ミステリー「幻の狙撃手」
強い陽射しが大理石のプールサイドに照りつけていた。都内に新設された東都国際ホテルの屋外プールでは宿泊客たちが、あちらこちらで昼下がりのひと時を満喫していた。
プールサイドに向いたオープンカフェの片隅で、アロハ姿の吉山刑事はホワイトソーダーを楽しみながら、近くにある赤いビーチパラソルの下で横になって、いちゃついている二人の男女を眺めていた。
吉山刑事の隣の席で、サンドイッチをほうばっている安井刑事が声を低くして言った。
「静崎のやつ、いい気なものですね。あの女、どうやら新しい愛人ってところですか。彼女が四人目の犠牲者にならなきゃいいですが」
吉山刑事がグラスをゴンと置いて断言した。
「俺がいつかあいつの尻尾をつかんでやるさ」
二人が話題にしている静崎三郎は過去に三人の裕福な女性と結婚し、その三人がすべて行方不明となっている。
彼女たちの失踪状況から判断して、財産目当てで静崎が自ら手を下したと推測されるが、逮捕にいたる確証がなかった。
吉山刑事が顎をなでながら言った。
「おい、安井、あの女性の身元は調べたのか」
「ええ、名前は鳴海由香里、二十八歳、N区のアパートで一人暮らしをしています。勤め先が『キャンドル』というスナックです。どうやら由香里は、そこで常連客の静崎と深い仲になった模様です」
笑い声がした。赤いパラソルの下で静崎と由香里が運ばれてきたグラスで乾杯しながら大声を上げている。吉山刑事がううむと唸った。
隣の安井刑事が煙草を取り出した。吉山刑事はそれを横目で睨んで言った。
「確かこの前、禁煙したって言ったよな、安井」
「禁煙なら簡単です。何度でも出来ますから」
とぼけた顔で安井刑事は煙草の煙をフウと吐いた。そしてすぐに煙草をもみ消して考え込むように言った。
「・・・せめて被害者の遺体が発見できたら、逮捕も時間の問題なんですが、静崎はなかなかの知能犯ですからね。手が出せませんよ」
プールの周辺では水着姿の子供たちがキヤッキヤッと歓声を上げながら走り回り、その間をくぐるように制服を着たホテルのボーイたちが、たくさんのパラソルで休憩する客たちに飲み物を運んでいる。二人は、しばらく時の流れるのに身をまかせていた。
「おーい、そっちの刑事さんたちも一緒にやらないか」
静崎の掛け声に、両刑事は我に返った。みると、グラスを片手に掲げて静崎がニヤニヤしながらこっちを向いている。吉山刑事は舌打ちをした。
また静崎が大笑いをし、そばにいた由香里がいきなりピンク色のビキニでプールサイドを走って水の中へ飛び込んだ。見事な飛び込みだった。
吉山刑事はアロハからハッカ菓子の袋を出して一粒を口に入れた。その時、後ろから控えめな声がした。
「恐れ入りますが・・・」
二人の刑事が振り向くと、そこには制服を着た上品な長身の男がいた。彼がこのホテルの支配人の館山であった。館山は腰を低くして二人に言った。
「わたくしども当ホテルの関係者と致しましては、お客様の安全に万全の配慮を願いまして、ぜひ出来ましたら・・・」
すかさず吉山刑事が言葉を返した。
「それは我々も同じことです。可能な限り、トラブルが起きないように協力を惜しまないつもりですがね」
そこで館山が小さな声で言った。
「あそこにいるのが例の静崎でしょうか」
吉山刑事がうなずいてみせた。館山は濡れた白いハンカチで額を拭いてため息をついた。そしてやや上ずった声で言った。
「何事に付きましても、穏便なご配慮をお願い申し上げます」
そう言い残すと館山はホテルの中へ姿を消した。吉山刑事がソーダーを飲みほし、安井刑事は取り出したチューインガムを噛んでいた。
やがて遠くから吉山刑事を呼ぶ声がした。吉山刑事が見上げると、プールの隣にある庭園に通じる道から、顔見知りの男がやって来た。
安井刑事が尋ねた。
「いったい誰ですか」
吉山刑事が微笑んで言った。
「知り合いの砂川恭介だ。結構、名前の知れた推理作家だよ」
砂川は紺色のガウンを身にまとって近づいて来た。そして立ち上がった吉山刑事と握手した。
吉山刑事が言った。
「お久し振りですな。今日はバカンスですか」
砂川は照れたように髪をボリボリ掻いて答えた。
「だったら良いですが、残念なことに出版社の命令でホテルに缶詰ですよ。さっき、ようやく一段落切り上げて部屋を抜け出せました」
安井刑事が頭を下げて自己紹介した。そして三人が椅子に腰かけようとした瞬間、一発の銃声が響き、突如、砂川がその場に崩れ落ちた。
みると、砂川の右足のふくらはぎの辺りから、おびただしい血が流れている。プール場内は騒然となった。安井刑事は素早く拳銃を構え銃声のした庭園へ向かった。
吉山刑事が砂川を抱えて言った。
「だ、大丈夫ですか、砂川さん」
「・・・い、痛てえ。どうやら足をやられたんですね。出来たら医者でも呼んで下さい」
急いで担当の眉野医師と看護士がやって来て、砂川の応急処置をした。そして担架に乗せられて、砂川はホテルの裏口へと消えた。
やがて安井刑事が息を切らせて帰って来た。
「まんまと逃げられましたよ。おそらく発砲したのは庭園の茂みの奥でしょう。ホテルの外部から侵入した形跡もありました」
「ううむ・・・」
おもむろに吉山刑事は周囲を見渡した。いつの間にか、静崎と由香里の姿がどこにもなかった。やがて場内放送が流れ、プール場の人々は気を静め、平静さを取り戻した。
黙り込んだ二人の刑事の前に、困惑した表情の館山支配人が来て言った。
