童話詩二編/「ペンタ君 雲にのる」、「なかよし」
「ペンタ君 雲にのる」
今日は ペンタ君 空をとぶ
お誕生日の お祝いに
ペンギン パパが 操縦する
ヘリコプターで ルンルン気分
買ってもらった 双眼鏡で
あちらをキョロキョロ こちらをキョロキョロ
すごいぞ すごいぞ 東京タワーだ
おもわず 手拍子 そのいきおいで
スッテン コロリン ヘリから 落ちた
コロリ コロコロ ドッスンコ
落ちたら 白い 雲の うえ
フンワリ フワフワ 雲の おふとん
うれしくなって ビヨーン ビヨーン
青い 空しか 見えません
このまま 眠ってしまおうか
背伸びをしていた ペンタ君
うえから 落ちた 双眼鏡が
あたまに 当たって ゴッツンコ
バランス 間違えて 雲から 落ちた
ヒュルリ ヒュルヒュル ドッコイショ
落ちたら 真っ赤な 時計台
はるか下には 賑やかな 街なみ
北風 ビュウ ビュウ 吹いてます
さむくて ペンギンの ペンタ君
ハクション ハクション くしゃみ でた
これでは ペンギン つとまらぬ
いきなり 時計が 午後3時
ゴン ゴン ゴンと 鐘が鳴って
時計台が ゆれて 足がすべって
ズルズルズルと 屋根から 落ちた
スルスル スルスル ペッタンコ
落ちたら ひさしを つき抜けて
ケーキ屋さんの 店の まえ
店の おじさん ニコニコ顔で
今日はお祝い これプレゼント
イチゴのケーキだ うれしいな
「ペンタ君 ほんとに よかったね」
そばで 買い物していた ペンギンのママ
ニッコリ 笑って おうちに 帰ろう
嬉しくなって ペンタ君
大空たかく
ジャンプ ジャンプだ
「 なかよし」
今日も 二人で お散歩だ
たのしく なかよく お散歩だ
話は もどって
ウサギのサキちゃん ママのお手伝い
ニンジン ピーマン 牛肉 チーズ
重いバッグを 両手に持って
人の波をかき分けて
商店街を ヨイショ コラショと
ホラ 横断歩道が 黄色になった
ああ 急がしいな でも今のうちに
駆け出した サキちゃんに
大きなトラック 迫って来る
学校から帰る コアラの コア君
今日も サキちゃんと ケンカして
もう知らないって 別れたよ
抱えた鞄に 重い足取りで
たどり着いた 駅前の街角
車の轟音に ふと 眼を向けると
サキちゃんが トラックに 衝突寸前
そらと 全力疾走 体当たり
バッグが飛んで 急ブレーキ
今日も コア君 お散歩だ
なかよし サキちゃんと 一緒だね
「あの日は 本当に ありがとう」
「いいよ いいよ これくらい」
サキちゃんが 押してくれる 車椅子
乗っている コア君は 上機嫌で
片足のギブスも へいちゃら だ
「今日は どこまで 出てみたい?」
「まっすぐ まっすぐ どこまでも」
「コア君 ほんとに やさしいね」
「サキちゃんこそ ありがとう」
赤い枯葉が散る 秋の 並木道を
どこまでも つづいている 並木道を
揺れる 二人の 後ろ姿が
やがて 小さく なっていく
詩二編/「タンタ君の忘れもの」、「いくぞ 海賊コアラ君」
詩「タンタ君の忘れもの」
学校からの 帰りみち
タヌキのタンタ君 気がついた
あれれ 僕の 丸眼鏡がない
急いで さがしに 行かなくちゃ
カラフルな 花咲く 花壇で
ラッコのランちゃん ニコニコしながら
楽しそうに お水をあげる
「僕の 丸眼鏡 みなかった?」
「ううん わたしは しらないわ」
近くにある まるい 砂場で
ブルドッグのブル君 真面目な顔して
砂のお城を 造っている
「僕の丸眼鏡 みなかった?」
「いま 忙しいよ しらないな」
でっかい 要塞の ジャングルジムで
おサルのチンパ君 うれしそうに
身体を ユラユラ 遊んでいる
「僕の丸眼鏡 みなかった?」
「一緒にやらない? 面白いよ」
真っ白な ブランコで
子ネコのミャーちゃん 口笛吹いて
青空 ながめて 揺れている
「僕の丸眼鏡 みなかった?」
「きょうも お天気 いい気分ね」
ピカピカ 光る すべり台で
ペンギンのペンキ君 大声上げて
すべって 転んで しりもちついた
「僕の丸眼鏡 みなかった?」
「いててて なんの話だよ」
もう あきらめた 家に かえろう
えいやと ランドセル 提げなおして
ランドセルの ポケットに 気がついた
そうだ ここに 入っていた
僕って なんて 間が抜けている
向こうに キツネのコン君が 去っていく
おーい コン君 待っておくれよ
詩「いくぞ 海賊コアラ君」
船出だ 船出だ いざ出陣だ
おおきな おおきな 海賊船に
ドクロの旗が なびいている
指揮をするのは 片目のコアラ
黒い眼帯にも ドクロのマーク
剣をかかげて ポーズを決めて
号令一下で 大海原へ
何百匹の コアラの子分
あちらこちらで 威勢をあげて
準備オッケイ 取り舵オーライ
船に積まれた 金 銀 財宝
悪党船から奪った お宝だ
チャンチャンバラバラと
戦い抜いて 勝利を収めて
百戦 練磨の 勢いだ
向かうところに 敵はない
めざすは でっかい 宝島
財宝 いっぱい ぶん取って
貧しい人々 救うため
海賊船は 波を超えて 嵐を超えて
今日の 相手は ヤマザル軍団
やつらは 悪事の やり放題
コアラ船長 大声を上げて
大砲一発 打ち上げて
船に乗り上げて 大合戦
剣を交えて エイッサ オイッサ
あっという間に ヤマザル完敗
みなで 勝ちどき オウ オウ オー
