回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第三章かげり編」
平成二十九年の春、現在筆者は先年の脳梗塞の後遺症による足のリハビリ中で苦労しているが名古屋駅周辺の変わりように驚いている。今までは駅の東側、名古屋で言う駅前の摩天楼化が驚異だったがリニア新幹線が近くなって来た現在、これからの駅西の変貌の仕方は興味深い。今、花の面では駅西の方がはるかに美しい。特に八重桜が咲きつつじが咲く頃駅西は花に彩られる。駅前にはほとんど花がない、ツインビルの電飾がなくなった今何か違った憩が駅前には必要だろう。
中村区にはいろんな顔がある。近代化された駅前とは別に西側には未だに影の一面が残っている。戦争という災禍をひきずっているし山口組の中心である弘道会本部もある。犯罪が多いと言われがちだが凶悪犯罪は意外と少ない。問題を抱えた国鉄が二十数億円の負債を棚上げし民営化され中部地区はJR東海に生まれ変わった現在すさまじい勢で発展して来た。今後もJR東海を中心として名古屋地区は発展して行くに違いない。
【ステーション】
菜種梅雨がつつじを濡らしている。向う側の道路はひどい時は三列もの観光バスが客待ちしている。駅西の内も外側も待ち合わせの人々で一杯である。バスガイドが行き先のプラカードを持ち、いそがしく歩いている。毎朝の見慣れた光景だ。駅は以前から待ち合わせに最適な場所だった。銀の柱、金の柱、壁画前、時計等いろいろ有った。人は集う。何の時もステーションは必ず利用の場所だ。出会い、別れ、幾多の再会の感涙や別離の涙を駅は忘れない。こうして駅を中心に人は集い出発して行く。汽車や電車、バスやタクシーを利用して。
飲食店も駅を核点に幾つも出来、沢山の人々を集めている。名古屋駅もそうだ。一日何十万人もの人々が行き交い食事をし、時には酒を飲む。喜怒哀楽も駅は知っている。名古屋ばかりではない。日本全国いや世界各地の駅で。時に映画にもなる。ドラマの場であるからだ。テルミナ、ステーション、ターミナル、スタシオン、いろんな言語で語られドラマは出来た。戦争に送り出す時、避難する時、就職の時、学校へ送り出す時、数限りない出発がある。歌も出来る。すぅーとメロディが浮かんで来る。人は駅での出来事は忘れられない。駅近くに宿屋街も出来る。こうして街は広がっていく。一夫の宿もこうして出来、大きくなっていった。
名古屋駅があったからである。時代と共に宿泊業界も姿を変えて行く。客の目的が変わったり広がったりするからだ。百貨店や量販店も変遷した。駅と共に商圏が出来た。デパートもツインビルに高島屋がオープンして様変わりした。ツインビルに出来た多くの飲食店やマリオットホテルも名古屋のホテル、飲食業にとっては影響の大きい出来事だった。なごや飯を食べさせる店も沢山出来た。きしめん、ういろ、守口漬だけと言われた名古屋名物も十指で足らない位になった。新しく手羽先、鰻のまぶし、味噌カツ、味噌煮込、名古屋名物は安価で取っ付き易く各地に広がり支店も出来た。
【バブル】
さて本題にもどろう。昭和六十年に年間六億円の売り上げになった一夫の宿はますます充実していった。だが盛夏の後忍び寄る秋の気配に気が付かなかった。日本の景気も潮目が変わったことに気付かなかった。それは田中首相がロッキード社から嵌められた事から始まった。薄氷が割れるようにみるみる氷は解けゆく。アメリカが怒ったのだ。怒らしてはならない相手に違いなかった。日本は三十年でそれを忘れてしまったのだ。ジャパンアズナンバーワンと浮かれていた日本に冷水が浴びせられ日本は二回目の敗戦を味わって行く。
初めは誰も気付かずバブルの美酒に酔い続けていた。政志が三十六才になった時宿は絶頂期を迎えていた。彼はホテル業界の風雲児と呼ばれ義父からも認められるようになって有頂天だった。彼は宿の三十五周記を盛大にやろうとした。彼の歴史は宿の歴史でもあり記念として残そうとしたのだ。取引先、顧客、旅行業者を集め盛大に祝った。一夫夫婦も大いに喜び美酒に一夫は一日酔っていた。海軍を終戦で追われ戦後の日本を生き抜き宿は三十五周年を向かえた。思い出が彼の脳裏を巡って酔いが心地良かった。
日本は焼ける木が終りがけに燃え盛るように最後に大きな柱を立て燃え上っていた。バブルである。地価も株価も毎日鰻上りに上っていた。浮かれた日本人の多くが毎日それを肌で感じのぼせ上っていたし、紙面やテレビもその話題で一杯だった。戦争の狂気を忘れたように経済の戦勝に酔いしれた。秋の気配が忍び寄っていることも知らず。のぼせ上り醒め易いのが日本人の特性だ。狂気の日々は続かないのも知らず。
