短編小説「青い谷の炎」・真伏善人(まぶせよしと)デビュー作
おかしいー平井春彦は足を止め、また振り返った。
まだ明けやらぬ冷気の漂う沢に下りた時から、不自然なざわめきを背に感じていた。それは、谷川から離れた斜面でざわざわしたかと思うと、どきりとするほど近くにうごめく気配があったりしていた。一人で渓流へ釣りにきた心細さがあるいはそう思わせるのか、それにしても気になって仕方がない。
朝食をかねた昼のおにぎりを二つ、曇天の狭い河原でそそくさと食べ終えると、平井は着替えとツエルトを詰め込んだリュックを背負って立ち上がった。この先のS字状の流れを遡ると滝がある。
平井は細身だがバネのある身体で岩壁をつたい、太ももまでの流れをぐいぐいと遡った。
やがて腹に響く水音と共に白い滝が現れた。落差、約十五メートル。鋼のような滝だ。
心細さは滝の音と共に飛び散っていた。
平井は背中を丸めて滝壺からの流れ出しに、そろりそろりと息を潜めて近寄った。
冷気が頬をするりと撫でていく。
短くたたんでいた竿を一杯にのばすと、平井は白泡の切れ目にエサのついた釣針をアンダースローで投げ入れた。目印になんの変化もなく糸は足元へ流れてくる。何度も繰り返していると突然、赤い目印が水中に消え竿先までが一気に引き込まれた。意表をつかれた平井は慌てて腰を引いた。両手で竿先が上がるまでふんばること数分、ようやく足元に寄ってきた大きな岩魚は、見たこともない濃い乳白色を腹に帯びていた。あまりの美しさに平井は見とれた。魚体のわりに頭は小さくアゴが丸い。
ぷっくりとした腹は餌を摂ったばかりなのだろうか。いや、あるいは山吹色のぷつぷつした卵を抱いているのかもしれない。平井は雌であろうこの美麗で怪しい岩魚を水際でていねいに針を外し、滝壺に返した。
池内にはこのことを黙っておこう。
どうどうと太い水の流れ落ちる音が耳に戻ってきた。雲がきれ、初夏のきらめく陽射しが重なり合う木々の若葉を擦り抜けてくる。
滝の側を頼りない草木をつかんで登りきると覆い被さるような木々は消え、水際から背丈に余る夏草が生い茂っていた。
あまり釣れなくなった。たまに釣針にかかる岩魚も、手のひらに足りないやつばかりだ。
木の実でも採ろう。
平井は釣りの合間に頭を右に左に巡らした。右の斜面の緑の中に黄色い粒が点々としている。キイチゴだ。平井はにんまりとして斜面に足を大きく踏み出した。と、その時、背後の近いところで川岸の草藪がざわざわっとした。
まただ。
何かがいる。やはり自分の近くに何かがいる。獣か、人か。釣りどころではなくなった。
平井は立ち止まった。釣り人ならばいずれ追いついてくるはずだが、いっこうに姿は見えてこない。人間のうしろをつけてくる獣。まさかオオカミがいるはずもない。
陽射しを閉ざす厚い雲が、ゆるゆると空を覆いだした。
あのざわめきは一体…もうこれ以上は立ち入るな、と谷風が近くの草木をゆらしているのだろうか。
背筋に寒気を感じ、目線を川面に戻した時、今度は左の斜面がガサッとした。
平井はギクリとして竿を握りしめた。息を殺し、耳を立てる。しかし厚い雲の下は、ざぶざぶと流れる水の音ばかりで何事もなかったように、しんとしている。
「オイッ」
平井はたまらず腹の底から声を放った。
獣であれば反応はあろう。だが、カサリともしない。
「悪い冗談はやめろ」
怒鳴った。が、返事はない。
クソッ! 平井は拳大の石を拾いあげると、十メートルほど先の斜面に向かって投げつけた。わずかに草葉がゆれただけだった。
もう一度強く投げた。同じだった。平井は気味が悪くなり、この先をためらった。
立ちつくしていると、腰の魚籠が重いということにようやく気がついた。
もう帰ろう。
シャツの袖をまくると、時計は午後の三時を回っていた。竿をたたんだ。重い魚籠もリュックに詰め込んだ。
雲が低くなった。この沢から明るさが消えるのは早いはずだ。急げば一時間半で車に戻れる。平井は一刻も早くこの場から逃げ出したくなっていた。
大小の岩の間を、灌木の茂みをたくみに身体をあやつり、飛ぶように下る。
追われるように一時間ほど下ると、雨が糸をひくように降り始めた。帽子がポツポツと音をたてる。平井は振り向くことなく、さらに足を早めた。
気がついたときには帰りに採るつもりだった、ヤマグワの実のありかをとうに過ぎていた。果実酒はあきらめよう。
絡み合った木々を見渡すと、ネムの花が桃色の雫を溜めていた。
ここまでくれば車まではもう近い。平井は、ほっと息をついてうしろを確かめた。川幅が広くなってくると覆い被さっていた木々もひらけ、そぼふる雨が衣服を濡らす。
ようやく杣道に上がるとリュックの重さが心地よかった。
いつ以来だろう。こんなに釣れたのは、と平井は何年も前を思い起こしていた。リュックから雨具を取り出すのも忘れ、そのまま濡れた草薮を両手で分け歩いた。
橋が見えた。
杉の丸太を並べて二本、そのままかけただけの橋。これを渡ればもうすぐだ。
平井は皮の剥けた五、六メートルの丸太を一気に渡ろうとつま先に力を入れた。小刻みな早足で中ほどまで渡って向こう岸に目線をやったとたん、平井は「わっ」と叫んで虚空をつかんだ。
なんとしたことか、足が驚くほどに滑ったのだ。態勢を立て直す間もなく、橋下の瀞に背中からざんぶりと落ちた。飛沫があがり、平井はしたたかに水を飲んでむせた。リュックの浮力で身体がくるりと反転する。川底をとらえようともがいたその時、想像をこえた大粒の雨がにわかに自分の周りを囲むように叩きつけた。が、それは雨粒ではなく、平井を捕える投網の錘がズバッと水面を大きく丸く切り込んでいたのだ。
「うわあぁ」
平井はのがれようと両手をかけたが流れに足をとられて、頭まで沈んだ。流されて回転する身体に網が巻き付き浅瀬まで転がった。底石が身体中に当たって痛みが走る。平井は必死で顔をあげ、息を吸った。
「足、足、トミ、足だ!」
女?