財宝 ねこそぎ いただきだ
コアラの海賊 向かっていく
大海原の 果ての果て
水平線に 夢が 待ってる
みんなの幸せ かなえるために
ぼくらの海賊船は 荒波をこえて
明日も 希望の 陽が昇るんだ
詩二編/「回帰への再生」、「なくて いい」
詩「回帰への再生」
延々と悠久の時は流れゆき
いつしか恒常文明は破綻していた
人は自ら破壊者としての役割を終え
やがてあらたな生命に再生する
人知人力を超えた高次なる存在
限りない宇宙の絶対者に帰属する
世界から光は失われ
生物は視覚を奪われる
暗黒が世界を支配する
沈黙が訪れ聴覚は消えて
閉鎖した内部世界が生まれ
孤独の思考が始まる
自己保存本能は委ねられ
呼吸は沈み鼓動は遠くなり
世界への警戒は失せる
口は固く養分も無用に
細胞はしだいに停止し
生命体は気化していく
永遠なる自己は闇に蝕手を伸ばし
ひろがる宇宙塊となる
詩「なくて いい」
なにも ない
なにも ない
なにも ないから
ぼんやり している
それでね
あきれる くらい
あたまの なかは
からっぽ だ
いつの まなか
だらしなく
おくちが ぽかん と
ひらいている
なにも ない
なにも ない
なにも ないって
とっても らくで
しあわせ なのかな
なにも ないって
ぜいたく なのかな
それで いいと
こころを きめれば
なにも ない まいにちに
きっと なにか あるんだね
掌編小説「見知らぬ二人」
雑魚の佃煮をつまみながらの温かいお茶漬けは、どうやらいつの間にか冷めていた。それはどこか倦怠期を迎えた夫婦生活の乾いた味気なさを改めて芙美子は感じた。すでに彼女の夫と一人息子は、慌ただしい朝食を済ませてとっくの前に仕事へ出て、いつの間にか思わずまどろむような昼下がりを迎えていた。
最後に、冷えたお茶漬けをひと息で食べ終えると、芙美子は静かに箸を置いた。居間の窓からレースのカーテン越しに見える自宅の庭先に眼をやって、綺麗に咲き誇っている花壇の色とりどり花々を物憂げに眺めてから芙美子は満足げに微笑を浮かべた。愉しい園芸作業にいそしむ日課は、単調に繰り返す芙美子の生活にひと時の満足な潤いを与えてくれていた。そうそう、今年の秋が暮れるまでには、花壇の色彩りを少し工夫して黄色いチューリップの球根をいくつか植えてみよう、でも思うようにうまく育ってくれるかしら、と少々気がかりな気分で、芙美子は昼食の食器をまとめて抱えては台所へと足を運んだ。
ジャバジャバと音が鳴る。流し台の水道の古風な蛇口から流れ落ちる水道水は、春の到来を告げるように、台所用の青いスポンジを握って食器の汚れを洗っている芙美子の華奢な両手をやさしく包んでは流れていく。
それにしても、と芙美子は思った。あの子供みたいな夫と結婚してから今年でもう何年になったのだろう。そして芙美子は頭の中でその歳月を計算してから思わずため息をついた。でも月日がたつのは本当にあっという間なのね。あの小さな息子が黒いランドセルを背負って学校へ駆け出していく後ろ姿を見送ってから、もう現在では地元の高校を卒業して、近くの大きな製紙工場で事務局の庶務課に勤めて立派に働いている。
あの子には、もう素敵な彼女でも出来たのかしら。そんなおせっかいな想像をしただけで、母親の芙美子には少し複雑な心境がしてきて、ふっと洗い物の手が止まった。蛇口からは、ひっきりなしに水道の温かい水が流れ落ちている。
居間にある電話が鳴った。今頃、誰だろう。何かのセールスの案内か、それとも世間を賑わしている、怪しげなオレオレ詐欺かもしれない。用心、用心。やや怪訝な気持ちで、芙美子は、濡れた手を腰に下げたタオルで拭くと居間へ向かった。
「鍋島さんのお宅ですね。あのう、お忙しいところを失礼いたしますが」
芙美子が受話器を取ると、彼女が名前を告げる前に、突然、中年らしき男性の声が低く聴こえてきた。それは聞き覚えのない声だった。芙美子は応えた。
「ええ、そうですが、どちらさまでしょうか」
「初めてお電話を差し上げます。わたくし、里村と申します。重ねて失礼を申し上げます。実はわたくし、あなた様にとっては見ず知らずの者でして、こうやってお電話するのも、鍋島さんにとっては、はなはだ御迷惑なことでございまして」
何が何だか分からない。思わぬことに芙美子が戸惑っていると、里村がやさしくフォローするように心を込めた口調で言った。
「ただ、あなた様の声をぜひ、お聞かせいただきたいと存じまして、電話をかけた次第でして」
「といわれましても、私には何のことだか皆目、見当がつきませんわ。あの、申し訳ありませんが、私、いま、仕事が忙しいので、またの機会ということで」
と、芙美子が言葉を切ると、急に里村が激しい勢いで声を上げた。
「聴かせていただきたいのです。ぜひ、あなたのいつもの素晴らしい暮らしぶりを、このわたくしに少しでも聴かせていただきたいのです」
驚いた芙美子が黙って唖然としていると、里村が申し訳なさそうに言葉を続けた。
「大声を上げてどうも失礼しました。どうやら怪しい者と、お疑いかもしれませんね。それは充分に承知の上で、このお電話を差し上げております。決してあなたには、一切の悪気はございません。―――ただ、この電話帳を勝手にひらいて、最初に眼に止まった電話番号の鍋島様にかけた、ということでございまして」