一夫の宿にやってくる客もバブリーになっていた。金にいとめをつけず遊ぶ人々が増したのだ。どの会社も好景気で宴会の予算は上り、料理も高い物は活造りも追加で頼まれた。コンパニオンも多く呼ばれ、いろんなショーも頼まれた。酒は飲み放題が多くウイスキーはへネシーや高価なスコッチが。全てが狂っていた。ゴルフ場も会員権相場が上り新規のゴルフ場の募集は三千万円を超えるものが多かった。地価が上ったのでゴルフ場の三十万坪近い土地はそれなりの価値があると言われたのだ。仇花になろうとしていた。業火とも知らず人は熱狂に飛び込もうとする。誰もが経済の膨張に乗り遅れまいと日々を送っていた。昭和天皇が崩御されたのは昭和六十四年正月七日だった。宿は新年宴会時期でその日はキャンセルが二百人以上来た。 神国日本はやはり天皇の国なのだと思い知らされた一日だった。
政志は台湾に知人が多く出来、よく台湾へ行くようになっていた。ショービジネスは日本より台湾の方が進んでいたしテレビでビデオを見るのも台湾の方が早く政志は研修に行ったのだ。台北にあるショーパブを何箇所か回りタレントを見たりした。花蓮では山岳民族の舞踏と歌のショーを見たりした。台湾は食も日本に似ていて魅力的だった。友人に伴われて行った砂糖工場で振る舞われた料理の多さにびっくりし、仕事中も関係なく出された台湾酒に台湾流で乾杯した。結婚十周年も家族旅行で台湾へ行った。一番下の息子が花蓮から台北へ帰る電車で、日本語でこの子が悪いと叱られたりもした。台湾人が山岳民族と話す時公用語が日本語である事を知った。台湾には日本統治の影響が色濃く友好的で日本語もよく通じた。
青年会議所の活動を政志は積極的ではなかったが腕白相撲には一生懸命に協力した。一代目貴ノ花の息子二人が小学生で腕白相撲に参加し活躍していた頃でこの年からJCの協力事業の一つになって行った。彼は中小企業家同友会の北中村支部長もして何かと交友関係を築こうとしていたのだ。旅館組合の青年部では急に青年部長の千歳楼の桜井氏が止める事になり、政志が愛旅連青年部長になった。つくば万博が関東で催され政志は家族を連れ上京し、つくば万博へ行った。東京のホテルが満室でパチンコ屋の上のビジネスホテルへ泊まり翌日はつくば近くの急造の仮設ホテルでひどい目に遭ってしまった。彼はこの年JCで一緒だった杉山氏と二十一世紀の駅西を考える会を立ち上げた。二人とも駅西生まれで差別を受け、駅西をどうにかしようとの思いが強かったのである。二人はまず駅西前の三重銀行内で写真展を開いて昔の駅裏を見せることでアピールしようとした。数人の同志も集まり会は始まった。
この時期人件費が急上昇し経営を圧迫し始めていた。人不足に各企業は悩み人件費が上ったのである。人件費が上がると全ての物価も上る。一夫の宿の給与も上り募集しても人は集まらずパートの時間給も上り忘新年会の繁忙期は一時間千円を越えた。仕事はあっても人が居なくて仕事が回らないそんな状況がどの会社でも存在するようになった。
【ホテル反対運動】
東急ホテル建設の話が持ち上がり愛知県旅館組合が反対運動を起こすことになり神谷理事長の下会員が集まり集会を開いたが大口副理事長が東急ホテルの専務と話し合いを進め客室を減らすことで妥協してしまい、政志は少し不満を持った。東急ホテルは女子大小路に建築が始まりその後広小路にあった朝日新聞跡にヒルトンホテルが出来、やたらとバイキングで昼夜集客し名古屋のホテル事業はヒルトンを真似バイキングを売るようになり飲食業界全てに影響を与えるようになった。ヒルトンホテルはアメリカ式営業方法で推し進め比較的のんびりした名古屋のホテル業界に大きな刺激を与え各ホテルは稼働率アップと売上高を競うようになり旅館はなかなかそれに連いて行けなくなった。キャッスルホテルは乗り遅れウエストンと提携しヒルトンホテルを追うようになる。
一夫の宿にもビジネスホテルと旅館の良い部分を持つクラウンホテルというライバルが出来、農協観光から送客の多かった一夫の宿はクラウンホテルに客を奪われるようになった。客のニーズは、客室は個室で宴会は和室でという風に移行した。その後クラウンホテルは温泉を掘り名古屋市内では珍しい温泉型のホテルとなりユニークな存在となり一夫の宿を脅かした。
JCや旅館組合はオリンピック名古屋誘致に尽力したが京城に敗北、名古屋は一時期無気力になってしまった。京城はキーセンパーティ土産等でオリンピック委員を接待し名古屋は負けたのだった。桑原県知事派が買い占めた東部の丘陵地帯は売れ残りその後の愛知万博を待たねばならなかった。オリンピック誘致に失敗した仲谷県知事は辞任し、その後名古屋球場の社長となり変な事件に巻き込まれ自殺してしまう。名古屋の観光もこれにより立ち遅れることになった。
