感染者が多い。昨年長い海外生活を終えロスアンゼルスから帰国して千葉県に住む次男家族のことも同様で、心配の種は尽きない。当然私が生業とする大正琴の教室もコロナ禍の波に飲まれ休みが続く毎日。更に追い打ちを掛ける様に全ての発表会や活動が中止となった。心が折れるとは正にこのことだと改めて知らされた思いがする。
 話を戻せば冒頭の楽器の不具合も広い意味での病かもー。単に調弦の不良であればその場で解消出来るけれど、他の原因も様々ある。長年使用したものは当然損傷が大きく直ちに入院治療(?)となる。どんな楽器も良い音色を求めるには定期的なメンテナンスが必要で有る事は言うまでもない。
 コロナの闇に包まれる中、生徒達の熱い思いに応えてユーチューブでの発表会を行っているが、やはり晴れの舞台で存分に演奏をさせてあげたいとの願いは強く、一日も早いコロナの収束を心から切に祈るばかりである。(完)

「恋煩い」とコロナ禍 伊神権太

 私の場合。これまで歩いてきた先々での【病(やまい)】といえば、そのつどひそかなる心にとめた相手を思い、慕う気持ち。これを【恋】といえるかどうかは分からないが、一種の【恋煩い】とでもいえようか。過去、静かに思いを寄せた相手となると男女に限らず一体何人になるだろう。随分、多くの方々と楽しく時には危険をはらんだ、それこそ、ひとさまが聴いたら「えぇ! そんなこと。ホントにあったの」と顔をしかめられそうな、とてつもなくショッパイ味のする道である。これは人間、誰とて言わないだけで生きている限り、同じかもしれない。
 というわけで、私を巡る恋歌が出来ても決しておかしくはない。かつて遠い昔に、私の依頼で能登半島を舞台にふるさと音楽家牧すすむさん(「熱砂」同人。琴伝流大正琴弦洲会の会主、大師範)が作曲してくださり一時期、土地の町長さんが公用車で移動する際などにテープを聞きながらよく口ずさんでくれた歌と同じ【さよなら橋(作曲・牧すすむ、歌・岡ゆう子、ビクター)】のパート➋とでも名付けようか。

 いやはや、私にとっての恋煩いは、地方記者として行く先々で、それも出会いと別れの途上で寄せては返す波のうねりの如く繰り返し起きたり消えたりしたものだ。それだけに、どこまでが本当なのか、が分からない。仕事柄、当然、離別は必定で引き離されざるを得ない自分自身が少しかわいそうだったような、そんな気もする。今だから告白できるのだが。貴重な取材源でもあり、いつも内緒で誰よりも最初に事件発生を教えてくれた最寄りの警察の電話交換手に始まり、志摩の海女さん、女護ケ島(渡鹿野)の女性たち、真珠王・御木本幸吉の懐刀だった漁協組合長とそのお孫さん、土地を代表するミス(ミス和倉温泉など)や泣く子も黙る女傑新聞販売店主、旅館の女将、着物着付師、全国最多選の女性町長から作家、舞踊・生け花のお師匠さん、さらには日本画家、エッセイストに歌手、社員食堂スタッフ。ほかに居酒屋のママさん、マルボウ崩れの男まで。
 それこそ、多くの方々のあの顔、この顔が浮かび、随分と横着で楽しい幸せな時代を過ごしてきたものである。実際、社会人になって間もなく出会った女性をはじめ、多くの方々に可愛がっていただき、そんな心情につい魅かれたこととなると数え知れない。能登・七尾ではバレンタインデーになるとは、【夢をあきらめないで】といった送り主不明のカセットテープなど決まって贈り物が届き、心ときめいたものである。かつての任地の女性(書家)が転任地まで訪れ、ドライブを楽しんだ日も今は昔の思い出となった。
 ほかに、越中おわら風の盆の町・八尾では一時期、訪れるたびごとに何かとお世話になった女性がいる。大垣から大津に転勤したその日に、ある女性から紫のかれんなカトレアの生花が届き、あの日の感激は今も忘れられない。私は在任中の三年余というもの、帰宅するつど毎日、このカトレアの根っこにコップに半分の水を与え続け短編小説「くひな笛」を書きあげたのである。最近では、地球一周の船旅ピースボートで知り合った方との縁も忘れられない。これらは全てもはや忘却のかなたか。いやいや、私の中の恋煩いは生きている限りまだまだ収まりそうにない。