「刑事さん、先ほども申し上げましたように、当ホテルでは・・・」
吉山刑事は支配人の興奮を鎮めるように言った。
「まあまあ、落ち着いてください。どうやら砂川さんの怪我も軽く済んだようです。あとの処理はわれわれ警察にまかせてください」
館山支配人は気を落とした様子で、何やらぶつぶつと呟きながら帰って行った。吉山刑事は考え込んだ。砂川とは長い付き合いだが、彼が命を狙われる理由が見当たらない。彼は従来独身を貫きとうしたから、財産目当てとも思えない。といって人に恨まれる人柄でもなかった。
すれば俺か、安井刑事を狙った犯人が誤って砂川を撃ってしまつた・・・思わず、吉山刑事は身震いした。そして安井刑事が床に残った血だまりを見て言った。
「どうやら砂川本人から事情を聞き込んだほうがいいですね」
「ところで、彼はどこに運ばれたんですか」
「きっとホテルの医務室だよ。さっきの医師が診てくれているはずだ」
二人はホテルの裏口へと回った。
「逃亡されてはまずいと、出版社の連中が一発撃ったのかなあ」
白いベッドに腰かけ、片足にギブスをつけた砂川が、そばに置いてある松葉杖を眺めて呑気な口振りで言った。安井刑事は壁のそばで手帳を開いて記入している。床にしゃがんだ吉山刑事は悩ましげな表情で尋ねた。
「犯人について最近に何か心当たりはありますかな」
「ふん、そう言われても僕としては全くこれといって・・・」
「思いつかないといわれるわけですな」
「おや、待てよ・・・」
「ふむふむ、では?」
「もしかしたら、ルミが仕返しにあんな事をしたのかも」
「ほうほう、あなたの恋人ですかな」
「隣の三毛猫です。この前、朝飯のサンマを取られたのでこちらもつい頭をゴンと」
吉山刑事が悲惨な表情でため息をついた。そして彼は手洗い場にいる眉野医師に声をかけた。
「・・・先生、砂川さんの容態はいかがですかね」
白衣を着た眉野医師は両手をタオルで拭きながらこちらを向いて言った。
「まあ怪我の状態からみて、二、三ヶ月の辛抱でしょう。そうそう、これが摘出した弾丸です」
血に染まった弾丸を吉山刑事は安井刑事から受け取った小さなビニール袋に、指紋がつかぬよう収めて上着ポケットに入れた。
眉野医師が目を細めてコソッと言った。
「これが射撃による犯行なら、私も容疑者のひとりに仲間入りですね」
「ほう、何故そうおっしゃるのですか」
すると眉野医師は猟銃を構えるような仕草をして言った。
「ふふっ、クレイ射撃ですよ。月に一度は友人と一緒に近くの射撃場に行って訓練するのが、たまの気晴らしになってましてな」
「はあ・・・」
松葉杖をついた砂川が立ち上がって言った。
「僕、そろそろ自分の部屋へ帰ります。書きかけの原稿がまだ山積みで残ってますから」
「おい、安井、部屋まで送ってやれ」
砂川が笑って断るように片手を振った。そして扉の向こうに消えていった。吉山刑事が眉野医師を見上げて尋ねた。
「変な事をお尋ねしますが、先生は銃声がした時どこにおられましたか」
すると眉野医師が少し首をひねって答えた。
「ええっと、確か、気分が悪いと言ってロビーで横になっているお客さんを診ている最中でしたな。間違いありません」
「ロビーで銃声は聞こえましたか」
「いいえ。やって来た看護士の連絡で始めて知りました」
しばらく吉山刑事は丸刈り頭をなでて何かを考えていた。ふと気づくと、医務室の壁に、額に入れた古い写真が飾られていた。それは若いラグビー選手たちが集合した記念写真だった。背景に昔の校舎が見える。
眉野医師が言った。
「こう見えて若い頃はラグビー部の主将をやってました。全国大会まで参加したくらいの活躍ぶりでしてね」
嬉しそうに眉野医師がペラペラ話し出した。困った様子で吉山刑事と安井刑事は顔を見合わせた。あわてて吉山刑事が口を挟んだ。
「そのお話はまたじっくりと聞かせていただきます。ひとまず、我々はこれで・・・」
残念そうな顔をした眉野医師をあとに残して二人は医務室を出た。外の廊下は、あまり冷房が効いていないのか、空気がこもっていた。
遠くからプール場の歓声が聞こえていた。吉山刑事はポケットの弾丸を出して、安井刑事にすぐ調べてもらうように手渡した。
安井刑事が消えると、吉山刑事は近くのベンチに座り、いつものハッカ菓子を口に含んで何やら思案していた。
東都国際ホテルのレストランは、キラキラ輝く大きなシャンデリアのもとで、大勢の夕食客で賑わっていた。吉山刑事と安井刑事は角のテーブルでいつもとは一段と違う豪華な夕食を味わっていた。
シャリアピンステーキに挑んでいる吉山刑事はともすれば静崎の監視を忘れるところだった。胡椒のかけ過ぎで、思わず安井刑事がくしゃみをした。それを見て吉山刑事が言った。
「おい、安井、夕食くらいじっくりと楽しんでもいいだろう。・・・あの様子じゃあ、静崎のやつ、俺たちをなめてかかってるに決まってるぜ」
少し離れた席で、静崎と由香里が刑事たちを指差してケラケラ笑っている。安井刑事も、ステーキを飲み込みながら、露骨に嫌な顔をした。
「・・・せめて物証でも出て来れば、お縄頂戴といけるんでしょうが」
その言葉を聞いたのか、また静崎と由香里が吹き出して笑った。
そこへ背の高いウェイターがやって来ると、吉山刑事の前にデザートの抹茶アイスらしき皿を置いた。吉山刑事がフウと息を吐き、それを安井刑事に回して言った。
「そのアイスクリームはお前にやる。二人前を食っとけ」
安井刑事が泣きそうな顔をした。その時、大きな声が隣の席から聞こえた。
