連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第三章

第三章 未知が来る

   1

 本間宗太が斉藤寧々に初めて会ったのは、一年前のこと。黒板の前に立たされ先生に挨拶を促されて不機嫌そうな寧々の顔を、宗太は覚えている。その顔がとても好きだと思ったと本人に言ったら、顔を真っ赤にして彼女は怒っていた。
 うみほたる学園の男子寮と女子寮は向かいあって建っていて、その間を遮るものは丁寧に手入れされた花壇と煉瓦道ぐらいのものだ。
 宗太と寧々の部屋は互いに二階にあり、互いの窓は部屋が見える位置にあった。カーテンを開けるのは朝とみんなが寝静まった夜の二十三時頃。意図せずその時間になるとどちらが先にカーテンを開けるか競争のようになっていた。
 スマートフォンは学園内に持ち込み禁止なので、二人とも持っていない。いや、もともと持っていたのに、学園へ入学すると同時に没収されたというほうが正しい。学園の外との連絡を取れなくする意図があるのだろう。希望すれば手紙ぐらいは出せるらしいが、書いてもいっこうにこない手紙の返事を待つよりは、最初から書かないほうがいいと宗太は思った。それに宗太には手紙を出したいと思う相手がいなかった。
 夜なので窓も開けられない。だから宗太と寧々は会話をしないけれど、手を振って挨拶する。
「おやすみなさい」と口を動かす。 
 いつの間にかそれが日課になってしまっていた。
 毎晩、宗太はどうしてそんなことをするのかを考えた。もしかしたら自分も彼女もお互いのことが好きでそういう行動をとってしまうのではないかと思っていた。だがその考えはすぐに捨て去らなければならなかった。なぜならば自分に誰かを好きになる資格はないと宗太は思っていたからだ。
 毎晩好きだと思いながら、毎晩その考えを捨てる。もう幾度それを繰り返しただろうか。
 あるときは朝方までそんなことを考えていて、眠れない日もあった。それでも捨てるしかなかった。
 それが自分と彼女のためだと思っているからだ。