 いま、この世は、日本はおろか世界中が見えない敵、新型コロナウイルスによる【コロナ禍】のただなかにある。これとて大きな病、地球の病気といってよい。もしかしたら、このまま人間が滅びるかもしれない。だが、しかしだ。私たちは、こうした時にこそ、めぐりあった互いのご縁や絆を大切に生きてゆかねば、と思う。そのためにも互いを思いやる恋煩いなら、どんどんしてよいと思う。そして。力強く生きていく。今こそ、人が人を励ましあって前に向かって歩んでいく。それこそが、何よりの特効薬だ。人間には、互いに互いを思いやる、病魔を追放するやさしさと知恵がある。どこまでも。そう信じて-(完)

「忘れられない、忘れる病」 黒宮涼

 祖母が亡くなったのは、梅雨の時期だった。その日は午後から雨が降った。病院の廊下で、誰もいない時を見計らって私はこっそり泣いていた。病院の中庭の大きな木の葉は、しとしとと降る雨にあたって揺れていた。色々な覚悟をしてここに来たけれど、結局私は何かできたのだろうか。そんなことを、思っていた。
 祖母のことを思い出そうとすると、一番古い記憶は煙草を吸っている姿だ。部屋はもくもくとした煙が広がっていて、透明な瓶の中に吸い殻が何個も入っている。私はその部屋に近づくことが好きではなかった。そして祖母の事も、正直に言えば苦手だった。祖母が煙草をやめるまでは、本当に隣にいるのも嫌だったのだ。
 私は中学生の頃に、不登校になった。父も母も仕事で忙しく、一緒にいる時間が長いのは祖母と祖父だった。二階にある自室に閉じこもっていたのでまともにご飯を食べることが少なく、二階まで祖母がご飯を持ってきてくれることがあった。たまに私が一階へ降りて台所へ行くと、祖父と祖母と三人でご飯を食べた。
「おばあちゃんは、涼ちゃんが大好きだから」と母はことあるごとに言った。だから祖母は、すごく私のことを心配しているのだと。しかし私は祖母のことを好きかと問われたら、素直にそうだと言うことはできないと思う。好きなところもあったし嫌いなところもあったからだ。

 祖母の認知症の症状が現れ始めたのは、祖父が亡くなってから数か月後だったと思う。祖母が徘徊を始めたのだ。最初は普通に散歩をしているのだと思っていた。けれどある時から近所の人が、祖母が迷子になっているのを発見して家まで連れてきてくれるようになった。
 その症状に初めて深刻さを感じたのは、私が大学を中退したばかりの頃だった。一番上の姉は妊娠中で実家に帰ってきていた。姉が祖母に「何か食べたいものはあるか」と問われ、姉は「果物を食べたい」と答えた。「買ってきたるわ」と祖母が言った。
 その時は大丈夫だろうと思って、自転車に乗って買い物へ行く祖母のことを止めなかった。しかし何時間経っても一向に帰ってこない祖母を、私と姉は次第に心配をするようになった。
 そんなときに突然、電話が鳴った。
「おばあちゃん、道に迷って警察の人が保護したんだって。これから警察の人と一緒に帰ってくるらしい」と電話に出た姉が言った。
 私は驚いて目を丸くした。言葉がでなかった。どうやら祖母はスーパーに行くはずが途中で道を逸れて、スーパーからとんでもなく離れたところで通りがかりの人が見つけて、警察に連れて行ってくれたのだそうだ。
 私はその日、祖母を一人で買い物に行かせてはいけないと学んだ。もう昔のようにしっかり者の元気な祖母はいないのだと理解した。それにはショックを受けたが、私がしっかりしなきゃなと思うようになった。
 それから、私が結婚して家を出て行くまでの四年間。家族や親せきの手を借りながらも、祖母の世話はほとんど私がしていたように思う。結果的に、祖母への恩返しができたのでよかったのではないかと今は思っている。