「どういうつもりなんだ、こんな所で」
見ると、隣の席には中肉中背で頭のはげた四角い顔の男が、淡いピンクのイブニングドレスの若い美人の女性と向き合って座っている。
その横で中年の和服姿の女が男を睨みつけて立っている。和服の女が怒りの表情で言った。
「それは私の台詞です。あなた、この女はいったい誰なの」
男の向かいにいた若い女性が顔を赤らめて下を向いた。 それをみた四角い顔の男があわてて声を出した。
「失礼な事を言うんじゃないよ、房江。彼女は今度、新しく配属された俺の秘書で山崎咲子さんだ。おい、山崎君、ほら顔を上げて」
「つ、角田社長、わ、私は・・・」
四角い顔の角田と房江がけんか腰に立ち上がった。房江が言った。
「何が新しい秘書よ。私、この前、あなたの寝室でこれ見つけたのよ。・・・このイヤリング、きっとあなたのものでしょう」
そう言って房江は黒いハンドバックから、片方の真珠のイヤリングを出して見せた。一瞬、咲子の顔がこわばった。角田が言い返した。
「それ、この前、お前の誕生日に買ってやったものじゃないか。もう忘れてしまったのか」
「私、あなたからイヤリングを贈ってもらった記憶なんてないわ。こんな小娘を騙まし込んで自分のものにするなんて、私、許しませんよ」
「お前は、この俺を信じれんと言うのか」
角田が胸元のナプキンをむしり取っていきり立った。とうとう、咲子が声を上げて泣き始めた。周囲の来客たちがざわめき出した。それに圧倒されたのか、妻と夫は肩を落として声を失った。
急に咲子は膝に置いたピンク色のハンドバックを握りしめて立ち上がると、客室へ通じた自動ドアの向こうへと消えた。そして興奮した角田もジロッと房江を睨みつけて、咲子の後を追うようにレストランから姿を消した。
ひとり残された房江はやや狼狽した様子でその場に立ちすくんでいた。そこへ若いウエイターが歩み寄って房江の耳元で二言三言囁いた。
すると房江はキッと口を真一文字に結んでホテルのロビーへと去っていった。
安井刑事が言った。
「吉山さん、あの角田社長という男をご存知ですか」
吉山刑事は軽い口調で言った。
「さあ、知らんね。どこかのお偉いさんが熱々のデート中ってところだろう。・・・俺の女房ならこんなものでは済まないだろうな」
独身の安井刑事はあんぐり口を開いていた。吉山刑事が加えて言った。
「安井、お前はまだ恋人は出来とらんのか」
「はあ」
「刑事の安給料じゃあ無理か」
「それもありますが」
「他に何か理由があるのか」
「今はアイドル歌手の沢田瑠璃子に夢中で・・・」
吉山刑事が呆れた顔で安井刑事を見返した。そして思い出したように、近くのテーブルに目をやった。静崎と由香里の姿がいつの間にか消えていた。
吉山刑事が舌打ちをして言った。
「また逃げられたか。素早しっこいやつらだ」
女のウエイターが二人にホットコーヒーを運んで来た。また吉山刑事はコーヒーを安井刑事に押しやって言った。
「俺はコーヒーを遠慮しておく。お前の歳なら二杯は飲めるだろう」
あっという間に吉山刑事が去って行った。安井刑事は二つのコーヒーカップを前に腕を組んで険しい顔をしていた・・・。
吉山刑事たちの宿泊室は十三階にあった。シングルベッドが二つに中央にミニテーブルがひとつ据えられてあった。下着姿になった安井刑事がベッドの隅で、すっかりしょげていた。彼が泣きそうに言った。
「あんな大きなアイスクリームを二つも食べれば、下痢をしても当然でしょう。本当、吉山さんの罪ですよ」
吉山刑事が浴室からバスタオル一枚の格好で言った。
「そんなことより、みっともないから早くパジャマを着ろ。誰か入って来たら俺が困る」
安井刑事がくしゃみをして言った。
「この部屋の冷房、少し効きすぎてますね。身体に悪くありませんか」
「とにかく早くパジャマを着ろ」
何やらぶつぶつ言いながら安井刑事が着替え始めた。彼が鞄から出してきたのは花柄のピンクのパジャマだった。
吉山刑事が不思議そうに尋ねた。
「安井、お前、いつもその服で寝ているのか」
「ええ、そうです。どこか変ですか」
吉山刑事が悲惨な顔をして息を吐いた。そして自分のボストンバックから白いパジャマを出して広げて見せて言った。
「男ならこういった白く正しいパジャマで寝るもんだ。・・・まさか、お前、ホモじゃないだろうな。俺のベッドに近づくなよ」
ようやく吉山刑事が着替えを済ませて、二人でテーブルのウイスキーボトルからナイトキャップを飲もうとした瞬間、外の廊下から大声が響いた。
「おい、角田、そこを動くな。覚悟しろ」
殺気立った声が聞こえる。刑事の二人は顔を見合わせた。飛びつく勢いで扉を開けようとした吉山刑事だったが、扉のチェーンが掛かっいてわずかな隙間だけが開いた。 その隙間に吉山刑事が顔を突っ込んだ。
廊下の斜め向かいに、黒いコート姿の男が、片手に拳銃を構えて立っている。中折れ帽をかぶって、男の背中はまっすぐ伸びていた。
彼の正面の部屋の扉は大きく開いていた。そして男の伸ばした片手の拳銃がいきなり銃声とともに火を噴いた。
「しまった。おい、安井、お前も手伝ってここを開けろ」
二人がもみ合って何とか扉のチェーンが外れた。吉山刑事が飛び出した。そして突進したが、廊下の突き当たりの屏風に衝突しかけてUターンして言った。
「ありゃ、しまった。こっちだ」
廊下から男の姿は消えていた。長く伸びた廊下のどこにも人影はなかった。例の部屋の扉は開いたままだった。その部屋に吉山刑事と後を追う安井刑事の二人が入った。