   *

 宗太には特別な力があった。相手の未来が視えるというものだ。相手の手に触れるだけでそれがわかってしまう。そのために、色々な物事を諦めなければならない。宗太にとってはそれが最善だと結論が自分の中で出ている。
 宗太の力の事を知っている者は学園内にたった二人だけだ。ひとりは学園の理事長と呼ばれる人で、もうひとりは宗太の友人である川崎竜太郎だ。
 宗太を学園に入学させた理事長が知っているのは当然のことだが、どうして竜太郎が宗太の能力について知っているのかというと、宗太が自ら彼に話したことがあったからだ。それは彼が、宗太と真逆の能力。相手の過去を視る能力を持っていたからなのか、それとも彼の人柄がなせる業だったのかはわからない。だが、宗太と竜太郎はそれがきっかけになって仲の良い友人になったことは確かだった。
 竜太郎と宗太が互いの能力を知った後、二人とも理事長に呼び出された。理事長は咳払いをしてから宗太たちに向かってこう尋ねてきた。
「二人とも、時間についてどう思う」
 その問いに宗太と竜太郎は困惑したが、それも最初だけだった。まずは竜太郎が答えた。
「とても大事なものだと思います」
「その理由は?」
 理事長が軽く首を傾げながら言った。
「過去は変えられませんが、知ろうと思えば誰でも知ることは出来ます。それによって相手を理解することができます。それを知って現在でどんな行動をとるのか。それがとても大事なことだと思います」
「そうか。それはとても大切なことだな。では、君の持っているその能力を大事にすると良い」
「はい」と竜太郎が頷くのをみてから、理事長は宗太のほうへ視線を向けた。宗太はごくりと唾を呑んだ。
「次は君が答える番だ。宗太」
 促されて、宗太は伏し目がちに言った。
「俺は、竜太郎とは逆です」
 それは宗太の本心からの言葉だった。
「ほう。何故そう思う」
「未来も変えられないからです。未来は普通の人間なら知ることはできません。俺はそれをずっと知りたかった。だから願望が能力というひとつの形になったのだと思います。でもそれを手に入れたところで、どうしようもないことに気づきました。俺が視た未来は確定で訪れます。だから大事にしたところで、悪い未来は悪いまま来てしまいます。それが俺の時間は大事にしても無意味だと思う理由です」
 宗太ははっきりと口にした意見を、自分で哀しいと思った。
 どうしてと幾度も思った。そして答えは一向にでなかった。
「宗太は、自分の能力を大切なものだと思っていないということだな」
 理事長の言葉に、宗太は頷く。
「はい。俺はもう、この力がなくなってほしいと思っています」
「果たして本当にそうだろうか。もしそうならば、能力はとっくになくなっていると思うのだが。君はまだ能力が消えていないのだろう」
 確信をつかれて、宗太はしりごみした。
「それは――」
 宗太は、反論ができなかった。理事長はすべてを見透かしたように、微笑んでみせた。しわの寄った顔は、彼が古希を超える年齢だという事実を改めて感じさせる。
「よく考えて、悩むことだ。結論が簡単に出る問題ではないだろうがね」
 宗太はその言葉に対して、返事をしなかった。
 もう充分だ。と思った。もう自分は嫌というほど悩んで、苦しんでいると思う。そんな気持ちを察してか、理事長がもう一度口を開いた。
「私は、能力者になったことがないので君たちの気持ちはわからない。だが理解しようと努力してきた。そのうえで言わせてもらおう。答えはない。しかし、答えを作ることはできる」
「答えを作る?」
 意外な言葉に、宗太は首を傾げた。隣に座っていた竜太郎も同様だ。
 理事長は頷き、言った。
「君たちの能力は、今まで誰も――いや、もしかしたら探したらいるのかもしれないが。前例がない。ただ君たちはここに存在する。答えを探している。探すことができる。ならば答えを作ることも可能ではないのか。と私は思う」
「それは、自分たちの好きなように答えを出しても良いということですか」
「そういう解釈もできる。という話だ。能力者を研究している連中は怒るだろうが、そんなことは君たちには関係ない。君たちは君たちの答えを作れば良い」
 宗太と竜太郎は互いの顔を見合わせて、それから理事長の顔に視線を戻した。
「わかりました」と二人はほぼ同時に返事をした。
 途方もない話だと宗太は思った。テストの答案ならば最初から答えがある。しかし、これには最初から答えがない。宗太と竜太郎はその答えのない事柄を、討論しなければならなかった。けれどそれが面白いと感じていることも事実だった。
 だから宗太はあの日。寧々の方から想いを伝えられた日。思わず口にしてしまったのだ。
「試しに付き合ってみる?」
 両思いだとわかって有頂天になっていたわけではない。宗太はいたって冷静だった。冷静に、じゃあ試してみようと思ったのだ。そうして宗太は初めて寧々の手を握った。宗太は触れた相手の未来を、その先の人生を少しだけ視れてしまう。
 宗太は答えを出すために、寧々のことを利用しようと考えたのだ。
 寧々の未来で視えたものは三つ。高い塀。恐らく学園の周りを囲っている塀だ。それから、見知らぬ女の子。そして、誰かの血。
 宗太は恐ろしいものを視てしまった気がして、すぐに手を離した。
 宗太は視えた未来に対して、これは寧々にとってどんな意味があるのだろう。と考える。それと宗太にとってもどんな意味のあることなのだろう。
 考えて、考えて……しばらくして考えるのをやめた。そんなことはどうでもいいと思った。事実としていずれ訪れる未来には変わりがない。未来は変えられないのだから。
 ただ宗太は思っていた。誰にも血を流してはほしくないと。