身も知らぬ他人の電話番号にかけてきた、そして私の暮らしぶりが知りたい。いったいどういうことだろう。もしかしたら、この里村という男はどこか頭が変なのだろうか。それとも、何かの裏があるのか。でも、彼の言葉には、どこか真実味と誠実さが感じられた。里村には何かの仕方ない個人的事情があるのかもしれない。そうとも思える。芙美子の心のどこかで少しの好奇心らしきものが芽生えていた。それで芙美子は小声で言った。
「と、仰いますと、いったいどういうことかしら」
すると、里村は嬉しそうに声を弾ませた。
「今、と或る駅前の電話ボックスから、お電話を差し上げております―――実はわたくし、昨年に交通事故と急病で、立て続けに、妻と娘を失った身の上でして、今はこの近くで部屋を借りて、一人暮らしをしております。まったくのところ、知り合いがいないというのは、とてもつらいことですね。私事ながら、痛感しておりますよ。それに、貧すれば鈍するとは、よく言ったものです。以前まで勤めていた会社を先月に人員整理でクビになりまして、やむなく失業中といった有様で。ああ、つい、余計なことを申しました」
里村の口調はとても明るいものであったが、その切実な内容は、芙美子に同情心を与えるには充分すぎる印象をもった。やや声を詰まらせて、芙美子が声を出した。
「それは大変ですわね。で、さっき仰っていたのは」
「あなたの暮らしぶりなのです。あなたの声で、あなたの素敵な暮らしぶりを、直接、お聴きしたくて仕方ないのですよ。どうも寂しがり屋なのですね、情けない話です」
こんな出来事は、芙美子にとって初めてであった。しかし、やりきれない単調な毎日を送る芙美子にとって、自分自身の生活の困惑した有り様を人に話して聞かせるのも、存外に悪い気分でもなかった。それで、少し気を取り直して、芙美子は、毎日の暮らしについての正直な感想や、不平、不満、将来への願望をポツリポツリと語り始めた。毎晩のような夫との口争い、ひとり息子が自分から離れていく不安感、家計のやり繰りや家事の難儀さ。そして芙美子の語る愚痴話のひとつひとつに、里村は実に楽しげに、ええ、ええ、と合いの手を入れて答え、時には、うん、うん、と同意を示してきた。徐々に芙美子のこころは落ち着きをみせて、話す口ぶりも楽しく愉快になってきた。いつの間にか、芙美子の険しい気持ちは穏やかな里村の言葉でやさしく癒されていた。ほんの少しではあったが、芙美子の眼に涙が浮かんでいた。何とはなく、それを察したのか、芙美子の話がひと段落すると、里村が声を低くして言った。
「どうも、毎日、ご苦労さまです。あなたの正直なお話を聴かせていただいて、わたくしもこころより感謝いたします。よく言いますが、人生で苦労しているのは誰も皆、同じなんですよね。思えば、この世の楽園なんて、本当は意外と身近で、小さなところにあるのかもしれません」
そして急に思いついたように、里村は自分のひとり娘について嬉しそうに話した。去年、急性の癌で命を落とした里村の幼い娘は、生前に、取り分け、可愛いクマのぬいぐるみが好きで、部屋いっぱいに集めては、そのひとつひとつに自分で名前をつけて遊んでいたという。素敵な話ね、と芙美子は正直な気持ちでそう思った。すると里村は、しばらく言葉を噛み締めるようなたどたどしい口調で言った。
「今日の、この電話のことは、わたくしだけの大切な思い出として大事に頂いておきます。本当に感謝します。どうぞ、いつまでも、あなたらしい素敵な人生をお送りください」
そして何度もお礼を繰り返し述べてから、里村が静かに電話を切った。しばらくの間、芙美子はその場に立ち尽くしたまま、受話器を握り締めて呆然としては、ただ受話器から流れてくる甲高いノイズにじっと耳を澄ましていた。
食卓に置いた白いティーカップの紅茶は、もうほとんど残っていなかった。居間のテーブルに頬杖をついて、芙美子はボンヤリと、物思いに耽っていた。そうね、里村は寂しい、とても寂しいと繰り返し言っていた。きっとそれは里村にとって逃げることの出来ない辛い現実だったのだろうと思う。芙美子は深くため息をついた。そう、そして里村はあの電話を自分だけの大事な思い出にしたいと告げた。それは何気ない会話の思い出。やがて芙美子のこころに、現在までの多くの人々から残された印象深い言葉たちが浮かんでは消えていった。ちょっとした何気ない言葉が、どれほどその人を励まし、勇気づけてくれるのだろうか。人の思いやりとこころがあればこそ、きっと人は生命と愛情で生きていけるのだろう。
私は里村に愚痴ばかりをこぼしていた。それでも里村はとても嬉しそうに最後まで私の話に耳を傾けてくれた。何てやさしい人なのだろう。そうそう、里村は失業中だった。果たして彼の仕事はうまくいくだろうか。もしや、悩み、苦しんで、自殺するようなことにならないだろうか。芙美子にふと嫌な気持ちがよぎった。でも、この私にいったい何が出来るだろうか。いったい何が。堪らなくどうしようもない不安な心境で、まるでそれを振り切るように、芙美子はカップに残った紅茶をぐいっと飲み上げた。居間の壁にかけたアンティークな鳩時計が午後の三時前を示していた。