中央に据えたダブルベッドの上に、青いガウンを着た角田社長が胸に血を染めて、すでに死亡していた。室内はゴージャスにしつらえてあったが、荒らされている様子もなく誰もいなかった。
吉山刑事が首を傾げて言った。
「おかしいな。確かに犯人を目撃したんだが・・・」
安井刑事が死体を調べて吉山刑事に声をかけた。
「心臓に一撃です。これなら即死でしょう」
二人は部屋のあちこちを探ったが怪しい様子はなかった。サイドテーブルにピンク色のハンドバックが載っている。
安井刑事が言った。
「このハンドバック、確か咲子の持っていたものですね」
その時、二人の背後から小さな悲鳴がした。そこに黒いナイトガウンを着た山崎咲子が立ちすくんでいた。
「これ、いったいどういうことなの・・・」と咲子は絶句した。
咲子は手にした買い物袋を床に落とした。どうやら、ロビーからの帰りらしい。
吉山刑事が前に出て咲子に言った。
「こんな格好で失礼しますが、我々は警察の者です。つい先ほど、角田さんが亡くなられました。お悔やみ申し上げます」
「角田さん死んじゃったの。でも彼が自殺するようには思えなかったけど・・・」
安井刑事が携帯電話で連絡を取っていた。吉山刑事が怪しげな表情で咲子に尋ねた。
「彼は殺されたようです。それであなたと被害者の関係はどういうものですか」
「わ、私は・・・」
「あなたを拝見した様子では彼の秘書とも思えませんがな」
咲子が諦めた顔つきで肩を落として答えた。
「私はバーのホステスをしていて、角田さんとは長い付き合いなんです。今日も彼に誘われてこのホテルにやって来ました。本当です」
吉山刑事は少し考えて言った。
「ふむ、そういった訳ですか。・・・まあ、ひとまずあなたは我々の部屋に移ってもらいましょうか。ここに居ても仕方ありませんから」
吉山刑事は狼狽した咲子を抱えるように廊下から自分の部屋へ連れて行った。そして咲子を残して廊下に出た吉山刑事は、少し離れたところの扉が開いて、こっちを覗いている男に気づいた。それは静崎だった。彼が少しとぼけた様子で尋ねてきた。
「刑事さん、さっき銃声が聞こえましたが、何か事件でもあったんですか」
吉山刑事はゴクンと唾を飲み込むと、冷静な表情で答えた。
「おや、静崎さんでしたか。これはまた偶然ですな。あなたのすぐ近くの部屋で殺人事件がありましてね・・・」
静崎はベージュのガウンで廊下に出ると、微笑んで言った。
「ははっ、もう刑事さんは僕をお疑いの様子だ。それなら刑事さんの負けですね。僕はずっとこの部屋に由香里と一緒でしたから」
「ふんふん、アリバイは完璧なんですな」
静崎は自分の部屋の扉を開いて、吉山刑事を招き入れた。彼が覗き込むと、ダブルベッドの上で由香里が裸を胸元までシーツで隠して驚いた様子で吉山刑事を見返していた。
静崎が言った。
「まあ、こういった具合です。まだご不満でしたら部屋をお調べになればいかがですか」
吉山刑事は一礼すると、彼に背を向けてふうむと唸った。そして少し思案して、ロビーへと向かった。エレベーターには誰も乗っていない。
一階のボタンを押す。やがてガラス張りのエレベーターは急降下した。到着すると、暗いガラス越しに夜のプール場が見えた。
プールサイドに人影が見える。吉山刑事はそちらへ足を向けた。暗いプールサイドは幻想的に青のスポットライトがあちらこちらに落ちていた。物音ひとつしない。その青い光を背に受けて、椅子に座り背中を丸めた砂川がいた。彼の傍らに松葉杖が乱れ落ちていた。
吉山刑事が彼に近づいて言った。
「まだ、眠れませんかな、砂川さん」
「ああ、刑事さんでしたか。・・・ええ、少し足が痛みだして」
プール場は青一色に染められ、まるて゜海の底にいるような神秘な雰囲気が事件の事もあり少々不安にさせた。
吉山刑事が尋ねた。
「いつ頃からここに」
「もう一時間以上になりますか。部屋で仕事をしていたら、無性に気が散って、気分転換にこの場所を見つけた次第です」
「ここ、少し冷えますな」
「でも、なんともいえない気分です。・・・思わず昔が思い出されて」
大理石の床はひんやりとしていた。砂川の耳に吉山刑事の遠ざかる靴音が聞こえていた・・・。
ロビーでは吉山刑事が思いもよらない騒動が巻き起こっていた。
「角田を出せ。奴は生かしちゃおけねえ。俺が殺してやるう」
叫び声を上げながら、ジャンパー姿の男が手に包丁を振り回して暴れている。そこへ吉山刑事が出くわした。深夜の宿泊客たちは黙ってロビーの壁にへばりつき、成り行きを見守っている。
また男が叫んだ。
「この黒沢を怒らせたら,どんな目に合うか思い知らせてやる」
ロビー中央革張りの円形ソファーはズタズタに切り裂かれていた。天井のシャンデリアも勢いに呑まれ揺れているように殺気だっていた。
支配人館山はロビーの隅で顔を引きつらせて立ちすくんでいる。ゆっくりと黒沢の背後に回った吉山刑事は勢いよく飛びつくと、彼をねじ伏せた。
「い、痛え、くそったれ」
そこへタイミングよく安井刑事がやって来た。そしてようやく事態を把握した様子で、着替えた背広の内側から手錠を出して黒沢に掛けようとした。そこで彼の顔を見た吉山刑事が驚いて言った。
「お前、黒沢じゃないか。こんな所で何してるんだ」
安井刑事に引っ張られて立ち上がった黒沢省吾が憎々しげに言った。
「復習だよ。あいつのせいで俺の下請け会社が潰れちまった」
安井刑事が行き勢い込んで吉山刑事に言った。
「この男が角田を撃ち殺したんですか」