   2

 交際を開始しても、宗太と寧々はいつもと変わらない日々を過ごしていた。恋人らしく放課後は一緒に帰ったりせず、手はあの日に繋いだきり触れてもいない。それ以上の行為も勿論していない。いつもと同じように休憩時間に他愛のないおしゃべりをして、二十三時の「おやすみなさい」をする。
 しばらくそんな日々が続いた。交際していることは誰にも言わなかった。二人だけの秘密だった。示し合わせたわけではないのだが、寧々の方も仲の良い友人にさえ、教えていない様子だった。
 そんな状況を打破してくる人物がいるとは、その時は想像もしていなかった。
「そういえばこの学園、交際禁止だってこと知ってる?」
 川崎竜太郎は机で書類と睨み合いながら、自然な会話の流れでそう尋ねてきた。
 一つ前の会話と言えば「もうすぐ夏祭りだ。楽しみだな」である。
 竜太郎と共に所属する洸生会のアジトで、一緒に書類の整理をしていたときだった。
 作業をしていた宗太は、手を止めて目を丸くした。
「え。何? そのどこぞのアイドルグループみたいなルール」
 バインダーを持ったまま尋ねる。子役だった時代を振り返ってみても、そんなルールを律儀に守っているアイドルなんてきいたことがない。芸能人の熱愛の噂は、スタジオの廊下を歩いているだけでも、耳に入ってくる。噂好きのスタッフがひとりでもいると大変だ。
 竜太郎が、宗太を一瞥してから書類に視線を戻しながら言葉を紡ぐ。
「知り合いからきいた話なんだが、以前交際していると噂がたった人がいて。その噂をききつけた先生が二人を呼び出したらしい。それで別れさせられたって」
「それって中等部の生徒?」と宗太は首をかしげる。そんな話をきいたのは初めてだった。
「いや。高等部だったと思う」
 顎に右手を当てながら、竜太郎が視線だけ次の書類に目を通しながら口だけ動かした。
 宗太は言葉を探していた。黙ったままでいると竜太郎がこちらに視線を向けてきた。眼鏡の向うにある彼の目と、宗太の目が合った。
「面倒なことになる前に、斉藤とは友人関係に戻ったほうがいいんじゃないか」
 すべてを見透かしているような竜太郎の発言に、宗太はうろたえた。
「何で、そのことを知っているんだ」
「みていればわかる」
 そう言いながら、竜太郎は持っていた書類を机の上に置いた。
「俺が斉藤とも友人であることを忘れるな。彼女を大切だと思うなら、彼女を傷つける前に元の関係に戻るべきだ」
 竜太郎なりに言葉を選んだのだろう。気を使われていることに少しだけ気分が悪くなる。
「つまり別れろってことだろう」
「そうともいう」
「いいよ」と宗太は迷いもなく言った。予想外の返答だったのか、竜太郎が目を丸くした。
「目的はもう終わっているし」
「何の?」
 竜太郎が首を傾げた。
「俺の能力の発動条件、知っているよね」
 宗太が尋ねると、竜太郎は頷いた。
「ああ。相手に触れないといけないんだろう。僕の能力も同じ条件だから知っている」
「そのためには相手と、スキンシップが出来るぐらいに仲良くならなくてはいけないだろう」
 宗太の言葉に、竜太郎が怪訝な顔をした。
「まさか。そのためだけに斉藤と交際しているのか」
「そのまさかだよ。俺はこの力の答えを出すために、寧々の告白を受け入れた。彼女を利用しているんだよ」
 宗太は、口角を上げて笑ってみせた。
