連載小説「死神の秘密〈その2〉」

   2

 あれからもう随分経ったような感覚にとらわれるが、それはほんの数日前のことだ。
 窓の外を見ると既に昨日の嵐は過ぎ去って、雲ひとつない晴天が広がっていた。あのままずっと、永遠にいればよかったのにと今はもうすっかり姿を消した台風を憎む。
「学校、いかなきゃ」
 そんなにいやなら別に行かなくてもよかったのではないかと、今になって思う。だけどあの頃、小森豊は相当の負けず嫌いだったし、我慢強さだけが取り柄だった。
 身長も体重も学力も体力も運動神経もみんな平均で、何の変哲もない普通の男子高校生だったはずなのに、何がいけなかったのか。
「小森くん。どこいくのかな」
 人気者になりたいなどと思ったことは一度もなく、ましてや悪い意味での人気など、決して欲しくはなかった。
「なあ、無視してんなよ!」
 クラスメイトに突き飛ばされて、後ろのフェンスに背中をぶつけた。このくらいの痛みなどいつものことで、何も感じなかった。
「なんとか言えよ。つまんねえな」
「うっ」
 腹を蹴られる。いつものこと。
「今日、金持ってきたか?」
「ないよ」
 質問にそう答えると、「はあ?」と言われて、顔を殴られた。
「てめ、ふざけんなよ。金持って来いって言ったよな? とりあえず十万で勘弁してやったのに、ない。じゃ、すまねーんだよ。もういい。おい財布出して今あるだけの金、全部寄こせ」
 そう言われて、別のクラスメイトが豊のポケットに手を突っ込んできた。
「ちょっ。やめ――」
 逃げられない。後ろからはがいじめにされていた。
「うるせー。いいから寄こせ!」
 豊の抵抗も虚しく、財布は彼の手に渡る。
 力の差がありすぎた。相手は身長も体重も学力も体力も運動神経も豊より上だった。敵うはずがない。けれど、負けるのはいやだった。今日こそは、なんとかしなければと思っていた。いや、いつも思っていた。
「ん? おい、こいつこんなもの持ってやがったぞ」
 豊のポケットから財布を取り出したクラスメイトが、見つかってはいけなかったものを見つけてしまったらしく、それをあろうことか彼に渡してしまった。
 豊は、最悪の事態に陥ってしまった。
「これは……。なんだよ、小森くん。金は持ってこられないのにこんなにいいナイフは持ってこられんじゃん」
 彼はそう言って、不気味な笑みを浮かべる。
 それは。その果物ナイフは、護身用に持っていたものだった。彼に抵抗して、もし今以上にひどいことをされそうになったら、これで自分の身を守ろうと思っていた。
 だから本当はあんなことに使うつもりではなかったし、彼にとっても予期しない出来事だったのだろう。
 財布から千円札を三枚取り出した後、彼はナイフを財布に当てた。
「空っぽだからいらないよな。丁度いいナイフじゃん」
 彼がそれをどうするつもりだったのか、考えるまでもなかった。
 豊はナイフが財布の布を裂く瞬間、体中の全部の痛みを忘れて彼に飛びかかった。
「やめろおおお!」
 豊は叫んだ。
 その財布は、とても大切なものだったのだ。
 死んだ父親がくれた、最後の贈り物だったのだ。
「ちっ。なんだよお前。ただのボロ財布だろ」
 蹴られ、殴られながらも豊はなんとか財布とナイフを取り戻し、力なくフェンスに寄りかかりながら座り込んだ。
 もう心身ともに限界だった。
「行こうぜ」
 去っていく彼らの後ろ姿を見ながら、豊は細く息を吐いた。
「はは……。これって一応、勝ったって言えるのかな」
 そんな独り言を呟きながら、豊は財布とナイフを交互に見る。
 負けるのがいやだった。我慢していれば、いつかは勝てると思っていた。
「もう、いいよね。父さん」
 自分に負けるのが、いやだった。
「俺、頑張ったもんね」
 右手に握っていたナイフの柄に、力が入る。
「もういやだ。いやだよ、父さん。生きているのは、いやだ」
 ひどく、自分勝手だったと今は思う。
 ただその時は、父親の元に行けば楽になれると思ったし、自分なりに十分頑張ったから、父親だって許してくれると思い込んでいたのだ。
 豊は自分の腹に、思いきりナイフを突き刺した。何度も、何度も、何度も刺した。死ぬのはそんなに、楽じゃない。けれどもその日、確かに小森豊という人間は死んだ。

「何か悩みごとでも?」