一夫の宿は梅田板長がうまく料理をこなし、大きな団体も扱っていたが客の中から料理の不満が噴出し政志と対立した梅田板長はとうとう去って行き替りに伸和調理師会から名村板長が来た。名村板長はわたなべ旅館の板長だったものを一夫が引き抜いた形となった。名村板長は古い形の板長で手の遅い男でその後政志を悩ませるようになる。段取りが悪く大きな団体客に料理が遅く客を逃がすようになったのである。クラウンホテルの出現や板長の交替で営業力を失いつつあった一夫の宿はその後ゲリラ戦のような企画頼りになって行った。
【外タレ】
六十五才を過ぎた美代子は急に体力がなくなってゆき宿とは別の居住空間を求めるようになり南山町へ住みたいと言い、南山短大横にある一軒屋に住むことになり移って行った。一夫と二人の生活は軍隊の官舎以来の事だった。一夫夫婦の心のすきを突くように経理のAが売り上げを使い込み二千万円程の空をあける事件を起こした。一夫と政志の間にも少しずつずれが生まれていった。
政志はパブシアターアバのショーのタレントを集める為にフィリピンのマニラでオーデションを行いダンサーやシンガーを選びに行くようになった。フィリピンの大統領はマルコスで夫人はイメルダだった。フィリピンの貧しいタレントの家族を思い日本へ出稼ぎに来るのもかつての日本と同じで一族の生活の為と認識し日本の豊かさの裏返しの薄っぺらに驚いた。アジアの貧しさと日本の豊さのギャップは何処から来るのか考えるようになった政志はいずれ小説を書きたいと思うようになった。アジアは揺らいでいた。韓国では光州事件がベトナムではアメリカが負け中越戦争が起こる。
カンボジアではポルポトが大虐殺を行い中国では紅衛兵が造反有理を叫んでいる。毛沢東はアジア人全体に何らかの影響を与えずにはおかなかった。アジアばかりではなく、中南米、特キューバや南米にも。政志は毛沢東の矛盾論や文芸時評を読み多くの詩に触れた時、熱い毛沢東の志を感じ青春を思い出さずにはおかなかった。彼の時代の熱気は総じて連合赤軍の浅間山荘で終わってしまったが熱い中国のマグマは深く滲透し狂気まで生みポルポトのような狂信者を生んでしまったのだろうと政志は納得した。
政志もアジア人の一人に違いなかったのだから。彼の経営するパブシアターへ来ていた台湾の娘達も造反有理は知っていた。ツーハンユーリと政志がへたな中国語で言うと笑って聞いていたのが印象的だった。政志はアジアを考えるようになった。政志の時代は大亜細亜を求めた一夫の世代の熱気を少しは受け継いでいるのだ。日本の敗戦でアジアは自国で独立を成し遂げなくてはならなくなった。事実そうなっていったが、貧しいアジアはいろんな誤謬を犯しながらも独立を達成していった。
ベトナムは脂っ気の全くないホーチミンの下、アメリカに勝ち統一ベトナムが出来たがアメリカと戦う時旧日本軍人が顧問としてゲリラ戦を教えた事を忘れてはならない。アジアには古い日本の息吹が死滅せずに生き残り影響していたのだ。日本で独立の気運を学んだ若者達が故郷の国に帰り独立戦士として戦い独立を成し遂げて行った。スカルノもマルコスもアウンサンもそうだ。日本は逆にアメリカに依る民主主義を取り入れ繁栄もしたがいろんな矛盾も生み続けた。
あさま山荘事件を考える時、政志は名古屋人として東海高校の加藤兄弟が参加していたことが忘れられない。旧弊な名古屋に加藤兄弟が育ったことは意外に思えたのだ。JCでは、少し違った動きがあった。JC全国のトップに立った麻生太郎が転向右翼の鈴木清純を使い天皇主義を浸透させようとしたことがあった。政志は反撥したがJCは何故か首相の考え方の手先になる場合がある。オリンピックモスクワ大会ボイコットの時もそうだったしグローバリズムの先兵になろうとした時もあった。
JCは名古屋で世界会議を行うことになり政志も広報として手伝うようになった。政志はJTBの中部地区の勉強会の一員に選ばれ、各地の宿屋を研修するようになった。中部地区は広い。東は静岡県、西は滋賀県、北は富山県までと大きな観光地があり全国でも有名な宿屋がある。勉強会の参加者はお祭り広場でという催事を旅館に取り入れた山代の百万石、テレビで全国一の旅館になった能登は和倉温泉の加賀屋、舘山寺のロイヤルホテル、伊豆長岡の南山荘等であった。いずれも大旅館で売り上げも大きかった。小旅館としては野沢温泉の住吉屋、諏訪の緑水荘等があった。政志の宿は都市旅館として一軒だけだった。メンバーは各旅館を泊まっては会議を持ち政志には非常に勉強になった。その後芦原温泉の八木旅館が加わった。
【胆石】
旅館経営に熱中するようになった政志の体に異変を感じるようになったのは三十五歳を過ぎた頃からだった。初めは蕁麻疹から始まった。最初は肉類だけだったが段々水にまで反応するようになった。それから腰痛で月に一度程体が動かせなくなった。なかなか病院でも何が原因か判らなかったが近くのかんやま内科の先生に診てもらったところ、病状を言っただけで判ったようで胆石ではないかと腹にゼリーを塗り音波を当てて胆石を探り当ててくれた。完山先生はその後政志の弟の保夫が日赤の職員でありながら日赤でも判らなかった血栓を見付け命を助けた名医であった。完山先生は何時でも患者の往診に行く忙しさで命を縮めてしまったが問診だけで大概の病気を当てる昔ながらの名医だった。