抵抗する術もなく下半身を麻袋に突っ込まれ、手早く紐で結ばれてしまった。確かに女?の顔が見え隠れする。
「な、なんだなんだ!やめろやめろ!」
あらんかぎりにわめくが、口から鼻から水が入り激しくむせる。網が絡みついた上半身も麻袋を被せられ、浅瀬の中で転がされた。紐が幾重にもかけられた。二人の荒い息づかいが耳に入る。
川から草深い岸を、ぐいぐいと上半身から引き摺り上げられた。
「やったぞ、トミ、やったぞ!」
うわずった声が耳に突き刺さってくる。
平井は鼻水と涎を垂れ流し、野獣のように叫びもがいた。
おかまいなしに上半身と下半身を持ち上げられてエビ状にされると何かに放りこまれた。車のトランクらしい。どこかへ運ばれる。平井は恐怖で身体が震えた。
エンジン音がすると同時に走り出した。車が振動するたびに身体がずり動く。大きくバウンドすると叩きつけられうめき声が出る。
枝沢の入り口付近だろうか、車がいったん止まり右に曲がったように感じる。
平井は自分が停めた車の位置を、必死で頭の芯から離さないようにした。枝沢を出てからかなりのスピードで走っている。
どれくらい走っただろうか。右に左に大きくカーブを切ると、またひどい振動が始まった。もう方向感覚は全くなくなっていた。
スピードが徐々に落ちると、車は小さく上下に揺れて停まり、エンジンが切れた。
どこかに着いたらしい。
車のドアの開け閉めがあって足音が遠ざかった。耳を立てると、雨音の中に物音がかすかに聞こえる。
ぴたぴたと足音が車に戻ってくるといきなりトランクが開けられた。平井は身を固くした。上半身を持ち上げられると、そのまま引き摺り出されて下半身も抱えられた。あの女たち二人なのだろうか。
平井は昆布巻の芯のようになっていて、もがく術もなかった。女たちの息づかいが耳に入る。家屋に運び込まれたらしく暗さと、よどんだ空気が簀巻の中から感じとれる。
ふわりと身体が浮いた直後、全身に衝撃がきた。一瞬息が止まり内臓が唸りをあげた。板の間に投げ出されたらしい。
建て付けの悪い戸を閉める音がした。二人の静かな足音が頭の側を通り過ぎた。平井は呼吸をおさえ耳を立てた。他に誰かがいるはずだ。女が二人だけということはありえない。
だがいつまでたっても二人以外に気配はない。本当に女が二人だけか。もしそうだとすれば、なんとかなる。いや、そんなはずはない。そのうちに男たちが姿を見せるはずだ。
寒気が身体にしみこんでくる。
平井はおそるおそる身体の反動をつかって転がってみた。じっとしていられなかった。何回か転がると何かにぶつかった。遮ったのは板の間の仕切板らしい。男がこないうちになんとかしなければと平井は焦った。
と、カタカタと引き戸が開けられたらしく、そのあとに足音が近づいた。
「おい、どういうことなんだ」
平井は怒声を放った。
足音の主は無言でいったん通り過ぎ、すぐに戻った。側で動かなくなると、パキパキンと小枝の折れる音がした。しばらくすると勢いよく火のはぜる音がして、煙の臭いがそのあとにきた。
まさかこの家の中で自分が焼かれることはありえないと思ったものの、平井は鳥肌が立った。
強い煙の臭いでたまらず咳く。
「おお、苦しいか」
抑揚のない女の声。
ゴトりと戸をわずかに開ける音がした。煙を逃がしているのか。
「たのむ、俺が悪いことをしたのならあやまる。とりあえず紐を解いてくれ」
平井は、少しでも動ける体勢を確保したかった。
「着替えだけでもさせてくれんか」
濡れネズミになっていた身体は、恐さも加わって歯の根が合わない。
「トミ、あれ持ってきな」
抑揚のない声の女が連れの女に言った。
あれとは何のことだ。平井が考えていると突然、女が下半身をくくっている紐に手をかけてきた。
「逃げようたって無理だよ。分かっていると思うけど」
平井は女二人だけであれば逃げられると思っていた。たかが女二人だ、身体が自由になれば負けることはない。だが考えてみると女の言う通りだった。今いる場所がまるで分からない。おそらく人目が届かない場所にきまっている。たとえ逃げ出しても助けを求められる所なんかありはしないだろう。第一に自分の車がここにはない。こんなことをする女どもが、自分たちの車を奪われるようなヘマをするはずがない。
「分かった」
平井は全身から力が抜けていくのを感じた。
下半身に絡んでいた紐がゆるむと麻袋が抜けた。それと同時に左足首に何かが巻き付いて、はっとした。ずしりと重く冷たい。すぐに右足も同じものが巻き付いた。思わず足を動かすと、ジャラリと音がついてきた。鎖だ。
足かせをはめられた。
思いもよらぬ展開に平井は声を失った。
すぐに身体が起こされ上半身も紐が解かれた。麻袋と投網も順に外された。そしてリュックを背中からむしり取られると、平井は両腕をうしろに回され手首を結束バンドでくくられた。