 夜。草葉荘の屋根の上で寝転がっていると、突然シノがやってきた。彼女は死神の姿で、黒い羽をたたむとユタの隣に座った。
 見上げていた空は曇っていて、その向こうにあるはずの星たちは一つも見えなかった。
 ユタはずっと考えていた。小森豊のこと、そして梶川百合子のことを。方法は違っていても、やられていることは同じだ。あれは紛れもなくいじめなのだから、ユタは彼女の気持ちが痛いほどわかる。まるで生前の自分を見ているようで心苦しい。
「シノ。もし今、目の前に死のうとしている人がいたら、どうする?」
 ユタは、なんとなく尋ねてみる。
 シノは少し迷っている風だったが、こう言った。
「んー。自分が死神ではなかったら、助けます」
「死神だったら、助けない?」
「死神なら、その人が今死ぬかどうか知っているはずです。死ぬ予定なら、死んだ後に魂を回収するだけです。……間違っていますか?」
 シノの回答に、ユタは首を振る。
 間違ってなどいない。シノは正しい。では、間違っているのはユタの方なのだろうか。ミキとミナトは事情を聞いて協力してくれているが、それはあくまでユタを助けるためにしていることだ。百合子を助けるためではないのだと思う。疑心暗鬼すぎるのだろうか。
 百合子は今すぐに死ぬ運命というわけではない。なのに、こんなにも必死になって彼女を助けようとするのは、無意味なのだろうか。
「俺は一体、何をしたいんだろうか」
 ぽつりと呟く。
 百合子を助けたい。と思う気持ちは嘘ではない。今はしなくても、いつかは自殺してしまうかもしれないという不安。恐らくそれが、今の自分を必死にさせているのだろう。
「今したいことを、したらいいんじゃないですか?」
 知ってか知らずか、シノがそんなことを言う。
「え?」
 ユタは首を傾げてシノの方を見る。薄暗いけれど、すぐ傍にシノの細い足が見えた。
「一度深く考え込んでしまったら、動けなくなります。ならば、今したいって思うことだけ真っ直ぐに見て、それをすればいいんじゃないですか? ユタくんは、助けたいんでしょう?」
 シノに言われて、気付いた。
 何をしたいんだろうじゃない。どうしたいんだろうでもない。なら、なんだ。ユタは百合子を助けたい。ただそれだけなのだ。彼女から苦しみをすべて取り除きたい。生きようって思わせたい。それが今、ユタのしたいことなのだ。
「ありがとう、シノ。なんかわかった気がする」
 言いながら、ユタは勢い良く起き上る。
 周りの人間はみんな敵だと思っていたあの頃の自分と、今の百合子はまったく同じだ。敵ではない人間だっているということを、ユタは今になって知ることが出来た。だから今度はユタが百合子に、それを教えてあげなければならない。人と関わることは、怖いことじゃないんだ。そう思えたのは、きっとここに、草葉荘に来てからだ。
「そうですか。それはよかったです」
 シノは優しい声でそう言った。
「あー、頭の中がすっきりしたらお腹空いたな」
「夕御飯がまだでしたら、うちで食べますか。ユタくん、あまりしっかりと作って食べてないでしょう」
「ばれてたか。簡単なものしか作れないの」
「ほぼインスタントじゃないですか。ダメですよ、栄養はきちんと取らないと」
「あれ、なんでそんなこと知ってるの」
 そう返したが、思い当たることが一つ。
「ゴミの中に入っていましたよ」
「やっぱり」
 ユタは苦い顔をする。
 中身が見えないように色つきになっているゴミ袋だが、色の濃いカップめんの容器などは透けてわかってしまうのだろう。容器に書かれている商品名もきっと見えただろうな。
「ユタくん。出来ないなら出来ないで、もっと僕やミナトくんに頼ってもいいんですよ?」
「う。ミキを見習えってか」
「そうです。でもミキちゃんは、料理は出来ませんがあれでも片付け上手なんです。たまに、僕の部屋もやってもらうんですよ」
 そうシノが言うので、ユタは驚いた。意外な事実だった。ミキは元気で明るいけれど、家事とかは何もできないイメージを勝手に抱いていたのだ。
「人は見かけによらないってことか」
「あはは。それ、ミキちゃんが聞いたら怒りますよ」
「でも、本当にいいのか。迷惑じゃないのか」
「ユタくん、なんでも一人でやろうとしないでください。なんのために僕たち一緒の場所で暮らしているんです。みんな仲間なんです。僕もミナトくんもミキちゃんも、そしてサクさんも。みんなユタくんの仲間なんです。」