政志は思い切って手術をしてもらうことにした。県立がんセンターで再度診断を受けた。胃カメラを飲みバリュームで胆嚢を診てもらった時、手術の担当医が胆道に石があったら諦めてくれよと淡々と言った。まだ石を破裂させる技術も取り出す技術も確立されてない時代で胆道に石が出来ると死と直結していた。政志は三十八歳で生を諦めるのかと妻や子供達の顔が浮かんだ。いつかは生を諦める時が誰にも来ることは解ったがまだ少し早過ぎると手術に賭けた。 彼は入院中になかなかまとまって時間を取れなかったのでフィリピンの出稼ぎで来る娘達の小説を書こうと思った。宿が暇になる正月明けに入院した。座って半畳寝て一畳の病室で入院生活が始まり原稿用紙に向き合った。三十歳から夜の太鼓という同人誌に詩や小説を発表していたし小説の材料は揃っていたので二週間程で百枚位書き手術に臨んだ。入院中は個室ではなくずっと退院まで大部屋で過ごした。個室は深夜バタバタと音がし家族の泣き声に変わる。病室で入院患者が死ぬ。それはがんセンターでは日常的だった。まだがん研究は未開発で五年生存率は少なかった。県の病院は古く設備も整っているとは言えない時代だったのである。幸運にも政志の胆道に石はなく胆嚢だけを取るだけで手術は終わった。流石に、術後は書く力はなくその後は階段を歩くなどして体力強化に取り組んだ。
病室からは小牧空港を離着する飛行機がよく見えた。丁度、飛行航路になっているようだった。小牧空港のずっと手前に森が見えた。松坂屋の株買収で悪名を馳せた伊藤富士丸弁護士邸の大きな敷地だった。一月足らずの入院だったが六十キロあった体重は五十キロに落ち体力も失せていた。初めて風呂に入れてもらった時が生き返ったようで感動的だった。婦長の厳しさが印象的で、死を見続けている者の峻厳さと納得した。見舞客と喫茶室へ行くのが楽しみでもあった。手術待ちの患者達の多くも喫茶室へ来ていたがレーザー光線の為だろう顔の至る所に黒い線が入っていた。入院中にも会社の給料計算や袋を打ち出す作業からは解放されず一旦外出届けを出し半日帰社して作業した。コンピューターを動かせるのは政志しか居らず外出時間が届けより遅くなり婦長に随分叱られてしまった。
退院した政志の人生観は少なからず変わっていた。今までの行け行けの力はなくなり人生どうせ起きて半畳寝て一畳でしかないと思うようになっていた。これから体力回復に二年程要することになる。
【北方領土】
青年会議所で日本JCに出向することになっていた政志は北方領土返還で日本中のメンバーに出会い二回根室に行くことになった。日本は金余り状態、ソ連は国力が落ちていた。歯舞、色丹二島だけに限れば何兆円かのお金さえ保障すれば返還可能な時代でもあった。ロシア帝政末期共産主義運動の高まりに金に困ってアラスカをアメリカに売ったようにソ連が国力を失った時にチャンスは有ったと政志には思えた。しかし日本は四島返還に拘り続けそれ以後も返還は不可能になっている。
会議中、夜は花咲蟹が食べ放題だった。特に味噌の部分に日本酒を混ぜて食べると美味で政志は舌鼓を打った。運動はノシャップ岬の先端まで行って島影に向かって帰せと叫ぶだけのものだったが先端にある民宿で出されたタラバ蟹の活けを冷えた海に泳がせたのを食べる醍醐味があった。根室のメンバー遠藤氏の店で出された秋刀魚のリュウベも美味しく臭みもなく食べられた。花咲港は海猫が舞い港で大きな若布が捕れた。花咲蟹は現地で食べるべきで空輸しただけで味が落ちる鮮度が大切な蟹と理解した。二回の根室旅行はJCの楽しい思い出を政志に残した。
一月に一度がんセンターへ診察に通うようになった政志だったが、胆嚢を手術した患者は三分の一が肝臓が悪くなる因果関係があり心配したが政志の場合悪くならず済んだ。ただ太り易くなり体重が増すと種々の病気が出てくると言われ注意していたが医者の言う通り段々と政志の体重は増して行った。元の六十キロになるのに五年を要しなかった。政志は県の旅館青年部長であり東海三県の総会を蒲郡のふきぬきで開催した。創業者の広本さんが出席し盛大だった。
その時までに政志は愛知県内の部員をなるべく多く声をかけ集めようと尽力した。名古屋だけの青年部から本当の意味の愛知県の青年部にしたかったからだ。日間賀の中山氏、三谷の明山荘の杉山氏、一番若い幡豆の加藤氏、豊田市内の宮澤氏、山内氏等が手伝ってくれるようになった。青年部の総会は毎年開催され参加者を集めるのに苦労していた。東京で開催されることが多くその頃長野県の藤井荘の藤沢さんが全国会長をやっていた。