翌朝の朝食も、無口な夫は味噌汁を半分も残し、無愛想な息子は片方の箸を床の上に落としたまま、せわしなく自宅をあとにしていた。二人分の食器を手際よく流し台に運ぶと、カラフルな布巾で濡れた食卓の上をふき取ってから、芙美子は夫が忘れていった新聞の朝刊にふっと眼が止まった。芙美子は思った。あの人がまさか自殺をしたなんて思いたくない。それでも気になって仕方がない。いつの間にか、芙美子は朝刊を広げては三面記事のページに眼を通していた。しかし、それらしき事件はどこにも見当たらないようだ。やや身体の力が抜けたように、芙美子は食卓の椅子に座り込むと、もう一度、昨日の里村との会話を確認するかのごとく思い返しては自分を納得させた。
食卓には息子が飲まずに残していった野菜ジュースのコップがあった。少し、口につけて、急に渇いた咽喉を潤してみる。やや気分が落ち着いた。そうね、しばらく、自分の部屋に戻って休んでみよう。それから元気をつけて朝の洗い物と床の掃除にかからないといけない。芙美子は身につけた白いエプロンを外すと丁寧に折りたたんで食卓に置き、どこか険しい表情のままで居間をあとにした。
芙美子の部屋には組み立て式のコンパクトな書きもの机があった。そこでは、よくロマンティックな小説を読んだり、眠る前に頭の整理をしようと、毎日のように簡単な日記をつけたりしていた。机の上には、いくつかの飾り物があった。丸いデジタル時計とピンク色の眼鏡ケース、そしてとても小さなテディ・ベアのぬいぐるみだった。それは昨年に芙美子の息子が、彼女の誕生日にプレゼントしてくれた記念の品であった。そう、そういえば、里村の娘さんもクマのぬいぐるみをたくさん集めていたらしい。芙美子は書きもの机に向かうと、両手でその小さなテディ・ベアを取り上げた。あらためて、可愛いクマさんね、と思い、少し華やいだ気分になった。
そしてテディ・ベアのあちらこちらに眼をやって微笑んでみる。どうやらテディも、きょとんとした黒い瞳で芙美子を見つめ返していた。みれば、ぬいぐるみの片隅には、小さな白いタグがついている。芙美子は眼を凝らして、そのタグに書かれた文字を何とか読んでみた。そこには「株式会社 サトムラ」と黒い活字で書かれてある。一瞬の間、芙美子はその不思議な偶然で、奇妙な感覚に襲われた。やがて時がたつにつれて芙美子はすべてを悟っていた。
―もう、あの人と話すことなんてありえない。もう一生の間、あの人と話すことは出来ないのよね。そう思うと、芙美子は深い吐息をついた。そしてテディ・ベアをしみじみと眺めながら、芙美子はしばらく感慨に耽っていた。しかし急に芙美子は思い出した。あら、いけない。さっき、ポットに入れるお湯を沸かしたままにしていたんだわ。早く、コンロの火を止めないと。可愛いテディ・ベアを机に置くと、あわてて芙美子は台所へと足早に向かっていった。 (了)
掌編小説 「オルゴールの想い出」
謎の男性は、その時に弓枝の前に現れた。
ある日の午後、夕食の材料などをスーパーで買い込み、眼が回るような忙しい仕事を済ませた弓枝は、ここでひと息入れようと、近くのファミリー・レストランでお茶の時間にした。息子の健太はお菓子売り場で買ったジャンボ・キャンディーを舐めて喜んでいる。店内はたくさんの主婦たちで混雑していたが、用心深い性格の弓枝は、目敏く奥の壁ぎわに空席を見つけて飲み物を頼んだ。やがて欠伸をかみ殺して若いウェイトレスがレモンティーとアップルジュースを運んで来る頃には、弓枝は軽い眠気に誘われてウトウトと、頬杖をついて居眠りを始めていた。ボンヤリとした意識の中で、弓枝はいつものように過去の出来事を巡るままに想い出していた。あれこれと心が傷ついた学生時代、不器用で仕事が遅れてばかりのOLだった頃、同僚の男性とのデートで胸がときめいた恋愛、親戚の勧めで、年上の男性とお見合いした一日。ささやかな結婚式とちょっとした新婚旅行。あっという間の新婚生活。出産の壮絶な苦しみと健太の誕生。そして弓枝に訪れたあっけない悲劇。それは、今から八年前の夫の交通事故死だった。夫は会社の出張先から車で帰宅中に、運転を誤ってガードレールを越えて深い谷底に転落したのだ。しかし伴侶の死という苦難を克服して、気丈な弓枝は健太の育児と生活の為の仕事を手際よく両立させて今日にまで至った。その気苦労は簡単なものではなく、心底、生活苦が身体の芯まで深く刻み込まれていた。つい先日、弓枝は三十四歳の誕生日を迎えたばかりであった。無我夢中の日々も、いつしか世間でよく言う三十路の女になっていた。『ああ、やれやれ…』の心持だった。
急に、隣の席に居る健太がニコニコして声をかけてきた。
「ねえママ、ママは天国にいるパパのことを考えていたの?」
小学四年生の子どもにしては実に鋭い洞察力で、こちらを覗き込んで来る。少し恥ずかしくなって顔を赤らめると、弓枝は小声で言った。
「そうね。バレちゃったか。でも健ちゃんは、寂しくないのかな。それとも、健ちゃんは新しいパパが欲しいのかな?」
「ううん、僕は、いつもやさしいママがいるから、それで平気だよ。………ねえ、ママ、このジュース、もう一杯お代わりしてもいい」
「ええ、いいわよ」
弓枝のそばで、コホンとちいさな咳払いがした。訝しげに弓枝が見上げると、そこに一人の男性が、コーヒーカップを載せたトレイを両手にして立ったままじっと弓枝を見つめている。センスのよい紺色のジャケットを着こなして、巻き毛の髪が、やや細面の顔立ちによく似合う好男子だった。やや間をおいてから、弓枝は返事の代わりに、少し首を傾げてみせた。すると青年は軽く頭を下げて、微笑みながら声をかけてきた。