 言い方は違うけれど、ミキも同じことを言っていたような気がする。
「……仲間だから、シノも俺のこと心配してくれてる?」
「はい、もちろんです」
 力強く、シノは頷いた。
 彼女がそんな風に言ってくれるとは思っていなかった。もっと早くに相談していればよかった。誰かに頼るのがいやだったわけじゃない。けれど、彼女たちに頼ったら拒絶されるかもしれないと、想像で勝手に怖がっていたのだ。
 シノも仲間だと思っていてくれたことが嬉しくて、ユタは以前そうしたように顔を伏せて微笑んだ。嬉しいことが、一つずつ増えていく。それがまた嬉しくて、ユタはもう一度、感謝の言葉を口にした。
「ありがとう」
「……だから、ユタくんが何をしようとしているのか話して下さい」
 冷たくなく温かくもない、シノの真面目な声がユタの声を挟んだ。
「え? あ、それは――」
 突然の要求に戸惑いはしたが、頼っていいと言われた手前もう隠す必要もないのでユタは言うことにした。
「とある女の子を、助けようとしてる」
 強い意志を持つことに決めた。絶対に曲げることはないように宣言する。
「俺は彼女を救う」
「そう、なんですか。先ほどの目前で死のうとしている人の話し、なんですね。それならそうと最初から言ってくださればよかったのに」
「そうだよな。ごめん」
「いいですよ。でも、ミキちゃんとミナトくんはもう知っているんですか?」
「うん。あの二人には話したし、その子にも会わせたよ」
「そうなんですか。つまり、のけものにされたんですね」
「そ、それは」
 まるで拗ねた子どものような言い方をするシノに、ユタは苦い顔をする。
「なんか、寂しいですね。仲間なのに」
「だ、だから今話しただろ? ごめんって。今度シノにも会わせるからさ。いや、その前に向こうが会ってくれるかわかんないけど。とにかく、これからは気を付けるよ」
 慌てて弁解して、ユタはシノの顔色を窺おうとするが、いつの間に建物の明かりが一つ消えたのか、暗くてよく見えない。怒っているのだろうかと、ユタは不安に思った。
「本当に気を付けてくださいね。仲間はずれはいやですから」
「うん。それは、俺もいやかも」
 恐るおそる同意すると、シノのふふふっという笑い声が聞こえて。ユタの不安感はどこかへ消えた。
「絶対に今度その子に会わせてくださいね。約束ですよ」
 そう言うシノの声と、立ち上がる気配。ユタは頷いて、
「うん。約束する」
 と返事をした。

 翌日の朝は、携帯電話がけたたましく鳴った音で起こされた。
 仕事の通知はいつも予測がつかない。今朝はやけに大きな音だったような気がするが、音量が急に大きくなるなどありえないので、気のせいだと思う。
「な、んだこれ」
 眠い目をこすって渋々携帯の画面を見た瞬間。ユタは一気に目が覚めた。
 そこに書かれていた内容が、今までのと様子が違っていた。
「修学旅行中のバスが玉突き事故に巻き込まれ炎上。計三十名が死亡」
 ユタは読み上げてみる。交通事故を見るのは今回が初めてだ。しかし、いきなり人数が多すぎる。ユタは急いでシノの部屋に向かうことにした。不安が込み上げてくる。
 一階に下りると、みんながシノの部屋の前に集まっていた。サクまでいる。
「おう、来たか。事故まで六時間もあるが、仕事の分担だけ今のうちに話しておこうか」
「サク。なんだよ、この人数。こんな、一気に」
「まあ落ち着け。ユタは初めてだから動揺する気持ちはわかる。まだ慣れていないのにすまんな。だが、今回はこの人数だ。協力してくれ」
 サクがそう言って、ユタの肩に手を置いてくる。
「違う……。違う。そんなこと言ってるんじゃない」
「ユタ?」
「なんで、事故起こすんだよ! なんでこの三十人、助からないんだよ! どうにかなったはずだろ? 事故を回避することだって出来たはずだ! あんたらそういうの、なんにも思わないのかよ! もう、慣れたから? だからなんとも思わないのか? 何も言わないのか? 何も、疑問に思わないのか?」
 いつの間にか、サクの胸ぐらをつかんで叫んでいた。
 口から溢れ出て来るのは疑問ばかりだった。どうして、どうして、どうして。死ぬ必要があるのか。こんなにも多くの人が。
「ユタ。このぐらいで驚いていたら、もっと多くの人間が死んだ時、動けなくなるよ。三十人程度じゃ済まない。何千何百人が死ぬことだってあるんだ。知らないわけじゃないでしょ」