洩れてくる明かりだけの板の間は薄暗く、大きないろりから紫煙が、もくもくと上がっていた。女は平井から離れるといろりの向こうに、ゆっくりと回り込んであぐらをかいた。目をこらすと五十がらみの女であろうか。エラの張った顔で髪はうしろでまとめている。黒いズボンに黒い長袖で肩幅が広く、その身体つきはまるで男だ。
もう一人に目をやると、煤けた板戸を開けてうしろの居間へと消えていった。
「教えろよ、なぜこんなことをするんだ。俺にはさっぱり分からん。人違いだとしか思えん。でなければ入漁料か。それだったらすぐにでも払う。何倍でも。釣った魚もすべて返す」
平井は全く分らなかった。どうしてこんな目にあわなければならないのか。
女は黙って立ち上がった。やはり男並みの体格だ。平井の横を通ると、女もうしろの居間へ入っていった。
小さな高窓だけで、十畳ほどの板の間は薄暗くがらんとしている。まるで黒い箱に入っているようだ。平井は薄紫色に変わった煙をうつろに追った。
いろり火が派手に火の粉を散らせた。
もう何時頃になるのだろうか。妻と二人の子供の顔が浮かんだ。
平井は戸口の太い角柱につながれた鎖と、その先にある自分の足かせをじっと見つめた。
気配がした。振り向くとすらりとした長身の若い女が出てきた。トミと呼ばれていた女だ。中年女と同じ服装で、やはりいろりの向こう側に座った。外の光がわずかに入るだけの板の間は、煙にかすんで表情はおろか顔さえはっきりしない。
「わかる?私」
平井は耳を疑った。
「平井。平井春彦でしょ」
目をこらして女を見た。
「あんたは忘れてしまっただろうけど」
「誰だ」
声はうわずっていた。
うしろから仄かな灯が入ってきた。中年女が先の太い和ロウソクと、煤けた金色の燭台を握っている。若い女と並んで座り、ロウソクを立てて二人の間に置いた。もしかして親娘か。
平井は若い女に集中した。髪はやはりうしろで束ねている。丸い顔の輪郭は、どこか記憶の奥底にあるような気がした。
「大門都美子って知ってるよね」
「と、とみこ!」
平井は目を剥いた。
「驚いた?」
「都美子、本当に都美子か」
頭に血が上った。
どうしてこんなところにこんな罠を仕掛けて俺の前に現れたのだ。
「だったら、なんでこんなことをするんだ」
声をはりあげた。
「あんたが気づかない程に私は変わってしまったのよ」
「それがどうした。もう俺とは関係のないことだ」
なんということだ。平井は平静を装ったが胸は張り裂けそうになっていた。それにしてもあどけなさの抜けない少女のようであった面影はなく、声などは一オクターブほども低く聞こえる。
沈黙が続いた。
いろりの煙は湯気のような白さに変わりつつあった。ロウソクの炎が、時折ゆらりとする。
「長かった…」
都美子の消え入るような言葉に、平井の心は波打った。
「あれから二年半になるのよねえ」
火箸でいろりの灰をかき混ぜながら、都美子は口を開いた。
「今になって何を言いたいんだ」
過去のことならすべて自分が悪かったと、あやまるつもりで言葉を待った。
「あの秋、あんたに捨てられてから私はどうしていたと思う」
「すまん、俺が悪かった」
「いまさら聞きたくもないわ」
眉根を寄せて平井を見た。
「私ね、あれから妊娠しているのに気がついたの。あんたの子よ」
都美子は思いもよらぬことを言い、唇をきっと結んだ。
平井はあ然として、まじまじとその顔を見た。そしてうろたえた。
「どうしていいのか判らなかった…。捨てられたあとで気がつくなんて。そんなことをあんたに言えば迷惑がかかると思ったし、無知だった私はウサギのように臆病に震えて毎日泣いているしかなかった。まぶたが腫れあがって鏡など見られなかった。苦しかった。でも日が経つにつれ、泣いていてもどうにもならないと思った。寒い月曜の朝、覚悟を決めた。ここにいる母にも言えず堕ろすことに…とてつもなく怖かった…」
都美子は顔を伏せると、灰をかき混ぜていた手を止めた。
やはり親娘だったのか。平井は納得した。
「どうしてそのことを俺に言わなかったのだ」
言葉は弱々しかった。
しかし平井には理解できなかった。たとえそのことが事実だったとしても、今になってこんな所でなぜ。
「冷たい雨が降っていた。病院の前を、傘で顔を隠して行ったりきたり。思い切れずに、やっぱり戻ろうとした時だった。ゴロゴロとお腹に響くような雷が遠くから聞こえてきたのは。私、うながされるように門をくぐった」
ゆっくり動く黒い火箸を平井は、じっと見やった。
「男のあんたに私のそんな怖さ辛さが分かるはずもないよね。誰にも知られることがないと思っていたのに、どこからともなく噂が私の耳に届くようになっていたわ」
いろりの薪が燃え崩れて灰が舞い上がった。