「この店、結構、混んでますね。実は、空いた席がなかなか見当たらなくて。もし差し支えなかったら、相席してもかまいませんか」
弓枝はチラッと周囲に視線を走らせて、ほかにも空いた席がいくらかあることを確かめてから、青年に軽い疑念を抱きながらも無表情に答えた。
「ええ、どうぞ、かまいませんわ」
青年はとても嬉しそうに、弓枝の向かいに席を取ると、いきなりに話し出した。
「僕、この店のカフェ・オレが、一番の好物なんです。いつもは朝早くにやって来るんですが、今日は野暮用があって、こんな時間になってしまって。でも、奥さんみたいな綺麗な方がいるのなら、これからは僕も一日のスケジュールを変えなくてはいけませんね。ははっ、いきなり不躾けなことを言ってごめんなさい。あ、あのう」
「どうやら、あなた、私たちの話を、そこで立ち聞きしてらしたのね。それで何か、私に御用かしら」
「あははっ、ご存知でしたか。つい、耳に入ってしまって。どうも申し訳ありません。あ、あのう、僕、や,山田達也って言います。この近くのマンションに住んでます。………ご主人がお亡くなりになったそうで、どうもお悔やみ申し上げます。さぞ、お優しい方だったんでしょうね。きっと奥さんも無念なお気持ちでしょう」
青年が、自分の苗字をあわてて口ごもるのは、何かを隠している証拠だ、と弓枝はそう直感した。そこで弓枝は、逆にこちらから相手に何か訊き出してやろうと判断して、満面に笑みを浮かべてから愛想よく問いかけた。
「どうもご丁寧にありがとうございます。それで山田さんは現在、どんな暮らしをしてらっしゃるのかしら。近くのマンションっておっしゃったけれど、もしかして、一人で暮らしているのかしら。それとも、ご家族とご一緒に」
「一人暮らしです。それについ最近、こちらに引っ越してきたばかりです。だからまだ何かと不案内でしてね。いろいろと難儀しています。ああ、そうだ、僕のことは達也って呼んでください。奥さんにしたら、僕なんてまだ頼りない青二才ですから」
「そう。じゃあ、達也さん、あなた、ご家族とは離れて生活されているのね。ご家族って、ご両親、それとも若い奥さまかしら」
「いいえ、実際のところ、そのどちらでもありません。というのも」
達也は、弓枝の隣で空のガラスコップを転がしてひとり遊びしている健太の様子をしばらく眺めていたが、そのあとで口をひらいた。
「実を言うと僕は都内にある小さな孤児院の出身なのです。まだ僕が赤ん坊の頃に親から捨てられましてね、いまでも親の顔を知らないんです」
その時、達也はチラリと弓枝の顔を覗き込んでから微笑んだ。達也は続けて言った。
「中学を出るまでは、孤児院のお世話になりました。それからはアパート住いに、会社勤めの傍ら夜間高校に行き、真面目に働きながらも少しずつ貯金をして、念願のマンション住まいに。ああ、失礼、初めてお会いした方に僕のプライベートの話しを、聞いていただくとは、どうも申し訳ありません。お詫びに何か食べませんか。健ちゃんだったよね。何か欲しい物ない?」
「どうもご親切に。達也さん、ご苦労なさったんですね。でも将来は、きっと誰かさんとご結婚されて幸せになられますよ。まだ、お若いし将来の夢もおありでしょうし」
「将来の夢なら、しっかりと持っていますよ。いつかは、保育園を経営したいのです。というのも僕は昔から子供が好きなんですよ。たくさんの子供たちと一緒にね・・・ ねえ、健太君、健太君は、このおじさんが怖いかい。正直に言ってごらん」
健太は知らん顔をして、そのまま恥ずかしそうにクルッとテーブル席の下に潜り込んだ。それをみて、弓枝と達也が思わずクスクスと笑った。しばらく笑ったあとで、達也が急に真面目な顔をして言った。
「どうやら奥さんは健太君と二人暮らしなんですね。ふうむ。待てよ。子供はみな漫画好きですよね。健太君はどうです。僕、とてもアニメ好きなんです。確か、今月からディズニーの新作を映画館で上映しているはずですよ。もうご覧になりましたか」
「いいえ、まだですの。さっきも健ちゃんと一緒に、今度の休みに行こうねと約束したばかりですわ。それが何か」
「もしも良ければ、僕が無料の招待券を用意しますよ。現在、近くの新聞社に勤めているので、間単に手に入るんです。いかがです。招待券は何枚ですか。二枚、それとも三枚?」
弓枝は達也の大胆さに思わず吹き出しそうになるのを堪えてからようやく答えた。
「ではお言葉に甘えて、三枚、お願いいたしますわ、自由席を三枚」
それから、とりとめもない世間話をしばらく交わして、最後に弓枝は自分の名前を達也に告げた。達也は何度か、弓枝の名を繰り返し呟いて覚えては、その名前をしっかりと噛みしめるようにしてから礼を述べると、急いで席を去って行った。
三人で映画館へ行く約束が取り交わされて、少しの間、弓枝は呆然としていた。でも、と弓枝は考えた。達也がアニメ好きだということと、新聞社に勤めていることには、何やら不自然さがあった。どうも怪しい。やはり達也という男性は何かを隠しているようだ。でもこの私に何だろう。といって、達也がそんなに警戒すべき人物ではないと、女の直感が教えてくれていた。弓枝は、達也が渡した住所と携帯の電話番号の書かれたメモ書きを手に握り締めて、健太が二杯目のアップルジュースを無邪気に飲んでいるところをボンヤリと観察していた。