 声色一つ変えずに、ミナトが言った。
 テレビで大事故や、自然災害のニュースが流れるたび、ユタはずっと他人事だと思っていたのかもしれない。どこか異国の話だと思っていたのかもしれない。だけど、本当はそうじゃない。本物を見たことがないから、他人事で済んでいたのだ。
「……死ぬ意味は?」
 自殺した自分が、聞いていい質問ではない気がしていた。
 でも、ずっと疑問だった。人生をまっとうして死ぬ意味。病気で死ぬ意味。他人に殺されて死ぬ意味。事故で死ぬ意味。災害で死ぬ意味。そして、自分で自分を殺して死ぬ意味。
「死に、意味なんてあるのか?」
 死神になってからまだ数週間しか経っていないのに、ユタはいろんな死を見てきた。いや、見せられてきた。
「なあ、サク。教えてくれよ。死ぬことになんの意味がある? 死んだら楽になるなんて嘘だった。楽になんて死ねないし、死んでも楽にはならないし。だったら死ななくてもいいよな。意味がないなら、死ぬ必要なんてないよな」
 それが、ユタがこの数週間で出した答えだった。
 意味のない死。意味がないのに自分は死んでしまった。そのことにものすごく後悔した。今こうして罰を受けているのも仕方がないことだと思った。
「意味は……、あるさ」
 サクがそう言って、シャツを持ち上げるユタの右手を軽く手でつかんできた。
「だったらその意味を、教えてくれよ」
「いいや、教えない。その意味は、自分で見つけるんだ」
「どうして」
「君はどうして自分が死神になったんだと思う?」
「それは、自分で死んだ罰だって」
「それは誰が言ったんだ。君の答えじゃないだろう」
 言われて、気付いた。それは確かにシノの答えで、自分の答えではない。でも、同感したことは事実だ。
「ユタくん」
 シノの方を見ると、申し訳ないというような表情をしていた。
 自分はちゃんと考えていたのだろうか。とユタは思った。真剣に自分で、死神になった意味について向き合っていたのだろうか。
 ゆっくりとサクのシャツから手を離し、ユタは二三歩後退した。
「自分で考えなければ、意味がないんだ」
 サクの言葉が、胸に深く突き刺さるようだった。
 
 赤い炎が揺らいで、辺りには灰が舞う。
 その時は一瞬のことだった。バスは炎に包まれた。
 悲鳴が聞こえる。女の子の悲鳴。
「……っ」
 まだ行くなとでも言うように、サクに肩をつかまれた。とても強い力で。
 ひどい有様だった。車内から逃げ遅れた、燃えていく人々。それをただ上から見ていることしかできないことが何よりも苦痛だった。
「サク。これが本当に、意味のあることなのか?」
 ユタは体を震わせ、憤激していた。
 誰に対して? もちろん、サクに。いや、神様にだろうか。
 もう限界だった。死神になったことすらまだ完全に受け入れられていないのに、死という現実を次々に提示され、はいそうですかなんて受け入れられるはずがない。
 サクは何も答えてくれなかった。
 ミキもミナトも、隣にいるシノでさえ、無言だった。みんな息を呑んで現場をみつめていた。
「もういいぞ」
 しばらくの沈黙の後、サクが言った。
 まだ炎は完全に消化されていない状態だったが、それに触れたところで死神であるユタたちには関係がなかった。熱さなど微塵も感じない。煙を吸ってもちっとも苦しくなかった。死体は真っ黒に焦げ、これが本当に人間だったのかと疑いたくなるほどだった。
一切の躊躇もせず、誰も何も言わずに鎌を振るった。ユタは奥歯を噛みしめながら、死体を切った。魂は無念で仕方がないのか、天には上って行かなかった。
「こんなの、あんまりだ」
 呟くと、背後からミナトが言った。
「ユタ、窓の外見てみなよ」
「え?」
 顔をしかめながらも言う通りに外を見てみると、ユタの目に飛び込んできたのは生存者たちの沈痛な面持ちだった。泣いている者や、怪我で痛みに顔を歪めている者もいた。それぞれ、今何を思っているのだろうか。想像するだけで哀しかった。
「俺はね、ユタ。意味はあると思うよ。起こることにはすべて意味がある。意味のないことなんて起こらない。……あとは自分で考えて」
 そう言うと、さっさと次の死体の方へ移動するミナト。今のはヒントか何かだったのだろうか。
「わかりにくいんだよ」
 ユタはぽつりと呟いて、それから仕事に戻った。