 宗太が最初にこの能力に気づいたとき。母親の手に触れたことで、母が泣き崩れている光景を視てしまった。自分が母から離れてどこか遠い場所へと行かなければならなくなったことを、そのときに知った。宗太は母以外の家族や仲の良い友人の未来を視ることが怖くて、距離を置くようになった。
 宗太は幼いころから芸能界という荒波にのまれながら、とてつもない将来への不安を感じていた。そんな自分の未来が知りたくて望んで手に入れたはずの能力を、宗太はいらないとさえ思った。だからこそ宗太はこの学園に自ら来て入学させてもらった。誰もが望んで入学したわけではないこの学園に。
「どうかしている」
 呆れたように、竜太郎が言った。
「自分でもそう思う。でも、好きじゃなかったら付き合っていなかったよ」
 信じてもらえないかもしれないけれど。とは言わなかった。それは無意味な言葉のように思えた。
 どうして彼女だったのかと問うまでもなかったのか、竜太郎はそれ以上は何も言わなかった。触ることが重要ならば自分でもいいじゃないかとは、彼は決して言わなかった。わかっていたのだ。同じ条件で発動する能力を持っている竜太郎は、自分と宗太が触れた場合に、能力が相殺される可能性があることを。それがなければ宗太も迷わず竜太郎に触れ、彼の未来を視ていただろう。
 宗太と竜太郎は同じなようで同じでない。対照的な存在だった。だから共に洸生会に所属させられたと言っても過言ではない。
「彼女の未来について、僕はきいてもいいのか」
 竜太郎が、唐突にそんなことを尋ねてきた。
「いいけれど、あんまり良いものじゃなかったよ」
 宗太はそう答えると、視たままを竜太郎に伝えた。彼になら話しても構わないかと思った。それだけ信頼していた。
 話が終わると、竜太郎が顔をしかめた。
「それは、まさか斉藤の血じゃないよな」
 そうやって言葉にされると、改めて宗太は考えてしまう。あれが誰の血で、どんな意味があるのか。
「そんなまさかは、あってほしくないけれど」
「だが斉藤の未来を視て、斉藤の血ではないのだとしたら、一体誰の血だ? そんな恐ろしい場面を視て、お前はどう思ったんだ」
 竜太郎の真剣な表情に、宗太は困った顔を返す。
「例え誰の血であったとしても、俺にはどうすることもできない。未来の出来事だとしても、俺にとってはすでにあった過去と同じだよ」
「だったら、それを知った今。お前はどんな行動をとりたいんだ。未来を変えたいのか、変えたくないのか。どっちなんだ」
「そういう問題じゃない」
 竜太郎の言葉を、宗太は首を振って否定する。
「そういう問題だろう」と竜太郎はさらにそれを強く否定した。
 宗太は目を見開く。
「お前は何度も、変わらないって諦めたかもしれないが、今は僕がいるだろう。過去を知って、理解して。現在の状況を良くすることは出来ると僕は信じている。お前の未来視が、お前にとっては過去なら、現在を変えることは出来るはずだと僕は信じる」
 竜太郎みたいな考え方が、自分にも出来ればよかったのに。と宗太は思わずにはいられなかった。
 そしてそういう風に言ってくれる友人を持って、心の底から感謝した。
 理事長が答えを新しく作れと言った意味が、わかった気がした。一人では作れなかった答えを、二人でなら作れるような気がした。
「ありがとう」
 宗太は呟くように、礼を言った。