「えぇ、・・・角田は死んだのか」と黒沢は呟いた。
吉山刑事は首を振って黒沢の右袖を指差した。黒沢には右腕がなかった。
吉山刑事が言った。
「俺が廊下で目撃した犯人はしっかり右手に拳銃を握っていた。間違いない」
黒沢は黙って吉山刑事を睨みつけていた。吉山刑事が声に力を入れて尋ねた。
「・・・お前、このホテルで何か変わった事を見なかったか」
すると諦めた様子の黒沢が考え込んで言った。
「ふん、変わったことか・・・。そういえば、ホテルの庭の中で黒い人影が長い上着を脱いでいたのを窓越しに見た憶えがある。しかし大して当てにもならないぜ」
「そのほかにはどうだ」
黒沢は黙り込んだ。吉山刑事はすでにロビーに到着していた警察関係者の一団に声をかけた。
「ひとまずこいつを連行しろ。・・・現場は十三階だ。悪いが急いで捜査を始めてくれ」
一同はうなづくと勢いよくロビーの階段へ向かった。おもむろに吉山刑事は安井刑事に声をかけた。
「安井、支配人に頼んで山崎咲子の部屋を準備してくれ。俺はしばらく休憩させてもらうよ」
吉山刑事はホテルの玄関を出た。暗いホテルのロータリーには停車した車もまばらだった。彼はポケットからハッカ菓子の袋を出し、一粒を口に放り込んだ。そしてふと近くの話し声が彼の耳に届いた。見ると二人の男女が隣の旅館に入るところだった。女は和服を着ていた。
それは間違いなく房江だった。男のほうは背広を着た長身の若いハンサムな人物だった。
目を逸らした吉山刑事は夜空を見上げていた。遠い夜空は美しく無数の星が小さな光となって煌いていた・・・。
ぐっすり眠っていた安井刑事は耳もとのモーニングコールでたたき起こされた。隣のベッドを見るともう吉山刑事の姿はなかった。安井
刑事は急いでパジャマを脱いで着替え始めた。テーブルに置いたデジタル時計は朝の八時を示していた。着替え終わると同時に、扉を軽くノックする音がした。安井刑事が声をかけた。
「どうぞ。構いませんよ」
入って来たのは山崎咲子だった。彼女は寝不足だったらしく目の下にくまができている。それでも彼女の白いワンピースは溌剌としていた
「あのう刑事さん、昨晩は失礼しました。・・・あれ、もう一人の方はどうされたのですか」
「吉山さんなら、たぶん朝の散歩の時間でしょう。それで何かご相談でもおありですか」
咲子は籐椅子に腰掛け少し居心地、悪そうに言った。
「実は昨日の事件の事なんですが・・・」
「どうぞ、気楽になさってください。それでどうなさいました」
「・・・もしかして、私が疑われてはいないかと心配で」
安井刑事が微笑んで言った。
「まだ捜査は始まったばかりです。そんなにご心配なさらなくてもいいんですよ。それともあなたのアリバイ証言をなさいますか」
「そう、それなんです。・・・私、事件があった時、ちょうどエレベーターの中にいたんです。上の方で微かに銃声を聞いたのを憶えています。でもエレベーターにいたのは私一人でしたから残念にもアリバイは証明できません」
そして咲子は下をうつむいて顔を隠した。安井刑事は同情するようにやさしく声をかけた。
「また詳しい事情はいずれお聞きするとして、今日はゆっくり休憩なさって下さい。どうもお疲れのご様子だ」
咲子はハンカチで涙を拭い、一礼すると部屋を出て行った。安井刑事は手帳に幾つかメモ書きしてため息をついた。そこに突然、不意をつかれた様にテーブルの電話が鳴り出した。慌てて取ると、朝食が出来た知らせであった。ホッとした彼のお腹もグウーと鳴った。
庭園にある池のほとりにしゃがんで、吉山刑事は水中を泳ぐ鯉の姿に見惚れていた。池の周囲を囲んだ生垣の緑は、綺麗に刈り込んであった。庭園の内側は低い生垣で迷路のように入り組んで、来客たちが楽しめるように造られていた。
吉山刑事の背後でガサガサと草むらをかき分けるような物音がした。彼が振り返ると、そこに紫色のドレスを着た鳴海由香里が立っていた。彼女は吉山刑事にニッコリ微笑んで見せた。
「刑事さんをしばらく探していたの。庭園に行った姿を見つけてから、ここまで来るのにずいぶん苦労したわ」
吉山刑事は訝しげに言った。
「いつもの静崎さんはどうしたんですか」
すると由香里は彼と同じように腰を下ろして低い声で言った。
「刑事さんに合おうとしたのはその事なの。静崎なんだけど・・・」
「別れ話でも出たのかね」
「そうじゃなくて・・・」
由香里が決心して言った。
「私、こう見えて実は、興信所の探偵なの」
「探偵って、君・・・」
「静崎のことは私よりずっと刑事さんのほうが、お詳しいでしょう。あのね、最近、静崎に新しい婚約者の方が出来たの。その方はぞっこん静崎に惚れ込んでいるんだけど、事件を知った両親が心配してうちの興信所に依頼が来たという訳。それでわたしこと由香里探偵が身元を変え、静崎に接近して、恋人に成りすまし、素行調査ってところなの」
しばらく吉山刑事は意表をつかれ、呆れて言葉が出なかった。やがて我に返ると吉山刑事は咎めるような顔つきで由香里に言った。
「それを何故、今になって俺に告白したんだね」
「だって、昨日の事件でしょう。万が一、私の身に何か危険があった場合に備えて、刑事さんにだけは知っておいてもらいたくて」
「ふうむ・・・」
「でも静崎にだけは内緒よ。これからも調査続行だから」
「それで昨日の晩はどうだった。静崎が殺人犯という可能性はあるのかね」
「あの時は・・・」
由香里は少し顔を赤らめて言った。