 考えなくてはいけないと思った。だけれど今は目の前の仕事を片付けなければいけないのだ。例え辛い思いをしても。
「やだ……」
 ふいに声が聞こえた気がして、ユタは目を見開いた。
 窓に強く頭をぶつけたのか、顔から血を流した女の子がこっちを見ている。
「私、まだ……」
 彼女はまだ生きているようだったが、その目にはっきりとユタを映しているようだった。
「死にたく、ない」
 そんな風に口元が動いた。声はかすれていて、もうほとんど聞きとれなかった。
 助からないのはわかりきったことだった。だけどユタはそんなこと構わなかった。急いで駆け寄ると、声をかけた。
「しっかり! 大丈夫だよ、君はまだ死んでない!」
 体に触れることはできなかったが、大火傷を負っていることは目に見えてわかった。
「ユタ、どうしたの?」
 ユタの声に気付いて、ミナトが寄ってくる。
「ミナト! この子まだ、生きてる! 生きてるんだ!」
 ユタは必死になって言った。
 ミナトはユタの言葉に目を丸くした様子で、だがすぐにいつもの冷たい表情に戻った。
「ユタ。その子はもう、死ぬよ」
 その言葉は、鉛のように重たかった。
「それでも! 放っておけないよ!」
 死にたくないと言った彼女を、なんとかして助けたいと思ってしまった。
「いやだよぉ」
 彼女はそう言いながら、泣いていた。
「私、もっとずっと、生きたかった。あの人と、一緒に」
 どうしてだろう。彼女が言うあの人が彼女にとってどういう存在なのか、すぐにわかってしまった。
「生きられるよ! だから、しっかりして!」
 もう一度、そう声をかける。これぐらいしかしてあげられることがないと思った。励ましたところで、彼女の運命は変わらないだろうけれど、何もしないよりはいいとそう思った。
「ユタ!」
 ミナトが叫んで、そのままユタの頬を平手打ちした。突然のことに、一瞬何が起こったのかわからなかった。
「な、何するんだよ! ミナト!」
 一拍置いて、ユタは叫び返す。
「いい加減にしたら? その子はもう助からない。死ぬんだよ。そういう運命なんだ。無責任なこと言うのはやめたほうがいい。ユタだってわかってるんでしょ。彼女の望みは、叶わない」
 ミナトの言葉に、なんて冷たいやつなんだとユタは思った。
 彼女が死んでしまうことはわかっている。わかっているけれど、このまま死んでしまうのはひどすぎる。
「それに、好きな人と一緒に死ぬことが必ずしも幸福なことだとは限らない」
 ミナトはそう断言した。まるで経験があるかのような口ぶりだった。
「どうして、そんなこと言うんだ」
 目を丸くして、ユタは言う。
「こう言わないと、彼女もわかってくれないでしょ」
「ミナト」
「どいてよ、ユタ。この子は俺がやる」
 何かを覚悟したかのような顔をして、ミナトが言った。ユタはその表情に圧倒されて、動けなかった。
「い、や」
 最期まで彼女は、自分が死んでしまうことを否定し続けていた。だけど死には抵抗できない。それはもう決まっていること。歪めることなど不可能だった。
「安らかに眠ってなんて、無理な話だよね」
 ミナトはそう言いながら、彼女を鎌で切った。一切の慈悲もなく。一切の躊躇もなく。
「ミナト、お前は……」
 言いたいことは山ほどあったが、何故だか言葉が出てこない。もどかしさに顔をしかめると、そんなユタの顔を見てミナトが深くため息を吐いた。
「一緒に死んでくれって、俺の方から頼んだんだ。ミキに」
「え? いきなりなんの話しだ」
 思いもよらないミナトの言葉に、ユタは驚いて声を上げる。
「そしたらあいつ、少しも迷わずにうんって言ったんだ。俺と一緒なら、死んでも構わないって。大好きな人と一緒に死ねるのなら、こんなに幸せなことはないって」
 いつも通り冷静な顔をして、ミナトが言う。
 ミキとミナトは双子。仲が良く顔も似ている。でも、ミナトの話には何か違和感があった。本当に二人は双子なのだろうか。そんな疑問が浮上してくる。
 答えはすぐに教えてくれた。
「そうだよ。俺とミキ、本当は双子じゃない。生前に恋人同士だった俺たちは二人で一緒に死んで、二人で一緒に死神になった。双子っていう形に変えて。元の顔は全然似てないよ」
「どうして、双子に?」
 そう質問すると、ミナトはこう答えた。
「それが自然だから」
 ユタにはその言葉の意味がわからなかった。