   3

 それから宗太と竜太郎は、二人でとある計画を立てた。
 現状を変えるにはまず、現在進行形で続いている宗太と寧々の関係性を解消することだった。現在で変えることが出来るものがそれしかなかったのだ。
「まず初めに言っておく。斉藤とお前のどちらかが、この学園を去ること。この方法は避けたい。何故なら卒業するか、退学になるかのどちらかだからだ。僕の言いたいことはわかるな」
 竜太郎は、真剣な顔をしていた。冷静に考えて、卒業も退学も実現するのは大変な事だ。まず前者は宗太たちの意思ではどうにもならない。それを決めるのは教師たちや理事長だろう。
 この学園は、一定の年齢で卒業という概念がない。卒業の条件はただ一つ。能力者ではなくなることだ。そしてそれを審査して通ったら卒業できるという規則だ。
 そして後者は、問題を起こすなどして誘導することは可能だが、これも最終的な判断は理事長になる。
「わかっているよ。卒業はともかく、退学なんてしたらあいつを哀しませることになる」
 宗太が視た斉藤寧々の未来は、おそらくもう少し先の出来事ではないかというのが、竜太郎と話して出た結論だ。では、ほんの数分後の未来を視ることはできないのか。と竜太郎は言った。宗太は今まで力をコントロールするという考えがなかったと答えた。
 竜太郎はこう提案してきた。
「僕と宗太の能力は、時間跳躍ができない。ただ視ることができるだけだ。だから斉藤の直近の未来を視て、どうしたら彼女を傷つけず穏便に別れることができるか考えよう。僕が彼女の過去を視て色々とフォローをする。お前は嫌かもしれないが」
 宗太の未来を視る力は、その未来に到達する過程において、行動を変えたところで変わることはない。それは、宗太が試した結果でわかっていることだ。しかし竜太郎の過去を視る能力は、すでに起こっている出来事を視て、良い方向にも悪い方向にも変えていける能力だ。だからその二つを上手く利用すれば酷いことにはならないのではないかと、竜太郎は考えているらしい。
 まったく彼らしい、と宗太は思った。
 相手の過去を視ることができるということは、相手の弱みを握ることと同義だ。それを使って相手を脅すことだってできるはずだ。だが竜太郎はそんなことはしないと宗太は思う。彼を信頼していなければ、宗太は竜太郎の提案にのらなかった。
 竜太郎はいいやつだ。そのことを知っているから、宗太は彼を信じることが出来る。
「いいよ。そうしよう。頼りにしている」
 単純な想いならば、簡単に別れようと告げれば済む話だった。けれどそれは宗太にはできない。できないぐらいに、彼女。寧々と過ごした時間は大切なものだった。
 彼女と過ごす毎日は、キラキラした宝石みたいに輝いている。とても大事な思い出だった。
「だが問題なのは、どうやって斉藤の手に触れるかだ。僕では、お前のように彼女の手に気軽に触れることはできない」
 竜太郎が眉をひそめながら言った。
「手相をみると言って、触れてみたら」
「冗談を言うな。それでいいならば、お前が斉藤と交際することにした理由がわからなくなる。それに斉藤は占いなど信じないだろう。僕も手相占いなどはできない」
「じゃあ、俺みたいに斉藤と付き合う?」
 宗太が軽口をたたくと、「宗太」と呆れたように目を細めながら、竜太郎が宗太の名前を呼んだ。いい加減にしろとでも言いたげだったので、宗太は肩をすくめて謝った。
「ごめん。これも冗談」
 ひどく悪い冗談だったと、宗太も思った。
 自分が一番傷つく。だがそれも悪くないと思った。これからやろうとしていることに比べたら、小さな傷だったからだ。
「まぁ手に拘らなければ、いくらでも方法はあるんだがな。後ろから肩を叩くとか」
「無難だなぁ」
「残念そうに言うな」
 いかに自然に身体に触れるかの議論をして、そうして最終的にはやはり後ろから話しかけて肩を触ることにした。
 最悪の事態を防ぐために、宗太は寧々と別れる選択をとった。
 寧々の過去を視て、彼女がどういう人生を歩んできたのか。それを知って自分たちがどういう行動をとるのか考える。とても最低な計画だった。けれどやらなければならなかった。
「ごめんね。君のためなんだ」
 本人の目の前で、その言葉を口にする勇気はない。