それから一ヶ月が経った頃には、弓枝の自宅で三人の同居生活が当然の成り行きの様に始まった。弓枝の家は小さな庭のある二階建ての一軒家だったが、その広さは三人で暮らすには充分なくらいの余裕があった。二階の奥にある亡き夫の書斎は、いくつかの家具の模様替えをして達也の寝室にあてがわれた。最初の間、弓枝が洋服店のパートの仕事に出かけて、家事は達也が賄っていたが、弓枝の身体を気づかって、何回か懸命に説得を繰り返した結果、ようやく弓枝はパートの仕事を辞めることを承諾して、代わりに達也が、或る雑誌社の編集の職を探し出して勤めることになった。割合と軽い頭脳労働でもあり、達也はテキパキと仕事をこなしては、いつも朗らかな笑顔で帰宅してきた。
そして。そんな達也を心身ともに支えるように、弓枝と健太はいつも、とびきりの夕食で迎え入れた。しかし依然として弓枝の疑惑はまだ残されて、時折、弓枝の頭に思い浮かんでは彼女をひどく悩ませた。二階のベランダで洗濯物を干しながら、やや顔をしかめて弓枝は思った。あまりにも調子のよい話だった。十歳も年下の男性がこんなにも私を大事に気遣ってくれる。そんなに器量のいい女でもない。私に女性としての魅力もあるとも思えない。ファミレスで何気なく出会っただけの事で、私にここまで親身になって尽くしてくれる男性が他にいるだろうか。やはり達也には別に隠された、裏の顔がある、と考えるべきだろうか。いったいどうしてか。思わず、くしゃみが出て、弓枝は洗濯物を床に落とし、また拾い上げた。それは青い小さなタオル・ハンカチだった。ミッキー・マウスの柄が描かれてある。達也が健太にプレゼントしたものだ。「僕、とても子どもが好きなんです」そんな達也の言葉が思い浮かぶ。何か釈然としない。ベランダに立った弓枝は空を見た。雲ひとつない青空が果てしなく広がっていた。
三人の幸福な日々が過ぎて数ヶ月がたった。弓枝にとって記念すべきその日は、ちょうど健太の十回目の誕生日であった。ささやかな三人の夕食が済んで、ちいさなチョコレートケーキが登場した。そのバースデイ・ケーキには、綺麗に十本のロウソクが炎を上げている。弓枝と達也が手拍子をして、照れている健太に微笑みながら促した。ニコニコした健太がろうそくの炎を吹き消して、誕生日のクライマックスを迎えた。達也が背中に隠していた誕生日のプレゼントの包みを健太に差し出して「さあ、開けてごらん」と優しく言葉を添えた。箱の中から、大きなジャンボ旅客機のプラモデルが出てきた。以前から、健太は飛行機のパイロットになるのが将来の夢だと達也は知っていた。
「パパ、ありがとう。これ、今から部屋にもっていって僕の机に飾ってもいいかな」
「ああ、いいとも。健ちゃんの好きにしたらいいよ」
健太は歓声を上げて居間から姿を消した。居間ではしばらく沈黙が続いた。その間、達也は真剣な面持ちで、マジマジと弓枝の眼を覗き込んでいた。それから、意を決したように息をひとつ吐くと、上着のポケットから、ビロード装の小箱を取り出して弓枝の前に置いた。達也は真っ赤な顔をして、当惑する弓枝に囁くように言った。
「僕からの気持ちです。もしも、弓枝さんが迷惑でなかったら、ぜひ、これを受け取って欲しい。」
弓枝は頼りなげな手つきで、その小箱を開いた。中には、しゃれたデザインのダイヤモンドの指輪がキラキラと輝いていた。弓枝は少し精神的に動揺して言葉に詰まった。達也がとりなすように言った。
「僕からの精一杯なプロポーズです。こんな僕でも弓枝さんのことはよく理解しているつもりです。弓枝さんの良きパートナーとして頑張る覚悟は出来ています。もしも良ければ、この婚約指輪を受け取ってくださいませんか」
「ええ、喜んでお受けしますわ」
そう答えてから、思わず口をついて出たその言葉に弓枝は自分でも驚いていた。私が達也と結婚の約束。そんな予測は以前から出来ていたが、実際に直面すると、やはり戸惑うものだ。やや虚ろな眼差しで、手を伸ばして、指輪をそっと指につけてみる。どこか、ホッと心が落ち着きを取り戻した。弓枝の気持ちのどこかで、これで良いと囁くような声がしたような気がした。そして現在までの、弓枝の、達也に対する不信感が少しずつ薄らいでいくような感覚があった。もしかしたら、私の単なる身勝手な思い込みに過ぎなかったのだろうか。そんな思いを加速するように、笑顔を浮かべて達也が言葉をつないだ。
「今度の土曜に、ぜひ三人で婚約の記念旅行に出かけませんか。貯金に少し余裕が出来ましたからね。都内の東京ジョイ・パークで一泊するのはどうかなって思っているんです。遊園地なら、きっと健ちゃんも喜ぶだろうし、豪華なホテルで泊まるのも僕たちにとって良い想い出になりますよ。でも少し、子供じみているかな、ははっ」
「まあ、本当にあなたって人は………」
弓枝は深いため息をついた。しかし、何とか、その沈んだ思いを振り払うように、弓枝は笑顔を取り戻すと、達也に言った。
「それなら、さっそく、お気に入りの白いドレスをクリーニングに出さないと。土曜に間に合うかしら。そうだ。ついでにあなたのジャケットも新調しましょうよ、それから、荷物を入れるスーツケースも捜さないと」
「ははっ、弓枝さんって、結構、気が早いんですね、僕と同じで、まるで子供だなあ」
東京ジョイ・パークは、観客で大賑わいだった。日本一の規模を誇る遊園地内は、所狭しと立ち並ぶ人気のアトラクションで多くの行列が出来た。あちこちで子ども達が大声を上げて場内を駆け回る。強い日差しが照りつけていた。