「私をね、周りのみんながいやな目で見るようになって耐え切れなくなった。あんたは企画開発部、私は経理部、私が会社を辞めたのを知ってるよね」
隣の母親と分かった女が都美子から火箸をもぎ取ると、崩れた薪を整えた。ぽっ、とオレンジ色の炎が立ち上がる。
平井はゆらぐ炎見ながら、この母娘の腹の中をさぐっていた。
「私、あんたが初めての男だったのよね」
都美子は眉をあげた。
「女って一度身体に大きな傷がつくと、大胆になるものよ。なんの抵抗もなく夜の仕事をするようになってしまったわ」
いろりの縁に置いていた煙草を一本取り出し、唇の真中でくわえると首をかしげて火をつけた。丸い頬をへこまして大きく吸い込むと、煙を天井にむけて細く長く吐き出した。
平井は納得した。あの頃の都美子とはまるで違う。はっきりとした言葉づかい、引き締まった口元、そしてあの澄んだ瞳の輝きは失せていた。
「なんでこんなことをしたか、わかる?」
火箸を灰に突き立てた。
「慰謝料か」
平井は母娘を交互に見た。
「慰謝料?馬鹿にすんじゃないよ」
都美子は煙草をいろり火の中に投げつけた。
金で解決できるのではないかと思った平井は次の考えが浮かばなかった。
「これからあんたに、よーく説明をしてあげるよ」
平井は暗い天井に視線をさまよわせた。
「私があれから、あんたのことを何も知らなかったと思ったら大間違いだよ」
知られていたのだ。
親の選んだ良家の娘、慶子とのことを。そして、三カ月後には慌ただしく結婚したことも。都美子が会社を辞めた直後だった。
だからどうしたのだ。そんなことは都美子に関係のないことだし、もうとっくに過ぎたことだ。
平井は都美子の変り果てた顔を見た。
「いつ帰してくれるんだ」
平井は気がつまった。
「いつになるかしら」
素っ気無い言葉が返ってくる。
「頼む、なんでも言うことを聞くから」
妻の顔が浮かんだ。
「そうね、じゃあとりあえず家にだけ連絡させてあげるわ。捜索願いでもだされたら困るから」
上着のポケットから白い携帯を取り出すと都美子は、
「車が故障したから今日はこのまま泊まる。会社に連絡しておいて」
こう言うのよ。余計なことを言ったらどうなるか分かっているでしょうね。私は命をかけているのよ。いい? と、まっすぐ平井を見た。今日は帰れないことがはっきりして平井は愕然とした。しかし、どうしようもない事実に諦めるしかなかった。言われたことを口の中で繰り返すと、都美子を力なく見返した。
都美子が携帯を、親指でゆっくり確かめるように押している。
えっ、と思った。呼び出し音を確認したのか、立ち上がると、都美子は平井の横で中腰になった。耳にあてがわれた電話に「もしもし、もしもし」と妻の声がしている。声が出ない平井の横腹を都美子が拳で突いた。
「もしもし、あ、俺。車が故障したから今日はこのまま泊まる。会社に連絡しておいて」
言い終わるか、終わらないうちに都美子は通話を切った。
「さあ、これで安心ね」
口元を緩めると都美子は、
「お腹すいたでしょう」
と、目尻をさげた。
朝からコンビニで買ったおにぎりを二つ食べただけだった。
「そうそう、あんたお酒が大好きだったよね」
まだ未成年だった都美子を、平井はよく居酒屋やショットバーに連れて行った。その度に少しの酒で頬を桃色に染める都美子を横目に、足がふらりとするほど飲んでいた。「そのうちに酒が強くなるぞ、都美子は」、といつも言葉あやしく言うのだった。
いろり火の横に底の平らな銀色のヤカンが、ごとくに乗せられた。
「朝からずっと俺のあとをつけていたのか」
沢で感じていた気配が二人のものだったのだ。
「ずっと? そんな訳にいくはずがないじゃないの。あんたが沢に下りて釣りを始めたところまでよ。あとは帰ってくるのを、じっと待っていただけさ」
都美子は倒れていたヤカンの把手を立てながら答えた。
「嘘を言え。昼も大分過ぎたころには脅すように草藪を揺すったじゃないか」
「そんなものは、おおかた通り風かカモシカが足場を崩して石でも落としただけさ」
母親が口を挟んだ。
平井は母親の日焼けした顔をちらりと見た。
「あんたが何かと厳しい親から、逃げるように山深い沢へ釣りに行っていることは、私も知っていたよね。一人では行ってはならないと親から言われて、いつも友達の池内さんとばかりだった。私は女だからと、一度も連れて行ってもらったことがなかった」
都美子は膝をくずした。
「釣りの話をしてくれた時に、いくつかの地名が私の生まれ育った所の近くだった。でも言えなかった」
平井はここが都美子の育った家ではないかと、あらためて暗い板の間を見回した。
「私が会社を辞めてからも、この近くに釣りにきてたよね。でも一人でくることはほとんどなくて、たまに一人だと他にも車も停まっていた」