「ずっと一緒だったわ。銃声を聞いたとき、二人ともベッドの中だったから。でもひとつだけ・・・」
「と言うと」
「銃声が聞こえる少し前に一度、静崎が外の空気を吸って来ると言って廊下に出た記憶があるの、それだけだけど」
それからしばらくの間、二人少し会話をしてその場で別れた。迷路の生垣を抜け出そうと懸命になっている吉山刑事の耳に朝食の合図が聞こえて来た・・・。
一階のバイキング会場の大広間は、寝ぼけ面の宿泊客で大賑わいだった。安井刑事は自分の皿に焼きそばを大盛りにして、大勢の客たちの間をうろうろしながら吉山刑事を探していた。安井刑事が叫んだ。
「ねえ、吉山さん、どこですかあー」
その時、その吉山刑事はポテトサラダを口いっぱいにほうばって、安井刑事に返事をしょうと咽喉を詰まらせていた。その拍子に吉山刑事は後ずさりして、危うく後ろの客とぶつかりそうになった。
振り向いて吉山刑事が言った。
「ほれはろうも、ひつれいひまひた」
頭を軽く下げた吉山刑事が相手を見直すと、それは眉野医師と房江の二人だった。ポテトサラダを飲み込んで吉山刑事は言い直した。
「これはおふた方でしたか。どうも失礼しました。確か、そちらは角田夫人ですな。この度はお悔やみ申し上げます」
房江が上品な身のこなしで頭を下げて言った。
「ご丁寧にどうも・・・先ほど警察の方がみえて、これから主人の遺体の確認に行くところですの」
「そうでしたか。それで、立ち入った事をお聞きしますが、以前からご主人は女性問題でトラブルがおありでしたか」
「それはいろいろと苦労させられました。言い出せば限りがございません。あなた、警察の方でしょう。それで主人は何か女の関係で事件に巻き込まれたのでしょうか」
「まだ何とも言えません。ああ、そうそう、少し変なことをお尋ねしますが、あなた、昨日の夜はどちらにおられましたか」
「昨日の晩ですか・・・」
「誰かと一緒だったとか」
「実はあの・・・いいえ、また後ほどお話いたします」
少しあわてた様子で、房江はそそくさと大広間を出て行った。それを目で追いながら眉野医師が呟くように言った。
「なかなかいい女ですな。これで未亡人とはねえ。私がもう少し若ければ放ってはおかなかったでしょう」
吉山刑事は眉野医師を横目で見やりながら言った。
「ふうむ。美貌の未亡人に先生が手をだすとは由々しき事態ですな」
「何をおっしゃる。これでも私の妻とは四十年近く、仲睦まじく連れ添って来ましたぞ。まあまあ、例えればの話です」
「・・・彼女の魅力にむらっと来て、我がものにしょうと、邪魔な角田を撃ち殺してしまった・・・」
「な、何と。よくもそんな悪い冗談が言えますな。そう言われるのなら、私のアリバイを間違いなく申し上げましょう」
「ふむふむ」
「そう・・・。確か昨夜は医務室で、気の合った従業員の男と深夜まで何回も将棋を指していましたぞ。途中、一度か二度、彼が席を外した事はありましたが警察の連絡が来るまでそこにいました。彼に聞いてもらえばわかります」
「なるほど・・・」
吉山刑事は丸刈り頭を掻いて考えていた。彼の耳にガチャガチャと食器の触れ合う気忙しい物音が響いている。どうやら今朝の客は腹ごしらえに多忙中のようだ。
「吉山さーん、ようやく見つけましたよ。今までどこにいらしてたんですか」
両手を振る吉山刑事に、ふと、さっきの由香里の記憶が蘇えってきたが、告白の件は口にはしなかった。そばに寄った安井刑事は口の回りをソースだらけにしている。吹き出しそうになった吉山刑事だったが、安井刑事は真顔になって小声で言った。
「さっき、静崎を喫茶ルームで見かけました。あいつ、今朝何か、ただならぬ様子ですよ」
「どういう事だ」
「一人で何か思い込んでいるというか、企んでいるというか」
「ふうむ・・・、そいつは怪しいな」
いつの間にか、眉野医師の姿が消えていた。吉山刑事はふっと息をもらして食卓に皿を戻すと、安井刑事と共に大広間を後にした。
明るい陽射しを浴びた喫茶ルームに、人の姿はほとんどなかった。その片隅のテーブルで黒いジャケット姿の静崎が、うずくまるように座っていた。彼は二人の刑事が入って来たのに気づくと、にやっと笑った。
彼が言った。
「事件の捜査はいかがですか。早く真犯人がみつかればいいですね」
吉山刑事は返事をしなかった。そして二人ともその場に立ったまま、静崎を見つめていた。やがて静崎はジャケットの内ポケットから、ガラス製の小さな茶色の小瓶を取り出して、テーブルの中央にゆっくりと置いた。
静崎が声を落として言った。
「こいつはね、クラーレっていう猛毒なんですよ。何でもアフリカの原住民が獲物を射止める矢毒で用いたっていうらしいんですがね」
静崎は両手でその小瓶を転がし、またテーブルに置き直して言った。
「この毒薬は飲み込む場合には全く大丈夫なんですがね。しかしいったん血液中に入ったら最後、一気にあの世行きって代物なんです」
静崎がまたにやっと嘲笑してみせた。また、吉山刑事も挑発するように言った。
「何故そんな事を話されるのか。それにどうしてそんな物騒な物を持つ必要があるのかな」
「刑事さんたちが、これにご興味をお持ちではないかと思いましてね。別に気になさらなくても・・・」
吉山刑事が慎重な口振りで言った。
「何かの事情で、それをお使いにでもなられたのかな・・・」
静崎は落ち着いた様子で黙っていた。吉山刑事は静崎をじっと見据えていた。やがて静崎は立ち上がった。そして小瓶をポケットにいれると、軽く片手を振ってその場を去って行った。しばらく二人の刑事は沈黙していた。吉山刑事は唇を噛みしめて、静崎の後姿を見ていた。
