特集『4000字小説』「Sternenzelt~星空」
七十分を超えるスケールの大きなベートーベン作曲「交響曲第九番」の演奏会が終わった。その瞬間、会場の圧縮された空気が水の表面張力のように膨らんで静止した。万里子はそう感じた。
日本では十二月に演奏されるのが慣例の「第九」の八月の演奏会。情熱的なタクトを止めた指揮者は、したたり落ちる汗とともに涙をぬぐっているように見えた。彼の指揮は終盤が近づくにつれ、祈りへと変化した。万里子はその祈りに応えるように全神経を指揮棒に凝らした。
Sternenzelt(シュテールネンツェルt)ドイツ語で「星空」という歌詞を歌ったとき、万里子の目にドームの天井のライトが夜空にきらめく星のように映り、彼女は東日本の星空を思い描きながら精一杯の歓喜を歌いあげた。
約3000人の合唱団員と2000人の聴衆、120人余のオーケストラのメンバーとソリストたち。大きな拍手の嵐がうねりとなって万里子の耳に届き、瞬時、彼女は放心した。が、すぐに無事に歌い終えた喜びと幸福感に包まれた。この感激をどう表現したらいいのだろう。第九には人と人との絆を確かめるようなハーモニーがあふれている、と万里子はいつも思う。その音楽に呼応し、会場はあたたかい感動に満ちている。
演奏会は、東日本大震災で被害に遭われた方々への鎮魂と、被災地の一刻も早い復興を願って企画された。第九の歌詞にある「どんな困難も人々が一つになることにより乗り越えられる」との想いを、一人ひとりが胸に抱き締めながら臨んだのだった。
難易度の高いこの楽曲は印象的なリズムとハーモニーで、終盤に向けだんだん盛り上がる構成になっている。苦難を乗り越えたときに湧き上がる喜び、そんな心のヒダを震わす感動をたくさんの人と分かち合うことができ、熱い涙が万里子の頬をぬらした。ふと周りを見渡すと、指で涙を拭いている人の姿が多くあった。私たちの祈りはきっと東日本の人々の心に届いている、そう万里子は確信した。
彼女にとって十八回目の第九演奏会。そのたびに何かしら違う感動が万里子の心を釘づけにするのである。特に今年のような大規模な合唱は迫力に満ち、あまたのエネルギーの集結を全身に感じ、「全人類はみな兄弟、姉妹」という歌詞を熱く実感するのである。
躊躇の末であったが参加してよかった。参加を決めたのは自分の意志だけれど、それ以外の何か大きな力に導かれて私は今ここに立っている、そういう想念がじわっとこみ上げてきて、「ありがたい、なんまんだぶつ、感謝、感謝」と、いつもの万里子の一句? を思わず唱えていた。
八十八歳の今も杖は使わず、誰に迷惑をかけることもなく、足取り軽く七段目の自分の席まで階段を上り下りできる。一階には車いす用の席が用意され、それぞれのパートに車イスでの参加者があった。
前日のリハーサルのときに配られたプリントには、「演奏中は体や頭や手を動かさない。口を縦に開け深い声を出す。大人数の場合、時間差が生じるから、必ず指揮者を見て指揮棒に合わせる。(オーケストラの音に合わせない!)「r」は巻き舌を使う。~t、~d、~m、~rなどの語尾をハッキリと歌いきる……」などなど、重要なことが書かれていて、万里子は諳んじるまで繰り返し読んだのだった。
日本語には子音で終わる言葉はない。だから外国語で歌う場合、不慣れな語尾の子音の処理には困難が伴う。しかし、語尾がきちんと発音されているか否かによって、演奏会の善し悪しが決まってしまうという側面があるので、万里子は語尾の子音とrの発音には特に注意を払った。
彼女は、かつてドイツ人の牧師から直接、第九のドイツ語を学ぶ機会に恵まれた。語尾の発音もrの巻き舌も、意識的に訓練を繰り返すうちにできるようになっていた。語尾もrもうまくできる人は他の人の分もまとめて発声するようにとのことなので、万里子はその部分は二倍の声量を頑張って出した。
ゲネプロといわれる本番直前の総練習での指揮者の、「演奏(音楽)はやり直しのきかない、たった一度の芸術です。けれども、小さなほころびは気にしないで……」との言葉を反芻しつつ、プリントの注意事項にあった「気分が悪くなったら、その場で座る。我慢は禁物」もしっかり心にとめた。
小学生から九十歳超のさまざまな年代、環境にある人たちとの、この日、この場所で、この時間での一期一会に感謝し、万里子は合唱することの幸せを改めて心の奥深く刻み込んだのである。
第九の魅力にとりつかれ、毎年あちこちの演奏会を渡り歩く人がいる。今回も遠くは鹿児島から、また関東や関西からも、東海地方の他県からも多くの参加者があった。万里子にはそういう人の気持ちが十分、理解できる。彼女も東京や大阪、滋賀県の琵琶湖ホール、広島や福岡にも出かけたことがある。いつも夫と一緒だった。万里子に第九の魅力を余すことなく教え、彼女の先生というべき存在だった夫が旅立って五年になる。