藤沢さんは旅館の革命児で会員に新鮮な風を送っていた。彼の影響力は強く今の旅館の基を創ったような人だった。宝石箱のような旅館創りが彼の思想で今でも通用するだろう。彼は脳の病気で若くして急死してしまったが後進に残したものは大きかった。全国にテーマパークが出来始め東京地区に出来たディズニーランドの集客力があり全国から客を集めるようになっていた。青年部総会の行なわれた九州の嬉野温泉和多屋別荘の小原さんも小さなテーマパークを開いたばかりで見学に行った。小原さんは五十億の大型投資でテーマパークを造り百億の借金に苦しむことになる。
愛知県では知多半島がブームになっていた。魚友やまるはが名古屋から客を集め旅館では鯱亭の渡辺氏や三船の中村氏が活躍するようになっていた。名古屋から一時間程で車やバスで行ける知多は手頃な海沿いの観光地で海があり魚も旨かった。海水浴だけだった客が活魚を求めバスを連ねたのである。
【南山町】
南山町に住むようになった一夫と美代子はゆとりが出来、人生を楽しむようになっていた。中村区則武と昭和区南山町では環境も文化度もまるで違っていた。話す言葉や話題もまるで違う。中村は古い町で古色蒼然としている。南山町は高級住宅が多く文化の臭いにあふれている。敷地もどの家も広く木々や花にあふれている。古い家屋の立ち並ぶ中村とまるで南山町の佇まいは違う。新しい町と農家から始まった中村とは上町と下町の違いがあった。一夫は杁中から行くのではなく石川橋から山崎川を上る形で家へ向う道を通ったので特に閑静な佇まいは長く暮らした則武とは違った。
南山町には道三窯や美術品を売る店、西洋家具を売る店、小粋なレストランが点在しちょっと立ち寄るには最適だった。六十才を過ぎ花に囲まれ生活したいと望む美代子は戦争や商売競争、育児で忘れていた青春というものを取り戻そうと一夫を連れそぞろ歩こうと南山町を巡ったのだ。山崎川添いは桜の時期は特に美しい。師範免許を取った西川右近の家がある。借りた家はそんなに立派とは言えなかったが南山短大横で秋にはどんぐりが落ちる別天地だ。振り返れば忙しい人生を送り続けていて後を見る余裕等なかった。
商売は政志夫婦に任せてもやって行けるようになっている。自分達夫婦は残りの人生を楽しんだ方がいいと美代子は考えるようになっていた。一夫の方は美代子とは違った。彼の年は三歳近く美代子より若く体力も海軍で養った為か強く自分では年より二十才は若いと思える。彼の世代は仕事が人生そのものでそれ以外は遊びで罪悪感さえ覚えるのだ。彼は故郷で小さなペンション経営をと考えるようになっていた。
美代子は宿では新しい習い事として謡曲を習い始めていた。特に親しい従姉弟の駒瀬良治の三男直也が東京芸大音楽学部邦楽科を卒業し十年の内弟子を経て観世喜之門下で能を教え始めていた。独立したばかりで生徒はなく白羽の矢が立ったのが美代子で名古屋の一番弟子となった。政志も房子も同じく弟子になり共に宿で習うようになっていた。茶道は表千家、華道は村雲流、日本舞踊は西川流、能は観世と美代子は習い事の多い日課を送るようになった。政志たちも同じく多趣味になって行った。
政春は美代子の甥ながら一才年上で年が近く幼い頃から良く気が合い、仲が良かった。政春は中国戦線で七年兵士として働き終戦後肺病で五年病床に伏せたがその後回復して中学の同級生が興した新東工業で部長をするようになっていた。その長男が正憲ことマー坊で政志の朋輩だった。政春には妹が一人居て県警捜査一課に勤める富田愛治に嫁いでいた。愛治は海軍では潜水艦乗りで水上機を乗せた最新艦に乗っていた。彼は人情家の部分があり、ある事件で裏取り捜査で犯人を連れ歩いている時、犯人を信じ過ぎ逃げないと信用したことから手錠をつけたまま犯人に逃げられるという失敗をし、出世の機会をそれ以来失ってしまった。
夜半にやって来るマスコミの取材も女房のきぬときちんとこなしていた。マスコミの受けも良かった。その子の幸治を政志は可愛がっていた。マー坊の弟直也が東京芸大の音楽学部邦楽科を卒業し十年間の内弟子も終り独立して能を教える立場になり親の良治が美代子に生徒を紹介してくれるよう頼んだことから面倒見の良い美代子が自ら生徒になり政志や房子も同時に否応なく生徒となった。能の演目は歌舞伎の原型が多く平家物語から来ているものが多く政志には違和感なく入って行くことが出来た。政志は平家物語が好きだったのである。世阿弥観阿弥の文章もよく理解出来た。その後政志と房子は六年程能を習うことになった。
一度上京し直也の高輪プリンスホテルでの結婚式に参加した事があった。他とは違った婚礼だった。無形文化財や国宝の能楽師が多く参加し芸道を厳しく言い通常の幸せとか赤ちゃんのこととかは全く出ず、ひたすら芸道の道が大事と連呼する婚礼だった。プロの世界の厳しさを教えられ芸術を求める人達の一途な生き方が政志は分った気がした。