   4

「斉藤」
 という竜太郎の呼びかけから、この計画は始まる。
 竜太郎が寧々の肩に触れていた。名前を呼ぶとほぼ同時に、右手を彼女の肩に置いたのだ。
「何?」
 何も知らない斉藤寧々がそれに気づき、振り向いた。彼女の視線は竜太郎と、そのすぐ後ろに立っている宗太に向けられた。
 寧々は着けていたヘッドフォンを耳から外し、驚いたように目を丸くしていた。
 宗太は、彼女の気を一瞬でも逸らそうと彼女に話しかける。
「ちょっといい?」
 彼女の気を一瞬でもこちらに向けさせるためだ。竜太郎は能力を使っている間、目を閉じている。動くこともできないので、こうするしかなかった。
「どうしたの二人とも」
 寧々が肩にかけたヘッドフォンを片手に持ったまま、首をかしげている。
 授業の合間の休憩時間だった。廊下に出ていた寧々がどこかへ行こうとしているところを呼び止めた。
「次の授業で使うプリントを配らなきゃいけないんだけど、手伝ってほしいと思って」
 宗太はそう言いながら、両手に抱えるように持っていた紙の束を半分ほど右手に取って渡そうとした。
「別にいいけれど、君たち二人で充分じゃない?」
 寧々の素朴な疑問に、宗太は首を振る。
「まだあるんだ。先生がまだ準備できていないって。忙しそうだった」
 嘘は言っていないが、残りは先生が持ってくるつもりだったところを、宗太たちが親切なフリをして「取りに戻ります」と言って利用したのだ。
 罪悪感がないわけではなかったが、これも寧々のためだと気持ちを誤魔化す。
「そうなんだ。それで、川崎はいつまであたしの肩に手を置いているわけ?」
 指摘されて、心臓がはねる。
「ああ。すまない」
 竜太郎が慌てたように、寧々の肩から手を放す。それから、宗太のほうを向いてアイコンタクトをしてきた。もう充分なようだ。
 寧々は宗太たちをみて訝しんでいたが、教室の中に戻るとプリントを配ることを何も言わずに手伝ってくれた。手際よく枚数を数えて、机に置いていく。
 宗太と竜太郎は寧々を教室に残して、職員室に残りのプリントを取りに行くことにした。道すがら、宗太は竜太郎から過去視の結果を聞く。
「斉藤がこの学園に来た理由がわかった。あいつには妹がいるらしい」
「そうなのか」
 初めて知る事実だった。
「斉藤はここに来る前、素行の良い生徒ではなかったらしい。まぁ、今も良いとは言い難いが。不良だったらしい。それで悪い噂を流されて、それが妹の耳に入った。妹はとても繊細な少女で、深く傷ついていた。あの斉藤の妹だとレッテルを張られ、いじめを受けていたらしい。妹が自殺未遂をした原因が自分だとわかった斉藤は、能力を欲した。妹のどんな小さな声でも聴くことが出来るようにと、願ったんだ」
「それであいつ、耳がいいのか」
「そうだな。僕が視ることが出来たのはそこまでだ。斉藤は能力を手に入れた後も色々あって、この学園に連れてこられたんだろうな。妹の記憶が強かったから、妹に関連する過去を視ることが出来たのだろう」
 竜太郎の言葉に、宗太は納得していた。
 ただ問題はここからだった。その過去を踏まえて、斉藤と別れる計画を立てるのは、沸騰したお湯の中に手を入れるぐらいに勇気のいることだった。火傷をするとわかっているのに、それをしないといけないのは、とても酷なことだ。
「少なくとも避けなきゃいけないことは、悪い噂を流すことだな」
 竜太郎がそう言って、廊下を歩く足を止めた。職員室まで、あと数歩というところだった。少しだけ前を歩いていた竜太郎が、宗太のほうを向いた。
「宗太」
「なんだ」
 名前を呼ばれて返事をすると、僅かな間を開けて、真剣な表情で竜太郎がこう言った。
「お前、斉藤に嫌われる覚悟はあるか」
 宗太は迷わずこう答えた。
「もとよりそのつもりだ」
 たとえどんな結果になっても、最悪の未来のためには悪魔にだってなる覚悟だった。