都美子の言う通りだった。
「夜の仕事をしながらあんたをずっと見ていたわ。そう、ストーカーまがいのことをしていたのよ。今日、会社を休んで一人でくることも私、ちゃんと知っていた」
平井は都美子の光る目に執念を見た。
「でも、こんなにうまくいくとは思わなかったわ。林道脇に車を止めて、暗いうちから待っていた。あんたが目当ての沢に入ったことが分かったから、もう誰も入れないように、通行止めのバリケードを立てたの」
こともなげに言うと、
「それから丸木橋にオイルをたっぷりまいたの。よく滑ったでしょう」
少し間をおいて、ニッとした。
「天気の神様も味方して雨を降らせてくれたんだよ」
母親が投げつける言葉に平井は苛立った。
銀色のヤカンの口から、さかんに湯気が立っている。
「そろそろ、いいようね」
都美子は立ち上がると、平井の横を通り、居間に入っていった。丸いお盆に銚子を二本とグラスを載せてくると、いろりの前にそっと置いた。
白磁の銚子が一本、首だけを出してトポンと沈んだ。
「初めは熱めにしたほうがよかったわね」
顔を覗かれ、平井は気持ちが引き込まれそうになった。
都美子は湯気の立つヤカンから銚子の首を持ち上げると、二本の指を滴の落ちる底に当てた。
「ちょっと待ってね」
立ち上がると開け放しの居間に入って行った。
「念のためこうさせてもらうよ」
都美子は平井のうしろから手首をさらに太い結束バンドでくくった。明日になれば帰れるはずだ。そのために今は、なされるがままにしようと平井は腹に力をこめた。
ロウソクがもう一本、平井の前に立てられた。ゆらめく黄色い炎が眩しい。
足かせであぐらのかけない平井はうしろ手にされ、姿勢がきつくなった。
「都美子、俺の尻の下に何かを敷いてくれないか。ちょっときつい。それと、たのむから着替えをさせてくれ」
平井は撫で声を出した。
無理な要求だと思ったが都美子は黙って横に置いてあるリュックを開け、着替えを取り出した。そして足かせを片方ずつ外しては、手際よくズボンを履き替えさせてくれた。
「シャツは自分でやりなさい」
と、膝の上に放るとうしろ手に結んだバンドを鋏で切った。
平井は着替えを済ますと僅かに気持が落ち着いた。再びうしろ手にされ、雨具とツエルトの入ったリュックを尻の下に押し込まれた。
黒い箱のような板の間でロウソクの灯が思い出したようにゆらりとする。
都美子は慣れた手つきで銚子をグラスに傾けている。七分目ほどを注ぐと銚子をヤカンに入れ戻した。
「はい、お待たせ」
底を手のひらであてがい、平井の口元にグラスを持っていった。平井は考えることなく薄い唇を半開きにして突き出した。渇いていた喉が音をたてた。都美子の手はとどまることなくグラスを傾ける。
「相変わらずね」
都美子は微笑んだ。
胃の中にじわりと温かさが広がると、平井の身体は次に来る酔いを要求していた。見透かしたように都美子は少しの間をおいた。
「熱燗にするからね」
「いや、そのままでいい」
平井は二杯目を飲み干すと急激に酔いが回ってきて、身体が揺れるのをこらえることができなかった。
重いー何かが乗っている。
平井は酔いが醒めやらぬ身体に、動けないほどの温かい重さを下半身に感じていた。
乱れた息遣いが聞こえ、吐息がかかってくる。平井は瞼を開けようと懸命に眉を上げた。わずかに開いたその前にぼんやりと見えたのは、めくれた唇からのぞく白い歯だった。平井はもがいた。しかし、両足を投げ出したままの身体は動かなかった。
下半身には熱いものが突き上がっていた。
「と、都美子か」
声を絞り出した。
「ふうう」と生温かい吐息が平井の額にかかってくる。下半身の熱く固くなったものに快感がまとわりついている。寄せたり引いたり、都美子の思いのままに操られていた。やがて快楽の激しい波が全身に襲ってきた。
「くくっ」と、都美子の喘ぎがすると同時に平井の脳天を矢が突き抜けた。
リリリリリー
虫の音が現実と夢の間を、大時計の振り子のように往ったりきたりしていた。
寒さで平井は目を覚ました。
毛布がかけられていた。上半身が動かない。平井は足を投げ出したまま、自分が柱にくくられているのにようやく気がついた。
あれは夢ではなかったのだ…。
平井は力なく頭を左右に振った。
薄い明かりが板の間を黒光りさせている。鉄の足かせも鈍く光っている。平井は足を広げて鎖の張りに逆らった。ギチッとした。
「目が覚めたようだね」
カタカタと引き戸が開くと、都美子の母親の声がした。平井には目もくれず白くなっているいろりを覗き込んだ。
うしろに積まれた杉の枯れ葉ひとつかみを真ん中にかぶせると身を乗り出し、口をとがらせて息を吹きかけた。すぐに紫煙が立ち上り、ぽっとオレンジ色の炎が上がる。
冷えていた身体が思わず前に傾く。