昭和六十年を過ぎ一夫の宿の売り上げが停滞するようになった。下がりはしなかったが五億数千万円から六億円の間を行き来し政志が望んだように七億の売り上げには行かず土地を買い増した事や投資のツケがのしかかる事になった。返済が厳しくなり折り返し折り返しで資金を借りる事が続くようになった。反面地価が上り続け航空会社がホテル用地を探すのに一夫の宿が狙われ坪一千万円総額五十億円ではどうかという話が来たりし今までの経済観念が狂い始めた。日本経済も完全にバブル状態に入りおかしな時代が始まった。日本経済新聞やビジネスサテライトも煽り立て日本全体が踊り出し、翻弄されるようになった。
テレビでは静岡県熱川温泉の旅館の物語「細腕繁盛期」が視聴率を集めていた。
【裸文化】
南山町に仮住居するようになった一夫は満足の行かない己を治められなくなっていた。彼は借り屋の経験がなく、賃貸に住むのに慣れなかった。六十才を過ぎ思うことは故郷の事だった。郷愁を覚え始めたのだ。錦を飾って故郷へ帰る、それが彼の時代の理想であった。遠い未来の事等どうでも良かった。残された人生を今まで通り燃焼させたいのだ。彼は年よりずっと若い自分の体力を知っていた。まだまだやれる、隠退など出来るもんか、再び自分の理想の宿を造ってやる。そんな欲望にあふれた。祖父以上に大きな建物を造り故郷に錦を飾るんだ。その欲望は日増しに強くなって行った。彼は宿を始めてから六十才までに二十回程の増改築を繰り返し、成功してきた。次から次へ移る時代のニーズに合わせ戦って来た戦士でもあった。勝者だった。
この頃メガバンクの体質が変わり始めていた。資産が脹れあがった企業に金を貸し付け、利益を上げようとし始めた。金余りの時代でもあった。狙いは大きな資産を抱える六十才過ぎの経営者に当てられた。一夫の宿にも今まで鼻も引っかけなかった住友銀行名古屋支店の副支店長が相続税対策の先生を伴って来て融資を頼んで来た。今まで取引もない大銀行が飛び込みでやって来て金を借りて下さいと言うのである。世の中の動きは激しいと一夫は思った。他に東海銀行も同様の動きをした。その頃一夫の宿はある事でトラブルのあった商工中金から大垣共立銀行に大方の借金を移していた。一夫や政志はこの頃から銀行対策に悩むようになる。
時代は常軌を失った動きを始めていた。ゴルフ場の相場価格が暴騰し新設ゴルフ場は三千万円を超える所もあった。名門ゴルフ場の権利は、一億円を超える処もあった。世界も狂っていた。カジノ経済が始まり通貨がまず狙われた。メキシコがやられ、タイやマレーシアがやられた。投機筋が自由に通貨を売り買いし相場を動かすのである。彼等はその国に住む人など関係ない。通貨を上下させるだけで利益を上げるのである。狙われた通貨はその国の経済を左右しその国の生活さえ危うくする。兆単位で動かせる力を持つ投機筋は狙った国の人々の生死さえ左右する。朝百円で買えたものが夜には千円になってしまう。そういうことが日々続きあっという間に経済破綻する。
当時のマレーシアの大統領マハティールが怒って「これ以上通貨をもてあそぶと死ぬことになるぞ」と言い放ったことがあった。政志はルックイーストを唱えたマハティールをアジア一優れた人物と尊敬していた。
メガバンクの融資申し込みにより一夫は現実に故郷にホテルを造ることを考えた。美代子は夫の考えを又道楽が始まった普請道楽ぐせが止まらん人だと呆れていた。政志は四十才になりJC卒業が近づいていた。この頃JCの会員の遊びが派手になっていた。バブルで世の中が狂い滅茶遊びが流行していた。繁栄の後に文化の爛熟期が来るように。人は狂い性も乱れ種々の異様な花々が咲き乱れる頃になる。
週刊誌はヘアーヌードが各誌を飾り巷は不倫ゴッコ、テレビは政志の知り合いの天野氏が考えた乳房の小さい若々しい女性で兎ちゃんが「効能は」と温泉をはやらせ日本中が裸であふれた。アメノウズメが天照の岩戸から出て来たのを祝い裸で踊り祝ったのと同じで日本は裸文化がずっと生き抜いて来たのだ。三河の温泉にはスーパーコンパニオンが出現し瞬く間に浸透して行き普通のコンパニオンでは客を満足させなくなった。こうして性文化が世にあふれJCにも津波のように押し寄せて来たのだ。JCのメンバーは大阪からは日本人のふりをした朝鮮人の阿野スキャンダルを東京からはロマンポルノの女優を呼び派手に座敷で遊んだ。内容は書くのに憚れるので、遠慮するがチップが乱れ飛びまさしく乱痴気パーティだった。政志の宿も加担した。遊びを提供するのが宿屋の使命であると割り切った。バブルの徒花でこうした遊びは行なわれバブル崩壊と共に消えて行った。
この時期名古屋中にいろんな風俗店が街を飾った。駅西も風俗街となって行った。スーパー温泉が賑わうようになったのもこの頃からだ。温泉と風俗店、日本中が裸文化の復活に雀躍したのだ。健康ブームもやって来てカロリー計算がレストランでは必要になった。