 様々なことがあり大変な思いをしたけれど、不思議と哀しいという気持ちがない。亡くなる数週間前に私の夢に祖母が出てきて、泣きながら「ありがとう」と祖母に伝えられたからだろうか。危篤と聞いても亡くなった事実を目の当たりにしても、哀しいとだけは思わなかった。
 姉が言ってくれた言葉がある。
「おばあちゃんはきっと、幸せな気持ちで逝くことができたよ」
 その言葉を聞いて私はほっとした。私の頑張りが全部無駄ではなかったのだとそう思えた。
「そうだったらいいなぁ」と私は思って、少しだけ泣いた。 (完)

「病の人生」 真伏善人

 さて、病の心当たりはと、思いを起こしていたら何と己が病の人生を歩んで来ていたのだった。
 まずは身体の病である。
 義務教育を終え、裏日本の下越から表日本の名古屋へ生活の場が移った。気候には恵まれて満足していたのだが、欠かすことのできない食事には苦労した。水が変わればなんとやらと言われるが、その何とやらが苦痛で、もう逃げ出したくなった。この地に就職してこれからだというのに、まさか食事なしで生きていけるわけがない。無理やり喉を通して腹に押し込んだ。そんなことを続けているうちに身体が我慢できなくなり、倒れるようになった。
 これではと、考えたのは食べられるものだけ食べればいいではないかと開き直った。そうして食事をしていたがやはり体調はすぐれない。寝込むほどではないがきつかった。それでも仕事は休むわけにいかず、苦しい生活は続いた。もともと細身だったので目立つこともなく、我慢も慣れていくようだった。
 しかしである。年齢を重ねていくと、待っていたのは酒であった。先輩に誘われるがままに飲み歩き、時には酔いつぶれて道端に寝転がってしまったり、引きずられながら帰ると門限は、とうに過ぎていたということが幾度もあった。酒に呑まれていたあの時代は確かに病んでいた。
 そして心の病である。
 時が過ぎ、後輩に誘われて渓流へ釣りに行くようになっていた。いつものように源流近くまで行くと、小さな山が現れる。全く釣れず竿を置いて目前の小山へと昇り始める。不思議なもので、頂を見上げると呼んでいるように思え、どんどんと手足を使って上り詰める。良い眺めに満足していると、下から後輩の声が上がってくる。早く下りてこいとの合図だ。転がるように斜面を駆け降りる。魚は釣れなくてもこの満足感がのちに取りつかれる山登りであった。
 名もない小山から始まり、この地方の名のある山へと足は延びた。できれば一人静かに歩きながら、山のつぶやきを聞きたかった。だが、なかなかそんな山登りには出合えない。そのうちに、名のある山へと足が向いてしまい、とうとうアルプスへの登山となってしまう。
 しかし、ここで致命的な事態が起きてしまう。ある日職場で上司から手招きされて、個室で言い渡されたのは転勤であった。しかも関西方面への異動であった。目の前が真っ暗になった。山登りを生きがいとしていた生活がひっくり返され、呆然とした。単身赴任先で近くの山に足を向けてみたが満足できるはずもなく、登山はここで幕を閉じた。この転勤で少しは冷静に物事を思うようになった。病に取りつかれたような山登りに終止符をうったのだった。

 はや老齢になろうとしている。そろそろ終活をと、狭い部屋の片づけに入ると、棚の奥から折りたたんだ地形図が驚くほど出てきたのである。思わず声を上げてしまった。見ていると、むくむくと血が湧きあがってくる。さあこれをどうしようと考えてしまう。
 ふと浮かんだのは、これまでに登った山に印をつけて眺めてやろうと思ったのである。中部地方の地図をつなぎ合わせて色付きシールを貼る。増えていく印に気持ちがついていく。ようやく終わり、数えてみると五十一の印がついた。「これでよし」、ひとり頷き、にんまりした。
 あれから随分年月が過ぎた。何だか、次の病気がそろそろ始まっているような気がする。(完)