【マボロシ日記】いつまでも私の校長先生

拝啓

 山々が錦色に輝き、うれしい実りの季節となりました。
 校長先生と、約40年ぶりの再会を果たしてから、一年が経ちました。
 自粛続きの日々、先生はどうしておられるのでしょう。齢90を超えているとは思えない程若々しい先生ですが、書き物をして過ごしていらっしゃるのかしら、外出せずずっと家にいらっしゃるなら、足腰が弱ってしまわれないかしら、買い物に不自由はないかしらと、おせっかいながら、気になっておりました。お変わりありませんか。私は、変わりなく、記者の仕事をしながら、つい先日まである会社の事務員のパートをしていました。
 職場の近くには、小学校がありました。4月、お昼ご飯を買いに外へ出ると、ピカピカのランドセルを背負った小学校1年生が、先生たちに連れられて早目の下校です。先生たちは旗を高く掲げてまるでカルガモのお母さんのように、小さな子どもたちを引き連れ、にこにこ歩いてきます。道の向こうには、心配そうに保護者が待っています。1年生たちは守られて大切に引き継がれ、帰って行きます。
 5月、ちょっとずつ下校が遅くなって、給食が始まったのでしょうか「今日の給食おいしかった」なんて会話も聞こえてくるようになりました。その瞬間に、校長先生は今どうしているかしらと思い出していました。手紙を書きたいなと、小学校の横を通るたびに思っていました。今、やっと落ち着いて手紙を書くことができます。
 最後にいただいたハガキには、とてもうれしい言葉が書かれていました。私の努力を「尊い」と言って下さり、結果を「残念」「悲しい」とまで書いて下さいました。先生からそんな言葉を頂けて、救いになりました。

 つくづく思うのですが、校長先生は特別な存在です。小学生の時、話したことはなくても、私の目は、意識せず姿を見ていました。先生は、広い心で、大きな視野で、私たち児童を、学校全体を包み込んでくれていました。その優しさが、この手紙を書かせています。
 狭い校庭、給食室の匂い、木々、裏山、桜、児童階段横の二ノ宮金次郎像。懐かしい風景ではあるけれども、学校はすべての人にとって楽しい場所ではなく、私も母校を苦みのある味とともに思い出します。
 以前にも書きましたが、寂しい家庭環境があり、学校で誰かに手を差し伸べて欲しいという甘ったるい期待があったのでしょうが、期待するような温かい言葉は掛けてもらえませんでした。
 大人しくて、特別手の掛かる子どもでもなかったけれど、何を考えているか分からない、先生方から理解されない、あまりかわいくない子だったんじゃないかと思います。子どもでしたから、深い思いなどありませんでしたが、心の中はかなしみでいっぱいでした。友達や先生に言いたいことも言えず、勉強も運動も何もできない自己肯定感の低い、今振り返っても暗くて不憫な子どもでした。そんな中でも、校長先生は私も他の優等生の子も平等に見てくれていたのが分かりました。

 小学校を卒業して約15年後、名鉄の特急電車の中で先生の姿をお見掛けして、思わず声を掛けてしまったことは今でも鮮明に記憶に残っています。先生は、席が空いていなかったのでしょう、立っておられました。突然声を掛けた私にも動揺することなく、大学教授の名刺を下さいました。先生は若々しくて、小学校の校長先生の面影そのままでした。20代の私も仕事を探していたか、していたと思います。
 次にお見掛けしたのは、あんなに学校が嫌いだった私が小学校の仕事をしていた時の先生の講演でした。
 その次にお会いしたのは、小学校で不登校児童のお世話をしていた時に、巡回に来られた時でした。コースには入っていなかったのを、私が管理職にお願いして寄り道していただいたのでした。その子は私と苦手なドリルをしていたか、箱庭で遊んでいたと思います。
 次は、中学校に来られた時です。先生に一目会いたくて居場所を探して、トイレから出てこられた先生に話し掛けてしまいました。

 縁あった子どもたちは、昔の私のように、どこか理解されず、無償の愛に飢えた寂しさを持っていました。それがとてもよく分かったので、子どもたちはあの頃の自分だというような気持ちで、支援の必要な子に接していました。してほしかったこと、必要だったことは、大人になった今だからこそ、よく分かります。
 大人が少し目を配り手助けするだけで、その子の立ち直りのきっかけになります。子どもたちは、昔の自分自身だったのかも知れません。
 ある時は一緒に遊び、聞き、伝え、見守り、本を読み、勉強を教えました。よく褒めました。本物の母ではないけれど、お母さんのように、その子の心を埋めるよう努力しました。真剣に伝え、思いやりました。そうすると子どもたちは応えてくれました。少しずつ安定していき、向上して、ゆっくりと学校に適応していきました。
 学校の先生たちは、子どもの可能性を見ないで、できない、と決めつけてしまうきらいがあります。もっと言えば、子どもを所詮子どもだからと、馬鹿にするようなところもあります。どんな子であろうと、諦めちゃいけないし、きっと正しい道に戻る可能性がある。でも、多くの先生は、どうせ、と諦めちゃっているんです。少々問題があっても、勉強さえできればいいと考えている先生も多いです。勉強も大切だけど、その前に毎日楽しく過ごすことの方が一番大事。学校に縛られない私の自由さが、担当する子どもたちの波長に合っていたのではないかと思います。
 楽しく仕事をしていました。それなりの評価も頂き、正規の仕事としてやっていきたいと考えるようになりました。
 教育委員会へ一緒に相談に行った同じ境遇の先生は、その後通信教育で資格を取得し、現在は市内の中学校で働いています。
 教育実習で、息子の中学に来ていることを知った時は、複雑な気持ちになりました。体育祭のビデオ、卒業アルバムを開いても姿を見ます。同志であり、ライバルでもあった方が思いを実現され、いきいきと頑張っている姿を見て喜ばなければならないのに、挫折という苦い思いが広がるのです。

 友人が今年3月で学校現場を去りました。彼女は教育学部を出たけれど、先生にはならなかった。でも私の話に影響を受けたのか子どもたちの支援をしたいと学校で働くようになり、やがて講師になりました。
 人間的にも素晴らしい彼女こそ学校に残ってほしいと懇願しましたが「大学時代に学校現場は自分に合わないと悟った。やってみたけれどやはり違うのよ」と話し、きっぱり免許も更新しなかったと言うのです。
 私が、大学で教職課程を取らなかったのは、当時「先生にならない」と思っていたから。小学校、中学校と自分を救いとってくれる先生に出会えなかったという思いがあったからです。教育現場に希望を持つことができなかったのです。でも今振り返ると、手を差し伸べてくれた先生が2人いた。希望の言葉を掛けて下さった先生が、私にも確かにいたことを思います。
 人生の半分が過ぎた今、過去を反芻しながらこれからの自分の役割、生まれてきた使命を模索する日々です。
 再会の機会に恵まれて、読み返すことのできる手紙やハガキで、身に余る励ましのお言葉をいただくことができて、うれしかったです。ありがとうございました。
 心を開いて、なんとかなる、どうにかなる、の精神で、次のステージを探して頑張って行きます。

敬具
いつまでも私の校長先生へ

令和3年 吉日
伊 吹