【ファミレス】
中村区役所近くにスカイラークとディニーズが出来、一夫は一家で出掛けるようになった。ファミリーレストランは手頃で家族中楽しむ店造りがしてあり日本中に出来て行った。ほかにも回転寿司チェーン、ラーメンチェーン等が出来、日本中に支店を造り日本の食を変えていった。チェーン店が出来る影で昔ながらの店は滅びる運命にあった。
こうして政志はバブルの絶頂期に青年会議所を無事卒業した。十年間のJC生活では沢山の友人も出来たが一番すごい男と思ったのは同期入会のサンデーフォークの井上氏だった。政志より四才ほど年少だったが目のつけ所が他とは違った。とかく入り込めない興業の世界に入り若い新人シンガーやグループを育てチケットぴあの基を創った。三十代の若さで死んだが仕事がいそがし過ぎインスタントラーメン生活が彼の生命を縮めたのは誠に惜しかった。
平成二年にバブルは弾けた。まるで風船が膨らみ過ぎ最後に爆発するように。
【平成】
バブルが弾ける前年一夫は故郷に客室十一部屋の小さなホテルを一億六千万円投資して創っていた。お金は名古屋の本館を担保に二億四千万円までの返済はいつでも良く利子のみを払っていくというゆるい融資だった。住友銀行名古屋駅前の宮崎副支店長に依る融資だった。当時の支店長がバブル崩壊直後に殺されたが、その直属の副支店長で事件後別会社クオークの部長に移動されクーポンの精算を依頼してくれ、政志は再び会うことになる。別の意味で戦友であった。各銀行は融資合戦をしており随分ゆるやかな融資があったのである。
昭和天皇は日本の浮沈を見続け、自らも幾多の悲運を見続け戦後は日本中几帳面に巡行を行なった言葉では言い尽くせない人物だった。彼は独特のキャラクターで戦犯になることもなく乗りきり国民にも愛され続けたが長い歴史を持つ天皇の中でも稀な存在だったろう。彼の死は日本には大きく、その死以後日本はいろんな業にまみれることになる。今までパンドラの箱を空けずにいたものが開いてしまったのである。年号は昭和から平成に移った。
一夫や美代子の人生にもまもなく不幸がやって来た。一夫の故郷に造った小さなホテルは文化的で土岐市には珍しい施設でよく客が来た。近くの企業が接待に使ったのである。美代子の理想花に包まれたホテル。二千坪の敷地に建物百五十坪あとはほとんどが庭で季節ごとの花が咲いた。それは猩猩袴の群生から始まった。猩猩袴には花の中に星空があり小さな花の集合が宇宙を創った。捩花や土筆が土手を飾り花の息吹を感じさせ雪柳へと続いた。雪柳はみごとな枝をなびかせ枝こぶしや桜の開花を待った。五月になると山つつじが輝き赤や朱や桃色の爆発を見せ種々の花々が咲き乱れる春爛漫の季節となった。
水が流れる所に咲く春蘭や二人静は可憐でそこには山菜も育った。六月から初夏に移ると虎の尾や螢袋が咲きどんな器にも活けることが出来た。夏にはまむし草や利休梅が咲いた後大きな向日葵や芙蓉が太陽に向って誇らしげで夏の終りは曼珠沙華が真紅に燃える。美代子は自然に咲く花の他に二反程田に菖蒲を咲かせ花と戯れ自分の晩年を過ごそうとした。施設も食堂に暖炉をヨーロッパから取り寄せたものを使い、他に合掌風の造りには囲炉裏と桧風呂を用意した。外に日本庭園と池を配し鯉を泳がせた。茶室も造り都忘れと名付けた。
一夫や美代子の造ったホテルは理想を追い過ぎた趣味的要素の多いホテルで利潤を考えた施設ではなかった。投資の割には売り上げが少な過ぎるホテルで名古屋の本館に頼らねばならない体質のものだった。一夫や美代子が何人かの従業員を連れ去った後、政志は両ホテルの経営に苦しむ事になった。特に一夫夫婦の新しく造ったホテルの売り上げは年に二千万円弱位しかなく足を引っ張るようになった。
【里美の死】
一夫夫婦の岐阜へ嫁いだ長女里美はその後どうなったか。里美は男の子二人を県立岐阜高校に行かせていた。二人とも里美が幼い頃から公文で教育したことから優秀だった。この頃里美は更年期に入り健康特に精神が安定していなかった。夫との関係もうまくは行ってなかった。前年新しく土地を買い事務所を新設しコンピューター販売に力を入れた事が重く里美に伸し掛かっていた。営業を十名程入れ互いに売り上げを競わせたが当初は順調に売り上げが伸びたものの一旦伸びが止まるとなかなか思った数字はいかなかった。一億円の投資の返済や利子は待ったなしでそれが余計に責任感の強い里美を苦しめるようになった。