そこへ喫茶ルームのウエイターが寄って来た。彼に促されて二人は席についての飲み物を注文した。吉山刑事は言葉もないままにハッカ菓子を出して口にした。安井刑事はボリボリ髪を掻きまわしていた。
ウエイターが来ると、吉山刑事にブラックコーヒーと、安井刑事にココアを差し出して去って行った。二人が飲み出した時、隣の席に一人の男が座ったのに気づいた。渋い背広を着たハンサムな若い男だった
彼は二人の視線にニッコリ笑って返し、声をかけてきた。
「刑事さんたち、ですよね。私、篠村浩二と申します。今度の事件には本当に驚いています。おやっ、そちらの刑事さんにはどこかで以前
お会いしたような・・・」
吉山刑事はゆっくりうなずいて言った。
「昨夜の晩、隣の旅館に泊まられましたよね。拝見しております」
篠村は思わず苦笑いして返事をした。
「ああ、見られてましたか。では正直に申し上げます。私は角田夫人と交際中の仲でして、昨日は夫人と一緒に隣の旅館に泊まっておりま
した」
「夫人とは長い付き合いですか」
「もうかれこれ五年以上になります。関係を持ったきっかけは角田の浮気が始まった頃からです。夫人にも不満があったのでしょう、飲み屋で出会って、声をかわしてからは、あっという間に深い間柄に・・・」
「篠村さん、昨日妙な事に気づかれませんてしたか」
「そうですねえ。ロビーでの騒動は見聞きしましたが、その後は夫人と二人で旅館にずっといましたが・・・」
「何か思い当たる事でも・・・」
「騒動の前に夫人が主人に会うと言って旅館を出て行きました。でも思い直したとかで十分程で戻って来ました」
「その間あなたは何をなさっておられましたか」
「部屋でぶらぶらと酒を飲んだりテレビを見たりしていましたね」
「その他にはどうです」
「特に何も・・・」
篠村は肩を落とし、ため息を漏らしてテーブルの上をボンヤリと見つめていた。二人の刑事は礼を述べてそこそこにその場を去って行った。
「おい、安井、お前何してるんだ」
吉山刑事に背中を向けて、安井刑事がコソコソとうずくまっている。安井刑事が困った様子で答えた。
「いえ、別に何も」
「何をしている。見せろ」
吉山刑事が力づくで安井刑事を引き寄せると、彼は両手にしたルービックキューブを必死にねじ回している。吉山刑事の眼が点になった。
吉山刑事が言った。
「それ、何とかキューブってやつだろう。簡単に出来るのか」
「ええ、今、一面を出来るかどうか挑戦中です。結構、難しくて」
「やり始めてどれくらいになる」
「半年ほどです」
吉山刑事も困った顔をして言った。
「お前の頭もそれくらい回ればなあ・・・」
その時、部屋の扉を控えめにノックする音がした。吉山刑事が出て扉を開いた。そこに支配人の館山が寂しそうに立っていた。そして彼の片手には重々しく黒い拳銃がぶら下がっていた・・・。
「まさか支配人がその拳銃を使って・・・」
その安井刑事の問いに、館山支配人はあわてて首を振って答えた。
「いいえーめっそうもない事でございます。実は朝の見回りをしておりまして」
「その時に、犯行に使った拳銃を隠そうとして・・・」
安井刑事が捲し立てるように館山支配人に詰め寄った。
「いいえ、いいえ。そんな、とんでもございませんよ。見回りで庭園の中を歩いておりますと」
また何か言おうとした安井刑事を押さえ込んで、吉山刑事が応じて言った。
「・・・庭園の生垣の茂みから発見されたんですな」
「左様でございます。これはぜひ刑事さんにお伝えしようと思いまして御持参致しました次第です」
「どうもご協力ありがとうございます。これは重要な証拠物件になりますよ」
「それではわたくしは、これで失礼させて頂きます」
吉山刑事が帰ろうとする館山支配人を呼び止めて言った。
「もう少しだけお話をさせていただきたいのですが」
「さて、何でございましょう」
「・・・支配人は事件当時、どこにおられましたか」
館山はしばらく思案して、かみ締めるように言った。
「ずっとロビーにおりました。最初、フロント係と立ち話をしておりましたが、あとは例の騒動が起こりまして・・・」
「ロビーを離れた事はありませんかな」
「そうでした。途中で、ロビーの窓ガラス越しにプールに人影を見つけまして、行ってみたら砂川様がいらっしゃいまして、少しお話をいたしました」
吉山刑事が軽くうなづくと、支配人は丁寧にお辞儀をして部屋を去って行った。吉山刑事は少し考えていたが、やがて安井刑事にでかけて来ると言って部屋を出た。ひとり安井刑事は黙々とパズルを解いていた。
「ああ、砂川さん、ここにおられましたか」
ロビーのソファーに腰かけた砂川を見つけて、吉山刑事が大きな声を上げた。
「足の怪我の調子はいかがですか」
砂川は明るく笑って答えた。
「まあ、奇跡的回復力というか完璧ですな。もう退院って所ですよ。ところで、あぁ痛ててぇ・・・あの、事件の捜査のほうはいかがです」
「まだ五里霧中ですな。それで少し砂川さんの知恵を拝借したくてやって来ました」
「と言いますと」
「頭脳明晰な砂川さんの推理では誰が第一容疑者ですかな」
「そうですね。わたしの推理小説なら安井刑事あたりが意外な犯人って感じですかね」
「ふむ、あいつも殺りかねませんか。で、本当のところはどうです」
「事件に関して見聞きした限りでは、やはり嫉妬に狂って殺害に及んだ角田夫人、というのが最有力でしょうか。彼女の場合、動機が明白