「あなたは私を置いて一足先に彼岸に行ってしまったけど…、本当は私が先のはずだったのに…。でも、こんなに素敵な宝物を残してくれて、ありがとう。いろいろあったけど、もう、みんな許してあげる」
感動の渦の中で、万里子はSternenzeltにいる夫に向け、そっとつぶやいた。この演奏会は今年、米寿を迎えた万里子への最高の贈り物となった。練習には欠かさず参加した。多少の疲れを覚えることはあったけれど、その比ではない深い感動、生きる喜び、勇気……、たくさんの力をもらった。
万里子の趣味の一つに「おしゃれをすること」がある。当日の服装は、白いブラウスに黒のスカートかパンツということだったので、ふわっとしたパフスリーブの袖口と裾にカットワークをほどこした、白いブラウスに黒のスパッツを合わせた。昔は太ももの頑健なのがコンプレックスだったけれど、すっかり細くなった太ももにスパッツはぴったり馴染み、なにより履き心地の良さにほれ込んでいる。ブラウスは普通サイズの人には腰くらいの丈と思われるが、若いときに比べると身長が低くなった万里子には、ちょうどお尻が隠れるくらいのオーバーブラウスになり、これも重宝している。
おしゃれなリラックスした装いでたくさんの視線を感じながら歌う緊張感、高揚感は、これまた病みつきになる。合唱で知り合った娘と同年代の若い友人に、「すごくお似合い」とほめられて気を良くする。
「口紅は迷ったけど、今日はローズピンクにしたの。頬紅はりんごちゃんにならないようにと娘に注意されているので控えめにしたわ」と、にっこりほほ笑む。すると、必ず相手からも笑みが返ってくる。万里子は笑みの連鎖が大好きなのだ。
自分の子どもや孫のような世代の人たちと一緒の練習は、この上なく楽しい時間だった。万里子の練習会場の指導者は三十代半ばくらいの素敵な先生で、「喜びに満ちて楽しんで歌うこと」を心がけておられ、リラックスして歌えた。
休憩時間に「私は米寿を迎えたの。ひ孫が六年生よ」と、隣に座った人に話しかけると、だれもが必ず驚きの表情を浮かべる。それを見るのが万里子のひそかな楽しみの一つになっていた。「車を十五分ほど運転してここに来るの」と言うと、周りからまた驚きの声があがる。帰りには「お気をつけてね」という優しい言葉をかけてくれる人が必ずいる。いつも身だしなみを整え、黒く染めたボブカットの髪を休憩の間にちょっと梳いたりもした。
みんな好意的で視線があたたかい。冷たい視線もたまにはあるのだろうけれど、万里子の脳が自動的に選りわけているのか、視野に入ってこない。この頃「断捨離」なんて言葉がブームらしいけれど、「不快な態度、言葉、表情といった不要なモノは受け入れない」というのも立派な断捨離、万里子は流行の先端を走っていると自負もする。
「断斜離」とはヨガの「断行」、「捨行」、「離行」という考え方を応用した、人生の大掃除を意味するそうだ。不要なモノを絶ち、捨てることでモノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようとするものだと娘に教えてもらった。アラ還の娘も断斜離に励んでいるらしい。あふれるモノも心の混乱も、どこかで一度断ち、捨て、離れて、生き方を整理する必要がある、と思い至ったのだという。
「アラカンって、私は映画俳優の嵐勘十郎かと思ったよ」と言って娘に大笑いされたが、万里子は、そういう娘にこの言葉を贈った。
「要らないモノを削除することによって、本当に大切なモノが見えてくるよ」
コンサート終了後に近くのホテルで開かれたレセプションにも参加した。出席者はおよそ300名。さすがにこのときはイスのお世話になった。乾杯でビールを一口いただいく。おいしい!
第九を初めて歌う人も、合唱経験がないのに挑戦した人も、歌いなれたベテランも、すべての人が合唱をとおして一つのものを創り上げた充足感に酔い、会場の空気は華やかで濃密である。
大阪在住の指揮者のご家族も参加しておられたのだが、おばあちゃんは九十歳とのこと。あたたかい家族の肖像を見せていただけたのも嬉しいことだった。
指揮者の奥様ともお話する機会があった。
「皆さんと一緒に歌えてとても楽しかったです」
そうおっしゃったので、万里子はなんだか嬉しくなって、「ご主人はオーケストラを指揮し、同時に合唱まで指揮をされる。とても人間業とは思えません」と、思ったままを言ってみた。
「私もそう思います」
奥様は人を包み込むような笑顔でお答えになった。
「演奏会終了後、しばらくは抜け殻のようになってしまわれませんか」
と、万里子は厚かましくも言葉を続ける。
「そうなんですよ」
まろやかな笑みがそこにあった。
雲上人だった音楽界の人が少し身近に感じられた。これからも何か新しい発見があるかもしれない。恥ずかしいばかりの人生だけど、人生は面白い。米寿の感慨である。
(了)