長男篤志の大学受験と重なり頭が一杯になる程悩むようになった。勧められた川柳で心を紛らそうとしたがなかなか心は収まらなかった。仕事やゴルフ等趣味に没頭し愛の失せた夫の冷淡さに自殺を考えるまでに気は落ち込むようになった。里美は何とか自分の魔の空間から逃げようともがいたが、もがくほどに輪が広がる水のように、とりとめもなく更に深く沈み込んで行ってしまった。息子の受験の為にと勇気を振るって生きようと思うのだが泡ばかりとなった水にはどうしようもなかった。精神科にも何度か訪れ薬を処方してもらったが逆に不眠に襲われ悪い方向ばかりを考えるようになった。里美は生を持て余しただ逃げたくなった。
死の前日夫がゴルフに行くのに付いて両親のいる故郷の下へと行った。別れを言う為ではない。ほんの微かな生きる為の希望を持って。里美は故郷の生まれだった。三才足らずで名古屋へ親と共に出たので思い出はないが空気感だけは残っている。しかしすべては空だった。もう何もかも虚しく思えるのだ。親との会話も。
美代子は里美の体から生の息吹が失せているのを直感した。一夫は少し鈍感で気が付かなかった。まさか娘が生を絶とうとしているとは思い付かなかったのだ。故郷での会話が里美の生きている間の最期となった。
翌日の早朝五時に珍しく政志は目を覚まし呼ばれるようにホテルのフロントに向かった。
政志がフロントに着くのと電話が鳴るのと同時だった。電話を取る。向こう側から里美の義姉の上ずった声が聞こえて来た。
「里美さん、今岐阜病院に運ばれました。生死は分りません、とにかく来て下さい」
政志は嫌な予感にとらわれた。姉の精神が弱っているのは母の知らせで知っていた。「チャーもう駄目だわ」、そんな母の言葉が共鳴し心臓が高鳴った。政志は急いで着替え、車に乗り電話をしておいた弟の保夫の家で保夫を拾い、岐阜へと走らせた。まだ朝早く一時間ほどで着くことが出来た。
丁度病院の前を通った時、棺を乗せた霊柩車を見た。丁度棺を乗せている処だった。政志は多分姉のだろうと直感した。政志は病院を通り越し、五分ほど離れた里美の暮らす自宅へと向かった。彼が着いた時、もう姉の亡き骸は自宅に運ばれていた。義姉が里美の唇に紅を塗っていた。里美の息子達が寄って来た。二人とも茫然とした顔付きだ。政志は里美の額に手を当てた。まだ温かかった。生を失って間がないようだ。保夫に温かいぞ、手を当ててみろと言ったが弟の保夫は怖いのか手を出すことはなかった。里美の瞳からは何故か涙が流れ潤んでいた。
義姉が淡々と死に化粧を施している間に二人の息子が腹の空いているのに気付き弟と共に近くの喫茶店へ連れて行きモーニングを頼んだ。政志はコーヒーだけを飲みパンや果実等は二人の里美の息子達に食べさせた。二人は腹が空いているようでパクパク食べた。
家へもどると姉の死に化粧は済んでいた。義妹が里美の手を切ったのであろう安全カミソリと簡単に便箋に書かれた遺書を持って来た。遺書にはお扶けマンの父が最後は、扶けてくれなかった等と書かれ、夫や息子その他の人の事は書かれていなかった。
里美は手を切り風呂で血を出そうとしたが適わず首を吊ったものだった。政志には最期の情景が浮かんで来た。父母や息子たちの事を思い泣きながら首を吊ったのだろうと推測出来た。
一時間位経った頃一夫や美代子が虚ろな表情でやっと着いた。政志は保夫と共に一旦名古屋へ帰り着替えと用意を整え再び岐阜へ向った。その夜は会館での通夜である。あわただしく時は過ぎて行った。
次の日は葬儀である。政志も追悼の挨拶をした。里美の親友の中日新聞のオーナーの娘加藤さんと息子の篤志がやはり追悼し加藤さんは美しいままに逝った篤志は価値観の違いに苦しみ死を選んだと立派な言葉で母を送った。
岐阜城下にある焼場へ行ったが政志は父母に頼まれたにもかかわらず姉の骨を拾う事は出来なかった。同腹の死は自分の死と直結し自らの骨を拾うようでとても同席出来ず焼場外にある木の下で姉との思い出を辿っていた。泣けてしようがなかった。
里美は四十五歳で政志は四十二歳だった。
里美の死の影響は大きく両親はじめ政志や保夫にもダメージを与えた。一夫は娘の死が今まで兄妹達の死よりも最も悲しかった。美代子は余計花に逃げるようになり押花の絵に凝ることで忘れようとした。政志は毎晩眠剤をビールで飲むようになり保夫は酒に溺れた。篤志、匡志兄弟は母の死に負けず勉強に励んだ。翌年篤志の東大受験があり見事ストレートで受かった。政志の長女奈々子も信州大学へ入学した。親戚一同里美はどうして半年待てなかったのか、と悔んだ。
平成二年の春、風向きが変わった。
恐ろしいほどの下げが始まった。株も会員権も土地も下がり続け日本経済はすべて狂った。あれほど自身にあふれていた日本も首を切られた武士のように力を失って行き銀行は態度を変えた。政志の近くでは三枝会計の三枝先生が言ったように株券や会員権はただの紙切れになって行った。
日銀の総裁が暴騰した物価を氷詰めにした事が余計全てを駄目にしてしまった。血が通わない生き物のようにゾンビとなった日本経済は迷走し続け何処へ漂流するか分からなくなってしまった。(続く)