達磨の匕首と新鮮な目

 人は時に歩行能力を突然失うことがある。事故による場合、先天的に歩行出来ない者もいる。私の場合は脳梗塞の為に歩けなくなった。三年前に私は大腿骨骨折で入院、手術後リハビリで二カ月ほどで歩けるようになったものの、三カ月後に脳梗塞の為に再入院、今度は五カ月加療したものの歩けるまでには至らなかった。
 脳の病気、特に血管の詰まる病はどの機能が奪われるか分からない。私の場合は言語と食、そして歩行困難となった。今でもリハビリを続け少しずつ色々出来るようになってはいるが、決して元にはもどらない。幸い私の記憶能力と思考能力は失われなかった。病後半年かけて初めて自伝を書いて幼少期からの思い出をたどったりした事が良かったのか。古いことはむしろ私の方がよく覚えていると自負している。
 私のような体になっても楽しみを何処かで見つけたいものである。私は書くことと描くことに今楽しみを見出している。ただ余り発表の場がない。病気以前の過去をすべて捨て去って来たのだからいたし方ない。新たな出会いを見つけなくてはならず旧友の牧野君に頼んだところ、寄稿を認めてくれた。私のような病になる人はこれから多くなるだろう。私はそういう人の為に少しでも役立って欲しいと考え、これから書いていこうと思う。そこで題を考えたところ、何故か達磨の匕首という名が浮かんだ。
 達磨とはダルマさん、目を見開いた何でも見通せる第四の目とも言うべきものを持った修行し尽くした禅の高僧、勿論浅学で修行の足りない私如きがおこがましくも名乗れる訳ではないが、こうして病をしてみるとかえって今までよりよく見ることが出来、又新鮮なのである。だからそういう意味で達磨をつけた。
 匕首は私はいつも天から匕首を突きつけられているのでお呼びがかかったら天へ行かなくてはならず、もう一つ感じたままに世に匕首を突き付けてやろうという批判精神からである。元来私は文学はNONを言い続ける行為だと思っているから死ぬまで批判精神を持ち続け社会に対して人に対して自分に対しても匕首を心に忍ばせて行きたいと思っている。

 六月二十五日の今日、サッカーのロシア大会で日本がセネガルと引き分けた。意味のある引き分けを独り興奮し見た後、妻と共に朝毎日行くことになっている生涯学習センターにある「まつぼっくり」という喫茶へ出掛けた。妻は徒歩、私は川崎の電動車イスである。川崎の電動車イスは体の動きにフィットしてなかなかの優れ物である。川崎とかホンダは企業として障害者向きに取り組んでいて良い。トヨタは経済力があるのだからもっと介護ロボットとか製品に力を入れて欲しい。
 聞くところによると、北欧の方がいろいろ進んでいるらしい。人に対して優しいのである。いろんな意味で日本は貧しいのだろう。従来日本は個は大事にされなかった。現在もそうでサッカー熱の間は本田、大迫、乾がもてはやされ、ブームが去ると冷やかになる。一時の大リーグの大谷みたいなものだ。怪我して休むともう話題に上らない。サッカー熱の間に忘れられているものが一杯あるのだ。
 例えばモリカケ問題、北朝鮮問題、その他あまたある。モリカケ問題は首相関連に依るものだから早く世間に真実を語り解決して欲しい。北朝鮮問題は日朝併合から逆上らなくてはならず日本の罪科を洗う時期なのだからアメリカべったりじゃなく日本として真摯に向き合って欲しい。

 今は梅雨明けが近い。昨日は雨に濡れる槿(むくげ)が真白い花を咲かせ始め次から次へと咲いて来る気配を漂わせていた。一昨日行った田舎の寺には夜になると螢が飛び交うことだろう。
 次の日私は生涯学習センターが休みなので、少し遠出して第一日赤の喫茶へ行く事にした。電動車イスで往復一時間半の行程である。勿論妻の付き添いである。喫茶室の座席や家に入る時などちょっとした介助が必要だからである。日赤の二階にある喫茶でアイスオーレを飲み帰りは昔よく行った中村遊郭の風情を偲びに行った。
 私の世代は売春禁止法施行以後なので遊郭で遊んではいないが、もと妓楼が宿屋に転業してからの宿屋仲間でどの店の経営者達も知っている。ほとんどの店は廃業したかマンション業に再転業したので余り残ってないが一番大店で構えも立派だった稲本が壊すというので見に行ったのである。稲本はかっては上客が多く名古屋の経済界もよく利用し各客間は世界中の様式を取り入れ、この部屋はパリ風、こっちはペルシャ風といった具合に手が込んだ造りだった。職人も北陸からは塗り師を、また大工は何処々の誰それといった名工を泊まらせ造らせたと聞いている。私の幼少の頃、各部屋を写した絵葉書さえあった程である。
 私は壊される前に、ただずまいだけでも見たかったのである。北陸風の赤壁紅柄も懐かしかった。時代は変化してゆく。止まる事を知らない。ただ愛惜が残るまでである。ほっと生きている頃の女将だった母が浮かんだ。私の育った宿の外の朝顔の生垣は母が丹精込めたものだった。

 朝顔や 母の生垣 偲ばるる(二〇一八年六月 記)