「自然? 双子が自然ってどういう意味だ?」
「双子が一緒にいるのは自然でしょ。俺たちはそれを望んだ。だから双子になった。ずっと一緒にいられるように」
 そこまで説明されても、ユタにはいまいち理解できなかった。ユタはずっと一緒にいたいと思う相手がいない。今も、昔も。だからミキとミナトの気持ちがわからなかった。
「でも」とミナトは付け加えた。その瞳はとても哀しげで、やはり楽しい話ではないのだなと思うことしかできなかった。
「本当にそれでよかったのかって、時折思う。俺の我儘で一緒に死んで、こうして今もミキを縛りつけている。それが本当に幸せだったのかって。俺はミキを、本当は苦しめているんじゃないのかって」
 ミナトが普段何を考えているのかわからなくて、その寂しそうな顔の理由をユタはずっと知りたかった。だけどそれを知った今、なんと声をかけていいのかわからなくなった。
「ミナト」
 言葉に詰まる。
「あー、何二人してさぼってんのさ」
 突然声がして、ユタとミナトはほぼ同時に振り向いた。バスの出入り口付近にミキが怒ったような顔をして立っていた。
「別にさぼってたわけじゃないよ」
 ミナトが不服そうな顔をして言う。
「さぼってたじゃん。言い訳する気? こっちはもう終わったんだからねー」
「こっちももう終わったところ。ちょっと説教してただけ」
 ミキとミナトの会話に、結局ユタがぐすぐすしていた分、ほとんどミナトがやってしまっていたことに気付かされた。
「悪い」
 ユタは自分勝手に行動して、ミナトに迷惑をかけていたことにようやく気付き、謝った。
「悪いと思うなら、今後は余計なことをしないことだね」
 冷たい言い方ではあったが、これがミナトなりの優しさなのだと思った。
「もう行くよ? 二人とも。サクがご機嫌斜めなんだからね」
 ミキに急かされて、ユタとミナトはバスを降りることにした。
 階段を下りる間際、ユタは後ろ髪を引かれる思いで車内を振り返った。焼け跡は悲惨で、先ほどの彼女の死体も、もうほとんど形が見えなかった。

「ミナト、ミナト」
「何? 重いんだけど、ミキさん」
 空中を飛びながら、ミキがミナトの背中に飛び乗った。
 仲の良い二人を見ているとミナトの抱えている問題は、実は気のせいなのではないかと思えてくる。ミナトがミキを苦しめているなんて考えすぎだとユタは思う。だってあんなに、ミキは楽しそうなのに。
「重いって言ってるんだけど」
「女の子に向かって重いはひどいー。ねぇ、ユタ」
 ミキが突然ユタの方に話しを振ってくる。そんなことに同意を求められても困るのだが。
「振る相手間違ってるよ。せめてシノに振って」
 ユタが呆れ顔でそう言うと、ミキは頷いてから改めてシノに聞いていた。シノは「ですね」と同意して、いつものように微笑んだ。
 終わってからサクのところへ行っても、サクはただ「お疲れ」と言うだけでそれ以上は何も言わなかった。どこか不機嫌な顔をしつつも今は先頭で飛んでいる。
 これからみんなで草葉荘へ帰るのだ。
「あの、ユタくん。大丈夫ですか?」
 心配そうな顔をして、シノがユタに話しかけてきた。
「ああ、うん。ショックだったけど思ったよりは応えてない。なんでだろう」
「それは―」
 シノは考えている様子だった。
 ユタは隣でじゃれながら飛んでいる双子を見ながらぽつりと呟く。
「あの二人、元気だよね」
 ミナトの話しを聞いてから、ユタは少し二人を見る目が変わったのだと思う。
「そうですね。いつも羨ましいくらいに仲良しです」
 そう言って笑うシノに、ユタは気になることを聞いてみる。
「シノはどこまで知ってるの? あの二人のこと」
「んーと、あまり深入りしない方なので。ただ、ミナトくんとミキちゃんは想像もつかないところで繋がっているのだとは、思います。自分以外の人の深層心理なんてわからないです。でも長く一緒にいればいるほど、大体相手の気持ちを察することは出来る。らしいですよ」
 シノは言いながら、ミナトとミキを一瞥していた。
 はっきり言及されなくてもわかった。シノは知っているのだ。二人が本当の双子ではないことを。なんで、死ななくてはいけなかったのだろう。ユタはそれが気になっていた。みんな、理由があって自殺したはずだ。ミナトの理由はなんだ? ミキは本当に、それに付いていっただけなのか?