達也は弓枝に健ちゃんとの2ショット写真を撮りたいと言って、ジェットコースター「ドラゴン・ファイヤー」に乗る様に勧めたが「パパも一緒に乗ろうよー」と健太が手を引っ張った。だが、達也は自信満々に言い放った。
「パパは名カメラマンなんだよ。健ちゃんのカッコイイ写真を撮りたいんだ。わかってね健ちゃん、パパのお仕事なんだよ」
しぶしぶ行列に加わった健太だったが、やがて順番が来て、コースターに乗り込んだニ人は、勢いよくレールを駆け抜けて何度も回転しては天と地が逆転し、激しくスピンして急降下した。健太が両手を挙げて叫び声を上げた。弓枝は大声で笑ってスリルに気分発散をした。次には、オルゴールのような可憐な音楽が流れるメリー・ゴーランドの木馬に乗った健太が、二人へ嬉しそうに手を振って「パパ、ママ、僕、ここにいるよ」と元気よく声をかけてくる。そのタイミングに合わせて、達也が真剣な様子で両手に構えた一眼レフのシャッターを切る。飛び切りの名場面が撮れた。
お昼時になって、弓枝たちは急いで大観覧車に乗り込んだ。弓枝が造ったお手製の弁当を、見晴らしの良い上空からの景色を眺めて、頂戴しようという魂胆である。地上何十メートルという巨大な車輪がゆっくりと回って、ゴンドラに乗った三人はさっそく包みを開いて昼ご飯となった。タコのウインナーソーセージは健太と達也が、やっきとなって取り合いになった。しかし、ミートボールを達也が健太に譲り、中華春巻きを健太が達也に渡したことで仲直りした。口の周りを一杯に汚した健太と達也をみて、弓枝は呆れて、ものも言えなかった。上空で揺られる三人の眼下では、どこまでも続く都内の街並みが眺望できた。高みの見物に三人は我知らず歓声を上げていた。やがて午後になって、お化け屋敷の「恐怖の館」で、弓枝と健太は暗闇の中から、次々と現れる狼男やドラキュラ伯爵の鬼気迫る形相に、ギャアギャアと悲鳴を上げて逃げ回る。童心に返ったような弓枝、怖がる健太を眺めながら、達也はニヤニヤと笑い顔を浮かべて一人で悦に入った。
午後のティータイムになって、三人はレストラン街のオープンカフェで、ソフトドリンクを楽しんだ。健太は、冷えたオレンジジュースを一気に飲んでしまうと、元気よくチョコレートのアイスクリームを達也にねだった。弓枝と達也は、黙ったまま、笑顔で互いに眼を合わせていた。楽しい時間が過ぎていった。そして、三人の背後で人の気配がした。振り向くと、カラフルな衣装のピエロのおじさんが、手にした一杯の風船のうちの一本を、愛想よく健太に差し出していた。健太は赤い風船を受け取って、どうやら戸惑っている様子であった。すかさず機転を利かして、達也はピエロのおじさんにカメラを手渡すと、三人の記念写真を撮ってもらっては、笑顔で礼を述べた。
宿泊するホテルの建物を、三人は玄関の前で見上げていた。まるで翼を広げた巨大な鳩のような高層ビルディングである。弓枝はその豪華なホテルの風格ある佇まいに思わず圧倒されて言葉を失っていた。ホテルのエントランスでは、制服を着た若いドアマンが所在なげに両手を組んで、うわの空で立ちつくしている。達也に促されて扉を抜けた三人は、派手なシャンデリアの下に赤いカーペットを敷いたロビーの、フロント係の男性が控えるホテルのカウンターへと向かっていった。
あてがわれたホテルのスイートルームでは、一人ではしゃいだ健太が、深々としたベッドの上で、何度も嬉しげに飛び跳ねていた。豪華な部屋で充分に満喫している健太を残して、弓枝と達也は一階ロビーの土産物売り場へ足を運んだ。弓枝は、広々とした売り場であれこれと散策しては眼の保養をしていた。一方、達也は木製の小箱の贈り物を見つけるとこっそりと買い込んで、さりげなく弓枝にプレゼントした。そして、あとで中を開いてごらんとやさしく弓枝に言葉を添えた。弓枝は嬉しそうに甘えては小箱を受け取った。
賑やかなホテルのレストランでは豪華な夕食が三人を待っていた。健太が大きなハンバーグステーキをパクパクと口に運び、弓枝と達也は、おしゃれにワインのグラスで乾杯を上げた。上質なシャリアピン・ステーキを堪能し、やがてデザートのラズベリー・シャーベットが運ばれてきた頃には、二人の傍で、健太がグウグウと寝息を立てて眠り込んでいた。それで弓枝と達也は互いに微笑を交わすと、食後のコーヒーにも手をつけずに、達也が健太を抱き上げて部屋へと戻った。
部屋の明かりは消されて、ベッドサイドのランプが黄色く灯されていた。部屋のダブルベッドの上では、健太がスヤスヤと心地よさそうに眠り込んでいた。達也はベッドに腰を下ろして、ジャケットを着たままで所在なげに、外したネクタイをもてあそんでいる。ワインで、ほんのりと酔いの回った弓枝は頬を赤く染めたまま、両手にした贈り物の小箱をぼんやりと見つめて立ち尽くしていた。
「弓枝さん。もしも、よかったら、それ、開けてごらんよ」
と、達也に促されるままに、弓枝は小箱を開いた。箱のなかの精巧なゼンマイ仕掛けが動き出して、「エリーゼのために」の名曲が、そっと囁くような音色で、小さなオルゴールから流れ始めた。それを放心して眺めながら、そうね、今こそ彼に打ち明けよう、と弓枝は固く決心して口を開いた。
「ねえ、達也さん。急にこんなこと言って、あなたの気を悪くするのは嫌なんだけど、ここで思い切って言うわね。