「暖かくしてやるからね」
小枝を炎に乗せながら意味ありげに口端を斜めにつりあげた。
火の粉が飛び、オレンジ色の炎が勢いよく広がる。
音もなく都美子が現れた。昨日とは違う。服装は同じだが、口紅をひいている。手にはウイスキーの角瓶とグラスを持っている。
「さぞかしお腹すいているでしょうね」
都美子は平井の横に座った。淡い化粧の匂いが鼻をくすぐる。
「これを飲んでからご飯にしましょうね」
濁った琥珀色の液体を、小さいグラスに半分ほど注いだ。
「はい、口を開けて」
平井は匂いに顔をそむけた。
「なにを恐がっているの。果実酒よ」
果実酒は何種類も作ったがこんな匂いはしない。平井は目と口を固く閉じた。
「昨日は少しだけ薬を入れたけれど、今日はそんなことをしていないから」
都美子はそっと肩に手をかけた。
「今度はなにを飲まそうというんだ」
目をつむったまま言った。
「帰さないよ。飲まないと。あんたに毒を飲まそうなんてこれっぽっちも思っていないわ」
静かに目を開けて薄化粧の都美子を見た。
「何だ。それだけ教えてくれ」
平井はなにがなんでも今日のうちに帰りたかった。
「マ・ム・シ・酒よ」
さあ、と都美子は肩にかけていた手に力を込めた。
グラスから流れ込む液体を、口の中にためることなく喉を通した。それでも生臭さは鼻の中をかきまぜていく。ひやりとした液体はどろりと空っぽの胃に落ちると、へばりついてからゆっくりとしみこんでいく。じわりと熱さが広がり、炎が口から出そうになる。平井はたまらず「はあ」と上を向いて息を激しく吐いた。
都美子と母親は、いろりの向こうでご飯を食べ始めた。インスタントの温めたご飯と味噌汁、そしてノリの佃煮。香ばしい匂いが板の間に漂う。
ぐうう、と平井の腹が鳴った。
「ああ、おいしかった」
母娘は同時に箸を置いた。
「あんたの分もあるのよ」
朝の明かりが、はっきりと都美子の表情を見せるようになっていた。
身体中に熱い血がかけめぐっていた。活力がみなぎり平井の顔は紅潮していた。
都美子は香水をふくませて平井にすり寄った。
「さあ、もう一度よ」
平井の下半身は抗うことなく反応していた。
「私ねえ、夜の仕事をするようになってから分かったの。男の人って、愛がなくたってこうなるのよね」
香水の奥に都美子のなつかしい匂いがした。歯を食いしばって平井はこらえた。しかし、あっけなかった。
「コホン」とわざとらしい咳払いが居間から聞こえた。
「どうしてだ。どうしてこんなことをするんだ」
平井は熱いものが萎えると冷静ではいられなかった。
「うるさいわね。あんたの子供はいつ生まれたのよ。考えてみなよ。私の妊娠していた時期と奥さんの妊娠とが重なっているじゃない」
平井はぎくりとした。
都美子は身を整え、いろりのむこうできちんと座った。
「よくもそんなことを平気でやれたね。別れてすぐに他の女を孕ますなんて普通じゃないよ。あんたは私の妊娠を知らなかったで済まそうとした。けれどまだ十九歳だった私にはとてつもなく大きい疵がついたんだよ」
見据える目に平井はうつむいた。
「あんたは結婚の約束をやめにするってメールで一方的に告げただけ。突然嫌いになったというわけ? そんなことって普通考えられないよ。それとも最初から弄ぶつもりでもう飽きたってわけ? 私はね、本当に結婚ができて幸せになれると、ずーっと信じていたんだよ」
腕組みをして声を強めた。
「真っ暗闇に突き落とされた私は、会社を辞めてからどう生きていけばいいのか、ただ光を求めて夜の街を毎日のようにあてもなく歩いたよ」
丸いあごを上げて、遠くを見るように都美子は語り始めた。
「クリスマスイブだった。あんたと白いコートの女が腕を組んで、ひときわ明るい街角のショーウインドゥを笑顔で覗いているのを見かけたのは」
都美子は唇をかんだ。
「くやしかったよ。まだまだ私の傷が癒えないうちにあんたと女の幸せそうな顔を見て思わず固く握りしめた拳で襲いかかろうとさえ。その時にあの女はもう孕んでいたんだ。いったいどういう男なんだよ」
目がぎらりとした。
「平井春彦の幸せをこわしてやる。必ず。どんなことがあっても。そう決めたのよ。それを私の生き甲斐にしようと自分に固く言い聞かせたんだ。あの夜から」
平井はおののいた。
「楽しかったわ、それからは。あんたのことを全て調べ上げて、幸せの絶頂期にどうやって生き地獄へ突き落としてやろうかと考えるのは」
都美子は歪めた口に煙草をくわえ火をつけた。
コトコトとうしろの引き戸が開くと母親が現れた。
「だから、覚悟を決めてこれまでのことを、お母さんに全て話したわ。私の変りざまを心配してくれていたのに、私はずっと口を閉じたままだった」
「妊娠が判ったあの時に打ち明けてくれれば何とかなったかもしれない。でももう遅い。今までの人生もこれからの人生も何もかも失った。」