ですよ」
「そうですなあ・・・」
そう答えてロビーを見渡した。大勢の来客に混じって、山崎咲子の姿が垣間見れた。彼女は隅の籐椅子に座って、取り出したコンパクトでせっせと化粧を直している。花柄のドレスが華やいで見えた。それをじっと凝視していた吉山刑事は突然、ある事にひらめいた。
「そうか。あそこに・・・」
急いで吉山刑事はポケットから携帯電話を出すと警察に連絡を取った。
「・・・もしもし、ああ、林君か。実は事件の真相に気づいてね。それで、これから俺の命令通りに実行して欲しいんだ。まずは・・・」
「吉山さん、奴は本当にやって来るんですか」
「ああ、誘いはかけてある。罠を仕掛けて獲物を捕らえるだけさ」
医務室の暗闇の中で二人は囁いていた。部屋は静かだった。ただ部屋の壁に掛けた時計の秒針の音が小さくながれていた。
安井刑事が震えながら言った。
「・・・何だかトイレに行きたくなって来ましたよ。ねえ、どうしましょう」
「少しくらい我慢しろ」
誰かが硬い靴で廊下を歩くような音がした。その足音はぴたりと二人の居る医務室の前で止まった。 吉山刑事が小声で言った。
「そうら、おいでなすった」
ゆっくりと医務室の扉が開き、廊下の明かりが漏れてきた。安井刑事はゴクンと唾を飲み込んだ。長いコートを着た黒い人影が部屋に忍び込み、あたりを窺っている。その片手には小さなナイフが握られている。その人影はゆっくり前進すると、ベッドの前で止まった。
そして、片手に握ったナイフが持ち上げられ、振り下ろされた瞬間、部屋の照明が煌々と照らされた。その人物が声を上げた。
「し、しまった」
あっという間にその人物は吉山刑事の手で床にねじ伏せられていた。息を荒げながら、吉山刑事が大声で言った。
「お前が角田さんを殺した真犯人だな、黒沢省吾よ」
「鏡だよ、大きな鏡だ。咲子がコンパクトで化粧を直しているのがヒントになってようやく解かったんだ」
吉山刑事はロビーのソファーに座って、隣にいる安井刑事に語った。
「おっと、いけない。順番に説明しよう。ロビーで暴れた黒沢自身が言ってたように、彼は以前から自分の下請け会社をつぶされた恨み角田の命を狙っていた。そして第一弾の攻撃があのプールサイドだった。あの時、砂川は紺色のガウンを着ていた。ほら、殺人現場で君も知ったように被害者は青いガウンだったろう。つまり、被害者とよく似たガウンのせいで、砂川は角田と間違われて狙撃されたんだ。偶然に急所が外れて足に怪我を負っただけで済んだのが幸いだった。君の言ったように黒沢は庭園から砂川を撃ち、そして外部へと逃走した」
そこで安井刑事が言った。
「・・・そして第二弾がホテルの客室だった」
「その通り。ほら、君も知っていると思うがホテルの廊下の壁にはよく大きな鏡がつけてあるよな。俺は事件当時、ドアチェーンのせいで扉の隙間から犯行を目撃した。それは廊下の突き当たりにある鏡に映った光景だったんだ。それで左右が逆に見えた。片手しかない黒沢は左手で狙撃したが、俺には右手に見えたわけだ。そして扉を開けようとした俺たちの物音に気づいた黒沢は慌てて傍にあった屏風を引き寄せて、鏡と屏風の間に身を潜ませた。そして部屋を飛び出た俺が屏風にぶつかりそうになった訳だ。やがて俺たちと咲子が現場で遣り取りしている隙を狙って、廊下から階段を使って1階まで駆け降りて、庭園に拳銃と黒いコートを捨てた後、ロビーで暴れて一芝居打ったという次第さ」
訝しげに安井刑事が尋ねた。
「あの医務室に黒沢をどうやっておびき寄せたんですか」
「黒沢を留置した署に連絡して、まだ角田が生きていると騙して釈放したんだ。止めを刺そうと、また黒沢がやって来るだろうと見込んでね」
そこまで言い終わると、吉山刑事はポッカリと口を開けてハッカ菓子を口に放り込んだ。ホテルのロビーは、また新しい来客たちで混雑して来ていた。近くで人の騒めく声がするので、安井刑事が目を向けると、コート姿の黒沢が刑事たちに連行されていくのが見えた。
吉山刑事が腰を上げて言った。
「そろそろ俺たちも帰ろうか」
安井刑事も立ち上がった。歩き出した二人の前に、玄関の壁に寄りかかってこちらを見ている静崎がいた。彼が言った。
「刑事さんたち、もうお帰りですか」
吉山刑事は微笑んで彼に言った。
「・・・たぶん、また近いうちにお会い出来ますよ」
由香里の姿はなかった。静崎は手にした煙草の煙をフウと吐いて言った。
「・・・由香里のやつ、どこかへ急に消えましてね。僕はどうやら女性には運がないようですね。これで何度目ですかね」
一瞬、吉山刑事の顔がこわばった。彼は静崎をジロッと睨みつけるとそのまま玄関を出た。吉山刑事に又、ひとつの難事件が頭を過ぎった。
しかし吉山刑事は確かな足取りで前に向かって歩いて行った。安井刑事はあくびをして思いっきり背伸びをした。空は晴れて大きく雲が広がっていた。そして何気なくあたりを見渡した。ホテルの生垣の向こうにプール場が見えた。安井刑事が驚いて声を上げた。
「あっ、危ない・・・」
プールサイドに近づいた松葉杖の砂川が片足を上げた。そのまま、よろめくと次の瞬間バランスを崩して、プールの中へザブンと落ちて行った。
呆れた安井刑事がつぶやいた。
「ああ、また砂川さん、事件を起こしたなあ」
振り向くと、いつの間にか吉山刑事の姿が消えていた。
「ねえ、吉山さん、どこですかあ。どこにいったんですかあ」
あわてた安井刑事が、いつまでもあたりを走り続けていた・・・。
完