   5

 授業が終わって、夕食までの空き時間。夕陽が落ちていく速度で、宗太の気分も落ちていった。
 宗太と竜太郎は、男子寮の同じ部屋に住んでいた。二人の狭い部屋には、勉強机と椅子が二脚ずつあり、二段ベッドもあった。
 その部屋に今は宗太と竜太郎ではなく、宗太と寧々がいた。
 男子寮には、女人禁制という規則がある。よほどの例外がない限り許可なく女性職員と女子生徒は、男子寮には立ち入り禁止なのだ。
 しかし宗太たちは今、その規則を破っていた。
 これは竜太郎が立てた計画の最終段階だった。そしてその計画を立てた張本人は、現在この部屋にはいない。何処かで時間を潰していることだろう。
 寮の裏口から誰もいないことを確認して、寧々を招き入れた。部屋に入るまでの廊下を歩くときは緊張した。
「この漫画、この間面白いって言っていたやつ」
 宗太は何食わぬ顔をして、右手に持った漫画を寧々に渡す。
「ありがとう。でも本当にあたしここに居ていいの。ばれたらまずいんじゃない」
 寧々は自分がここにいることがばれることを恐れて、小さな声でそう言った。
「大丈夫。誰か来たらすぐわかるだろう」
 宗太はそう言って、寧々の左耳を指で示して彼女の耳の良さを指摘する。
「そうだけど」
 寧々がすこし困った顔をした。
「自室までは貸出出来るんだけど、漫画は外に持ち出し禁止だからさ」
「どうせルールを破るなら、そっちを破ればよかったのに」
 寧々がそう言って軽く笑う。
「でも、たまにはこういうハラハラドキドキするのもいいかと思って」
「スリル満点だね」
 声が部屋の外に漏れないように、宗太たちは出来るだけ小さな声で笑いあった。
 こうしている間にも、時間はゆっくりと流れていった。宗太たちの目線より上にある壁掛け時計の針の音が、嫌に大きく聴こえる。
「寧々」
 宗太は落ち着いた声で、彼女の名前を呼ぶ。
「ん?」
 寧々が首をかしげる。その手には、先ほど渡した漫画があった。
「付き合ってくれて、ありがとう」
 それはとても深い意味のある言葉だ。色々な意味を含めたありがとうだった。そんなこと、寧々は知ってか知らずか「こちらこそ」と返事をくれた。宗太は微かに笑みを浮かべた。
 それから数十分。寧々が漫画を読んでいる間。宗太は別の漫画を読んでいた。大学生の主人公が、同じ学部の女性と恋に落ちる青春漫画だった。宗太が体験することはないであろうキャンパスライフが繰り広げられていて、羨ましいと思った。
 芸能界にいる限り、普通の学生生活など送れない。そして今も、決して普通の学園生活を送っているとは言い難い。だから、これは宗太にとって、夢物語であった。
 もっと普通に竜太郎や、寧々と出会っていたらともう幾度も考えた。
 一方、寧々が読んでいるのが、少年漫画。料理を作ってバトルするギャグ漫画だった。時折、隣から聴こえる寧々の笑い声が、なんだか心地よかった。ずっとこの時間が続けば良いとさえ思っていた。
 漫画を読み終わると、宗太と寧々は他愛のない話をした。授業の話だったり、休日の過ごし方だったり、男子寮と女子寮の違いの話が、特に面白かった。
 そして午後六時半は、あっという間に来てしまった。
「そろそろ、帰るか」
 宗太は唐突に、寧々にそう尋ねた。
「え。もうこんな時間」
 時計をみて、寧々が驚いたような声を上げる。
 竜太郎との約束の時間だった。彼が帰ってくる時間は、事前に打合せしていた。宗太は重い腰を上げて、座っていた椅子から立ち上がる。寧々のほうをみると、彼女も慌てて立ち上がった。
「誰もいないといいけれど」
 宗太は緊張した面持ちで、部屋の扉の前に行く。
「ちょっと待って」
 寧々が能力を使って、部屋の周辺の音を聴いている様子だった。目を閉じて、集中している。
「足音が近い」
 寧々が呟いた。

   *

 そこからは、もうあまり思い出したくはない記憶だ。
 扉が開くと、そこにいたのは竜太郎と先生だった。宗太と寧々は逃げることが出来なかった。いや。逃げることなど、宗太は最初から考えていなかった。
 これは寧々にとっては酷い裏切りの話だ。宗太の信用は地に落ちた。宗太は、言い訳もせずに先生に寧々を部屋に入れた事実を、正直に話した。そして寧々にも、竜太郎に先生をこの部屋に連れてくるように指示していたことを伝えた。
 勿論この全てが、宗太と竜太郎の計画であることは伝えなかった。
 その日以来、寧々は宗太の事を嫌うようになった。会えば必ずと言っていいほど睨まれるし、きつい言葉が飛んでくる。それに呼応するように、宗太も彼女に対する態度を変えた。
 二十三時の「おやすみ」はなくなったのに、宗太はついカーテンの前に立ってしまう。窓の向こうで、一向に開かないカーテンに淋しさを感じながら、でもこれで良いのだと自分に言い聞かせた。
 宗太と寧々はきちんとした話をせずに別れた。裏切って嫌われるという考えられる中でもっとも最悪な手段で、破局した。
 これで本当によかったのかと、今でも疑問は残る。変な噂が流れないように、細心の注意をはらって行動したつもりだった。彼女との関係を切ってまで、彼女を守りたいと願った。その結果がいつ出るのか、宗太にはわからなかった。
 そう、例の少女に出会うまでは。
(第四章へ続)