「そこの二人。さっきからこそこそと俺たちの話しをしてるけど、丸聞こえ」
 額に眉をひそめながら、こっちを見てミナトが言う。
「丸聞こえー」
 ミキも最後の言葉だけ繰り返した。
 まあ、二人とそれほど遠い距離で話していないから、聴こえていても不思議ではない。
「すみません。でも、間違いではないですよね」
 不安そうにシノが尋ねる。
「うん。間違いじゃないよ。私とミナトは相思相愛カップルなのだから!」
 ミナトの背中に乗ったまま、ミキが嬉しそうに言う。
「双子設定はどうした!」
 ユタは思わずそう突っ込んでいた。
「にひひー」
 ミキは特に驚きもせずに、ただはにかむだけだった。
「ミキ、重い」
 ふいにミナトがそう言った。
「え?」
 その声のトーンがいつもより低く、ミキが戸惑いの声を上げる。ミナトの様子がおかしいことにユタも気付いた。
「そういうの、重いってば」
 ミナトが、強い口調でそう言った。
「ご、ごめん」
 ミキは謝ると、気まずくなったのかミナトの背中から降りる。
 ユタたちが空中で静止すると、先頭を飛んでいたサクもすぐに気付き、首を傾げながら近くまで戻ってきた。
「おい、お前ら。喧嘩するなら戻ってからに」
「前から言おうと思ってたけど、ミキは本当に俺といて楽しい? 惰性で一緒にいるんじゃないの」
 ミナトは、サクの言うことを一切聞こうとしなかった。
「そ、そんなことないよ」
 ミナトの辛辣な言葉に、ミキは困惑しているようだった。
「ミキは俺に依存してるだけだよ。俺がいないと自分はダメだって思い込んでるだけ」
「依存? この気持ちがただの依存だって、本当にミナトはそう思うの」
「思うよ。一度だってミキは、自分で自分のことを決めたことはない。違うって言うなら、なんでミキはあの時俺と一緒に死ぬことを選んだの? 俺が言ったからでしょ?」
 ミナトの感情が、一気に爆発したみたいだった。
「何を言っているの? ミナト。そんなわけないじゃない。あれは、私の」
「いい加減、俺から離れた方がいい。俺はもう、疲れた」
 言いたいことだけ言って一人で帰ろうとするミナトに、ユタはなんだか腹が立ってきていた。だからこれはさっきの説教のお返しだとでも言うつもりで、ユタは背中を向けたミナトの羽根を鷲掴みにして体を引きよせ、それから思いっきり頬を殴った。
「いった……。何するんだよ?」
 頬を押さえて、睨むような目でミナトが見てくる。
「痛いか。それはよかった」
 ユタはそう言ってやる。
「意味がわからん。何がよかっただ」
「よかったもんは、よかったんだよ。今の痛みは、ミキの痛みだ!」
「はあ?」
 何を言っているんだこいつ。とでも言いたそうにミナトが声を上げる。
 当のミキ本人も唖然としているみたいだった。
「何がミキの幸せか、お前が決めることじゃないだろ! それはミキが決めることだ! 依存だろうがなんだろうが、関係ないだろ! ミキはお前がいいって自分で選んで、お前と一緒に死んだんだろう! 生半可な覚悟じゃ死ねないんだよ!」
 ユタは完全に頭に血が上っていた。ミナトの胸ぐらをつかみ、叫びながらもう一発殴ってやった。
 大切な人と一緒にもっと生きたかったと願った、あの女の人のことを想う。
 大切な人と一緒に死んだ、ミキのことを想う。
「そんなこと、痛いほどわかってるんだよこっちは!」
 ミナトが叫びながら、ユタを殴り返してきた。結構本気で痛かった。
「わかってるんなら、ミキを傷付けるようなこと言うなよ! お前何もわかってないよ! 自分が苦しいだけだろ! 苦しいからそれを、ミキのせいにしてるだけなんだろ! ミキのこと、少しは考えてやれよ!」
 ユタはそう、言い返してやった。
 いつだったか、ミナトは百合子に対して自分勝手だと言った。思い当たることは自分たちにもあった。でもそれは過去のことだ。だから言えたのだ。でも今は違う。今まさに、ミナトがしていることはそれ。自分勝手なことだから。
「考えてるよ……」
 力なく、ミナトが言った。
「だったらっ」
「考えてるから、苦しいんだよ」
 有無も言わさずミナトがユタの胸ぐらをつかみ、そしてもう一度殴ってきた。
「うっ」
 思わず声が漏れる。