母親はため息をついた。
「ふっ切れたの。私には、まともな結婚ができない定めみたいなものがあると身につまされたし…だから、そんなことを考えると、これから偽りの幸せを追う勇気は湧かない」
平井は都美子の意図を理解し始めていた。
都美子の隣にあぐらをかいた母親は、細い目を見開いた。
「平井さん、さすがは資産家のご子息だねえ。あんたの親御さんは興信所を使って私の娘の育ちを調べたみたい。私の家のことを聞き回っている、見かけない人のことを小耳に挟んだのは、思えばそんなころだった」
なにを言い出したのか、平井は母親を見つめた。
「この娘は私が十九の時に産んだたった一人の子供。だが父親はいない。私の妊娠を知って逃げたよ。あんたと同じろくでなしだ。いや、あんたは知らなかったと言っているが信用できん。しかも、あんたの親が身元を調べて別れさせたのだからほとんど同じことだ」
平井は自分の親が、都美子のことをどう調べたのかはまるで知らない。ただ、断じて結婚はならん。一時も早く別れろと、厳しく言われた。理由は以前から父が自分の薦めていた提携先の専務の娘、慶子とすぐにでも一緒になって欲しいからだった。
都美子から「母に会ってくれないか」と言われ、やむなく両親に都美子とのことを打ち明けた日から僅か十日あまりのでき事だった。
幼いころから親に逆らうことのできなかった平井は、従わざるをえなかった。
その後、年明けに慌ただしく結婚しなければなかったのは慶子の妊娠が判ったからだった。
「この家、いや小屋みたいな所に私の兄が住んでいた」
都美子の母親はポツリと言った。
「すでに兄だけになっていたこの集落からやむなく出ることにしたというのを聞き、数年前にゆずり受けた。私はその三年ほど前に都美子を連れてこの集落を離れていた。しかし町の生活に馴染めず、息苦しさを感じ始めて山の生活が恋しくなっていた。季節がよくなるとここへきては寝泊まりしていた。それがこんなふうに使われるとは思いもよらなかった」
うつむいている都美子を優しい目で見やった。
「ここにあった集落は遠い昔、平家の落人が住み着いたと言われてた。その後、他の集落との交流がわずかにあったというらしいが、私らのころでも近所同士の結婚は多かった。いや、そうするしかなかったんだ。誰もがそのことに口を挟むことはしなかったけど、実際は重くのしかかっていたんだ。けれども助け合い、笑い合える生活は貧しくても楽しかったよ」
ぐるりと板の間を見回すと
「でも、もうすぐダムの底に沈む」
「ダム?」
平井はダムと聞いて瞬時に頭を巡らした。
ここがどこなのか、およその見当がついたからだ。
「ダムの話が噂になったとき、集落の誰もが目を輝かせた」
平井は話が耳に入らなくなっていた。おそらく林道の峠を越えたあの集落跡だ。だとすれば、自分の車のある位置は思っていたより遠いことになる。
「計画が決まると、補償金を手にしてみんなどこへ行くとも告げずに、それぞれ集落を離れて行った」
歩いてはとても日が暮れるまでには、あそこまで戻れないだろう。
平井は再び耳を傾けた。
「都美子も可愛そうな娘だ。あんたと知り合ったことが運のなさといえばそれまでだが、私らには、それではすまないものがある」
「どうすれば許してもらえるんだ」
本心は読み取れた。
結婚はあきらめたが、どうしても子供を残しておきたい。この自分との間にもうければ、子供が何かと詮索されることはない。昨日はお金に困ってはいないと言っていたが、そうなれば養育には相当の金がかかる。おそらく金で解決はできそうだ。あとの問題はどうにでもなる。
平井は母親の目を覗き込んだ。
「私の身体だってまだ子供を生めるんだよ」
都美子の母親は、とろけそうな目で平井を見返した。
悪寒が背筋を走った。 「やめてくれ! そ、それだけはかんべんしてくれ。あとのことはどんな約束でもする。だからやめてくれ」
気が狂いそうになった。
「ハハハハ、レールはもう敷かれているんだよ。どれどれ、もう回復しただろうで」
母親はうろたえる平井の下半身をまさぐった。
都美子とはまた違う香水の匂いに惑わされ、なされるがままに快楽へと導かれ、果てた。
なりゆきを見ていた都美子が肩で大きく息をついた。
「まずは、当初の目的を果たした。帰してやるか。いいな、都美子」
都美子は楽しげに笑った。
「ご飯を食べる?」
「いらん」
腹の皮が背中につくほどになっていたが、それどころではなかった。
「それじゃあ、きた時と同じようにしてもらうからね」
目隠しをされて、足かせを外された。そのかわりに、また両足を揃えて結束バンドでくくられる。
「おお、重いこと」
二人は同じことを言いながら、平井の腋と足を持ち、開けてあった戸口から出た。