わたし、以前からずっと、あなたのことを疑っていたの。あなたに何か裏があるんじゃないかって。だって、わたし、正直に言って、あなたよりもずっと年上の子連れ女でしょ。そんなに魅力的な女性でもないし、まとまった財産があるわけでもないしね。どうしてあなたがこんなにも積極的に私のことを支えてくれるのかまったく分からない。ねえ、良ければ、今こそ、あなたの口から本当のことを告白してほしい」
落ち込んだように達也は下を向いたまま、何やら口ごもったが言葉にならなかった。射抜くような弓枝の言葉に、どこか狼狽している気配があった。いつしか弓枝の眼に涙が溢れていた。何かを告げようとして顔を上げた達也の唇に、やさしく弓枝の唇が重なり合った。しばらくして弓枝が小声で言った。
「でも、もういいの。わたし、これでいいの。達也さん、もう何も言わないで」
そして逃げるように、弓枝はベッドの中へと姿を消した。サイドランプの灯が消された。やがてスヤスヤと眠る健太のおだやかな寝息だけが静かに響いていた。
翌朝になって、弓枝がベッドで眼を覚ました頃には、すでに達也の姿は部屋のどこにもなかった。もしや早朝の散策にでも出かけたのかもしれない。それならば、ためしにフロントに確認してみよう。不安な予感を抱きながら、急いで弓枝はベッドサイドの電話に飛びついた。受付のダイヤルをプッシュする。やや間があって、若い男性のフロント係の声がした。弓枝が言った。
「あのう、902号室だけど、そちらに何かメッセージは届いているかしら」
やや間があって、少し困ったような口調で返事が返ってきた。
「いいえ、特に何もございません。ただし朝食でしたら、八時から一階のレストランでバイキング料理をご用意いたしておりまして」
弓枝は電話を切った。そして、虚空を見つめたまま、ぼんやりと思い悩んだ。昨夜の達也は、確かに何かを言おうとしていた。しかしそれはただの言い訳であったかもしれない。そして真相に気づきかけた私の所に、もう居ることも出来なくなったのかもしれない。どこかに身を隠したのだろうか。気づけば、さっき掛けた電話機の横に、小さなメモ書きが残されている。きっと、達也が書き残していったものだろう。拾い上げると、見知らぬ電話番号だけが、乱れた数字で殴り書きしてある。それだけが、唯一の手掛かりだった。フッと気になって、ベッドを振り返ると、いつの間にか健太が起き上がって、眠たそうに眼を擦りながら、不安そうにこちらを見ている。弓枝は精一杯の笑顔を浮かべて、健太をなだめると、ゼロ発信で直通電話をかけた。通話先は、意外なことに、都内にある総合病院の受付だった。受付係に達也の名前を問い合わせると、驚くような返答が返ってきた。達也は昨夜の遅くに入院して、現在のところ、命が危険にさらされて危篤状態だという。もしも関係者の方ならば、すぐに来院して欲しいとのことであった。弓枝は、息を詰まらせて、すぐにそちらへ向かうと言い残して電話を切った。一刻の猶予もならない。急いで弓枝は壁に掛けたハンドバッグをつかみ、戸惑う健太の手を引いてホテルの部屋を飛び出していった。
明るい照明に照らされ、病室のベッドに横たわった達也の顔には白い布がかけられていた。必死の思いで駆けつけた弓枝だったが、もうすでに事態は手遅れであった。弓枝は身を乗り出して達也の手を強く握り締めたが、それは、もはや冷たく固くなっていた。コホンと軽い咳払いがして、ベッドの枕もとに立った主治医らしき白衣を着た男性が、丸眼鏡の奥から鋭い視線で弓枝を射抜くように見つめて淡々とした口調で説明し始めた。
「彼は、何年も前から、手のつけられない重度の悪性腫瘍を患っていました。私は、うまく持ちこたえても、おそらくあと一年の余命であろうと、彼に直接、宣告をしていました。あなたもご承知でしょうが、彼は不運にも孤児院の出身でしてね、しかし、そんな逆境にもめげずに誠意と熱意を持ち合わせた立派な青年でしたよ。そして最後に残されたわずかな人生を自分の望みどおりに送りたいと言い残して、ここを出て行きました。そうそう、彼が最後にあなたへぜひ伝えたいと話していたことがありました。何でも、あなたは、彼の想像していた見も知らぬ彼の母親の面影にきっと似ているとね。心からあなたを慕っていたようです。
―僕のささやかな役目は、どうやらこれで終わったようです。僕は遠い遠い世界からあなたをいつまでも応援しています。どうぞ、健太君とご一緒に幸せな人生をお送り下さい―と彼からの最期メッセージでした……まことに残念なことです」 透明感が漂う寂しい空気の中で、主治医は厳粛な面持ちで伝えた。
あまりの衝撃で頭が真っ白になったまま、力ない足取りで弓枝は病室を出た。ひっそりとした廊下のベンチに、すねたような感じで健太がこちらを向いていた。健太は困ったように声をかけてきた。
「ねえ、ママ。パパはどこに行ったの。パパはお仕事に出かけたの」
弓枝は、何とか笑顔を浮かべると健太に愛想よく答えた。
「そうよ。パパはね、今日からお仕事で、遠いお国へ行ったの。しばらくしたら戻ってくるから安心してね、大丈夫よ」
「うん、わかった」
そう言うと、明るい気持ちになった健太は自販機のジュースを飲もうと、病院のロビーへ遊びに駆け出していった。そして、誰もいない廊下でひとりベンチに残された弓枝はくしゃくしゃになった顔を両手でおおうと、そのまま、とめどなく流れる苦痛の涙で泣き崩れていた…… (了)