「お前に何がわかるんだ! 俺たちの何がわかるんだ! 俺とミキがどれだけ苦しんできたか、お前何も知らないくせに! ちょっと事情を知ったからって、俺たちの問題に土足で踏み込んでくるな!」
 ミナトは周りが見えなくなっているのか、ユタに対して怒りを思いっきりぶつけてくる。容赦なく。力の加減さえなしに。何度も、何度も、何度もユタはミナトに殴られた。けれどもユタはそれでいいと思った。むしろ嬉しかったのだ。ミナトがこんなに自分の感情を見せることなんて今までなかったから。いつもクールぶっていて、人が言い辛いことをはっきりと言うちょっと棘のあるそんなやつが、今は冷静さを欠いている。本音をぶつけている。それがただ、ユタは嬉しかった。
「俺だって、ミキが好きなんだよ! でも、重いんだ! どうしようもなく、ミキの気持ちが重いんだよ! 一緒に死んでくれるなんて、本気で思ってたわけじゃないんだ! ただあの時、結婚まで考えていたのに互いの親に反対されて正気でいられなかった! 本気で好きだったから、本気で死のうと思った! 一緒に死ねば、親の手の届かないところで二人、幸せになれるなんて本気で思ってた! バカみたいだろ? バカみたいだって言えよ!」
 ミナトの叫び声が、耳に響いた。
 ユタにはわからない。それほどまでに誰かを想う気持ちを、まだ知らないから。でも思った。これだけは、ミナトにちゃんと伝えなければならない。
「バカになれて、いいじゃないか」
「え?」
 ユタの言葉に、ミナトの瞳が揺れた。
 何度も殴られたせいで頬は膨れ上がり、口の中が切れていたのでしゃべり辛かったが、ユタは頑張って言う。
「馬鹿になれて、幸せじゃないか。俺はミナトとミキみたいに、誰かをそんなに大好きって思ったことがないから、わからないけど。でもすごく、いいと思う。ミキ、言ってたよ。すごく情熱的な恋だったって。楽しくて、でも辛くて苦しいってミキが言ってたよ。今も恋してるって、永遠に恋し続けるって、あれ。相手はお前のことだったんだ」
 ユタは思い出していた。恋について語っていたミキの姿を。辛くても、それでも笑っていた彼女の顔を。すごく印象的だったのを覚えている。
「でも俺たちは、ロミオとジュリエットみたいにはなれない」
 哀しそうな表情をして首を振り、ミナトがそう呟いた。
「そんなの当たり前だろ。お前はお前で、ミキはミキだからさ。お前たちはそのままでいいんだよ。大切なパートナーだろ?」
 ミナトは何も答えなかった。
 後悔を。相当の後悔を、彼らもしたのだとユタは思う。けれども、死んでしまったのだから仕方がない。失くした命は永遠に戻らない。失くした愛も永遠には戻らないのだろう。だから彼らは、それを恐れて共に死んだ。それがいいことか悪いことかなんて、ユタにはわからない。ただ二人の愛と、哀しみと後悔だけがそこにあるのだ。
「もう、その辺にしておけ」
 サクが静けさを破るように言った。
 腫れた頬で狭くなった視界で見ると、ユタたちを止めに入ろうとしていたのだろう、ミキの両肩をサクがつかんでいた。
「ミナト」
 ミキの呼びかけに、ミナトの肩が一瞬跳ねあがったのがわかった。ミナトはミキに背を向けたまま振り向きもしない。
「私、ミナトが一緒に死んでくれませんかって言ってくれたとき、すごく嬉しかったよ。ああ、この人は本当に私のことを考えてくれているんだなって思った。私をあの家から、あの鳥籠から解放しようとしてくれた。それがただ嬉しかった。だから本気で死を覚悟したの。ミナトと一緒ならどこへでも行けるって、どこへでも飛んで行けるって思ったの。例えそれが死後の世界だとしても」
 その声は優しく、辺りに響いていた。
「大好きだから嬉しかった。大好きだから、永遠に一緒でいられることが幸せだって私は思う。ミナトは違うの? ミナトは、幸せじゃないの?」
 ミキの問いに、ミナトは答えようとしなかった。口を噤んだまま、明後日の方向を見つめていた。すべてから逃げるように。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、ミキはゆっくりと息を吸いこう言った。
「しばらく離れよっか」
 哀しそうな笑顔だった。  (続く)