晴れているようだ。
何時ごろなのだろうか。陽射しの暖かさを平井は目隠しされた顔に感じた。
抱えられた身体を尻から車のトランクに放りこまれた。
連れてこられた時の怯えはないものの、重苦しさで眉間にしわが寄る。
トランクを閉める前に母親が言った。
「子どもが私らに生まれるのはきっと春になるだろう。今の子供は育つのが早いから大人の身体になるのもきっと早かろうで。そしたら都会に住むあんたの子供たちを誘って一緒に生活することに決めている。どこか人目の届かない別天地で暮らすよ。豊かな自然の中で身も心も繋がり合って、はつらつと生活できるのを楽しみにしてさ。そうそう、平井ハレムってのはどうだい」
うしろ手の結束バンドが鋏で切られた。トランクを閉める前に、
「これからずっと償ってもらうよ。一生崖、いやその先もずーっとよ。わかる?」
都美子の声がしてトランクが閉まった。
母娘がなにを言っているのか分からなかった。あまりにも突飛で破天荒なことを一方的に口走っているだけだ。
エンジン音がすると同時に車は走り出した。さして振動もなく走っている。カーブを切るたびに、身体がトランクの内面に押しつけられる。
やがて身体が浮くほどの振動が始まった。ようやく帰れると思うと、平井は揺れるのが苦にならなかった。
もうそろそろではないか、と思うまもなく車は止まった。
カシャッとトランクのロックが外された。平井はトランクを両足で蹴り上げ、身体を起こすと目隠しを外した。陽の光が痛いほどに眩しい。足元に転がっている鋏で結束バンドを力をこめて切った。
地面についた足がふるえた。青いリュックを取り出すと、それはよろめくほどに重く感じた。片手でトランクのドアを思いっきり叩き付けた。
それを合図にしてか、ナンバーを覆ったグレーの大きな乗用車は水溜りをはねて、みるみる小さくなって行く。
ここはー
平井は辺りを見回した。自分が昨日の朝早く入った枝沢の入り口だった。
初夏の陽射しがさんさんと降りそそいでいる。土の匂いと草いきれの熱気でむっとする。時計に目をやると十一時少し前だ。平井はリュックを背負うとうなだれた。自分の車までは、おそらく三キロほどを歩かなければならない。
空腹と疲労で思考は働かなかった。ぬかるんだ道を、ただ車を目指しているということだけは、はっきりしていた。
前からもうしろからも、誰も何も通らなかった。
ようやく青い谷のはるかむこうに白いRV車が目に入ると平井は、ほっとして足を緩めた。
ルルルル、ブオーン。
エンジンがかかると平井は座席をうしろに倒して胸いっぱいに息を吸った。
思い出したように、丸め込んだ紺色のシャツをリュックから引っ張り出した。胸ポケットのボタンを外して携帯を取り出すが濡れてしまっている。平井は座席を戻してハンドルを握り、切り返しを始めた。
枝沢の入り口までくると、平井はあの母娘の乗った車が走り去った右方向に目をやりながら、ハンドルをせわしげに左へ切った。
暑苦しくて平井はすべての窓を全開にした。窓から入り抜ける風圧と振動で、くらくらするほどに頭がゆれた。
土のむきだした山道が終わり、舗装された道路に入る。民家が目につきだすと左前方に白い自販機が見えた。とまどうことなくブレーキを踏み、平井は冷たいコーヒーを選んだ。口をつけるのがもどかしく、顔をあげて青い缶から流れ落ちる液体を一気に飲み干した。
混雑する国道からインターチェンジに入る。平井はアクセルを踏み込むと、ようやくまともな自分に戻りつつあるような気がした。
昨日からのことを思い出していた。まるで悪夢のようなでき事が、自分に降りかかってきていたのだ。
〈自然の中で繋がる〉
〈一生涯、その先まで〉
母娘がトランクを閉める前に言った、組み合わないパズルのような言葉。それが波のように押し寄せ引き返す。何度も頭の中を洗い、揺する。
〈平井ハレム〉
真っ赤なスポーツカーが爆音と共に猛スピードで平井の車を追い抜いて行く。
四人はみんな俺の子供かー
と、いうことはー
パズルのピースが、にわかに動き出して組み合わさっていく。やがてフレームに納まったパズルが鮮明になると、平井の動揺は頂点に達した。
この非道さはー
もし、あの母娘が言葉通りのことを本当に考えているとしたら、近い将来、家の子供には俺のうけた以上の仕打ちが待ち構えていることになる。
〈これからとても長い間、生涯いやその先までもっともっと平井家には苦しんでもらいましょう〉
高笑いが頭の中で渦巻く。
血も涙もない母娘だー
勝ち誇った母娘の大笑いがフロントガラスにぎらりと映ったように見えた。
「ひとでなしめが!」
歯を食いしばってハンドルにしがみつく。
「いったい、どうすればいいんだ、おれは!」
平井は身体を震わせ、荒々しく声をあげた。
(完)